読書の記録

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Kindle Paperwhite

2013年12月18日 | その他

Kindle Paperwhite

 

 番外。迷った末、Kindle Paperwhiteを買ってみた。

 もともと、あんな電子書籍で、本読みの醍醐味が味わえるもんか、と思っていた。
 装丁とか手にした重みとかそういうの全部含めて、読書体験である。液晶画面越しに文字を追いかけるのと、印刷された文字を追いかけるのでは、情報処理される脳の場所が違うとかで、前者は頭に入らないのだ、とかそんな記事を読んだこともある。
 たとえこの類のものを買うにしても、所詮はヒマつぶしみたいなものだから、それならば電子書籍を買うのではなく、いっそiPadminiでも買って、WEBのコンテンツを読み、本は本でしっかり買っておけばよい、そんな風に思っていた。

 それが心変わりしたのは、案外に勝手がいいよ、という会社の同僚のを借りて触ってみたらである。
 ユニバーサルなタブレット端末であるkindle FIREとかではなく、完全に読書専用端末のPaperwhiteならば、液晶といってもe-inkとかいう実に読みやすくて目に優しい表示技術なのであった。それにとても軽い。
 たしかに本というのは重たいし、かさばる。文庫ならともかく、ハードカバーともなると、持ち歩くのはやはりなかなかしんどい。勤め人の例にもれず、僕も読書時間はもっぱら会社の行き帰りとか、職場でのランチタイムとか休憩時間とか、あるいはエレベーターでの移動中とかそういうところをこまめに拾っていくので、本が大きくて重たいというのはけっこう致命傷なのである。
 自宅の本棚もいっぱいいっぱいだし、まあ本棚に常駐させておきたい本はちゃんと買うとして、そうでなければ電子書籍でもいいかと思い、購入することにしたのであった。 

 で、Kindle Paperwhiteがamazonから届いたので、何冊か落としてみようと試みる。

 ところが想像以上に書籍が少ない。読書好きには物足りないラインナップだよ、というのは前から聞いていたものの、本当に欲しい本はしっかり書籍で買えばよいので、まあ、せいぜい売れ筋の小説とか新書あたりをフォローする場合ぐらいかな、と想定はしていたのだが、それにしても少ない。たとえば酒井順子の「ユーミンの罪」もなかったし、百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」もない。
 ちなみに僕は図書館でも検索端末のある本屋でも、蔵書の程度を調べるときには紀行作家の「宮脇俊三」の本がどれくらい入っているのかを調べることにしている。Kindle Storeにあったのは「時刻表の旅」「鉄道旅行の楽しみ」「私の途中下車人生」「終着駅」の4冊のみ。しかもなぜこの4冊? というチョイスである。(宮脇俊三ファンならばわかるだろう不思議なラインナップ。「時刻表二〇〇〇〇キロ」も「最長片道切符の旅」も「時刻表昭和史」も「シベリア鉄道9400キロもない)。

 まあ、蔵書は日に日に増えていくのを期待するしかない。まだ、このサービスは過渡期であることは十分にわかっている。


 逆に建設的なところに目をむけよう。

 まず、たしかに手軽である。
 B6判程度の大きさになるのだが、なんとこれ、スーツの裏ポケットに入ってしまう。これで手持無沙汰とは完全におさらばだ(夏場はどうしまおうかまだわからないが)。そして、スマホのように頻繁に充電する必要がない。だから、本当に思いついたときやちょっとした手すきにさっと出せてぱっと読みかけのところからスタートできる。

 また、ぼくはけっこう読書中にアンダーラインを引いたり、ページを折ったりするのだけれど、そういうマーキング機能がとても優れている。アンダーラインをひいたところだけ、テキストがピックアップされてあとで見返すことができるから、いってみれば見どころのダイジェストみたいなものがすぐにつくれることになる。
 なお、マーキングするときは前後の文章も含めて長めにとったほうがよさそうだ。というのは、あとで見返すとき、マーキングされた部分だけ文章が抽出されて見れるのだが、前後の文章がないと、はて、この文言はどういう文脈で注目したんだっけかな、とわからなくなってしまうからである。

 それから、「液晶画面の文字は、紙に印刷された活字に比べて頭に残りにくい」という点についてだが、液晶のほうが黙読のスキャンが早いのか、読みが浅いのか、うっかり咀嚼しないまま進んでしまうことがしばしば起こった。あれ、この人はだれだっけ、とか、いまこの人は何を言ってたんだっけ、というおマヌケな状況が発生するのである。
 どうも表示文字を大きくしすぎることが原因のような気がして、字を小さくして1画面内の文章量を多くした。そうしたらかなりましになった。

 文字を大きくすると、とうぜん読みやすくはなるが、1画面内の文章量は少なくなって、しょっちゅう切り替えなければならなくなる。
 ところがそうするとどうも流れが頭に入りにくいのである。
 さっきのマーキングの話と同様、脳みそというのは、この瞬間に目で追って読んでいる文章だけでなく、前後の文章のつながり、つまり文脈を無自覚のうちに視覚から情報処理しているようで、この前後の文章が遮断されるとどうも頭に入りにくいらしい。
 僕はべつに速読術を身につけているわけでもないが、黙読というのはそういう情報処理なのか、とあらためて発見したところである。


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