読書の記録

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坊っちゃん

2014年06月09日 | 小説・文芸

坊っちゃん

夏目漱石


 朝日新聞に「こころ」が再連載されたことが機になって、漱石本が売れているそうである。

 漱石の代表作といえばみんな筆頭に「吾輩は猫である」を思い浮かべそうだが、傑作となるとやはり「こころ」に人気があるようだ。「こころ」には、世界観と美意識の深刻さ、小説としてのプロットの秀逸さ、巧みな描写と現代人でも意外に読みやすい文体という、ベストなバランスがある。

 いっぽう、「坊っちゃん」であるが、これは漱石文学の入門として位置づけられやすい。シンプルにして明快なストーリー、特徴あふれる登場人物たち、快活な文章は、近代日本文学の中でも極めてハードルの低い作品だと思う。小学6年生の国語の教科書に登場するくらいである(僕が小学生のときの話)。

 さて、この国語の教科書では、もちろん「坊っちゃん」全文は載らない。収録されているのは「親譲りの無鉄砲で・・」に始まる冒頭で有名な第一部のみ、つまり「坊っちゃん」の生い立ちの部分であり、この小説の本編ともいうべき、松山での教師生活は触れられない。ある意味“いよいよこれから面白くなる”手前で終わってしまう。

 ところで、当時の文部省指導要綱では、この「坊っちゃん」第一部を読ませた後、最後に「この作品で作者の夏目漱石が伝えたかったことは何か」というのを生徒たちに考えさせることになっている。僕自身明快に覚えているのだが、生徒にいろいろ発表させたあと、先生から出た答えはなんと「清への愛」であった。(ちなみに「坊っちゃん」未読の方のために説明すると、「清」というのは、坊っちゃんが東京で育っていたときに住みこみで働いていた下女のばあさんのことである)。
このころ、生徒たちの間では教科書ガイド、つまり先生用の指導用テキストをどこからか入手して閲覧することがはやっていて、たしかに国語の教科書ガイドではここに「清への愛」と書いてあるのだった。

 もっとも、そのときの先生は、なぜ、どの部分が、「清への愛」を伝える部分と言えるのかという説明は終ぞしなかった。


 それからずいぶんして、小説家の清水義範のエッセイで、この「清への愛」指導要綱の話が出ていて、こんなひどい話があるかと義憤を訴えているのを読んで、やはりそうかと思った。
やっぱりこれはどう考えても不自然である。本編もはじまっていないたかだか冒頭の一部だけ読ませて、「作者の伝えたかったことは何か」を問いかけるのも無茶苦茶だし、その答えが言うに事欠いて「清への愛」とは何事か。「坊っちゃん」で作者の伝えたかったことは色々あるに違いないが、断じて「清への愛」がその代表的な答えとはならないだろう。まったく文科省というのはこれだから食えない。


 というのが長年の僕の思いだった。

 いったいどこのどいつが、この小説で漱石が伝えたかったことを「清への愛」などと言ったのか。
ここはほとんどうろ覚えなので、間違っている可能性大なのだが、何かのときに、それは文芸評論家の勝本清一郎の説だというのを見知った。いまネットで調べても一切出てこないので、ほんとにただの勘違いかもしれないのだが、だとすれば、あながち的外れでもないのだろう。だが、どこをどう読めばこの小説が「清への愛」となるのか。


 そんなこんなで、先ごろ「坊っちゃん」を読み返してみた。
そして、もしかしたら本当にこの小説の主題は「清への愛」かもしれない、と思ったのである。それどころか、この「清への愛」が浮かび上がるからこそ、この小説は単なる痛快娯楽小説に終始しない、近代日本文学の一端を担うようになっているとさえ思えたのである。

 どういうことか。
 まず、この小説は「坊っちゃん」こと「俺」の手記という体裁をとっている。
で、この手記はいつ書かれたことになっているかというと、清が「今年の二月に肺炎で亡くなった」すぐあとに書かれている。状況証拠としては亡くなって2カ月以内に書かれた手記である。このとき、既に「俺」は松山の教師生活を辞めて東京に戻り、街鉄手を仕事にしながら清と住んでいたのである。
東京に戻ってからの、清との共同生活はわずか4か月程度だったとみられる。その4か月を清はたいへん幸せそうだったと述懐する。

 この小説は、家族の中の鼻つまみ者であった「俺」が、清にだけは可愛がられた思い出を第一部とし、しかしその清にもう金輪際会えないかもしれませんと泣いて見送られながら、松山にむかって出発する。そこからは例の赤シャツだ狸だ山嵐だ、と個性豊かな面々と丁々発止を繰り広げるわけだが、しかし随所随所で清への手紙が来たり、清のことを懐かしんだりする。その場面は必ずしも多くないが、しかし、これは必ず松山の連中との対比であり、「俺」はそのたびに清の美しい人間性を思い出す。なにしろ清は唯一「俺」によってあだ名ではなく本名で呼ばれる待遇を受けている。清のことを思えば、ここの人たちは「化け物」であり、この場所は「不浄の地」である。

 つまり、松山は「俺」にとって「清の不在の地」なのである。


 で、ここがミソなのだが、この「俺」の本名は、この小説ではとうとう最後までわからない。松山の面々も、「俺」のことをなんと呼んでいたのか、この小説では判明しない。この小説のタイトルである「坊っちゃん」、これは清だけが呼んでいた「俺」の呼称なのである。言うならば「俺」は、清によってアイデンティティを与えられている。

 清の亡くなったすぐあとに書かれた手記、そこには清によって与えられた呼称「坊っちゃん」がタイトルとして与えられ、「清の不在の地」での悪戦苦闘を真ん中に両端に清との共同生活の話を配置した追想録である。

 この手記を書かせたのはまぎれもなく「俺」の「清への愛」である。それももはや「今となっては十倍にして返したくても返せない」追想の募る愛である。

 

 もちろんこれは無責任な深読みであるが、「坊っちゃん」で伝えたかったことは「清への愛」というのはそれはそれでひとつの真実な気がする。いずれにしたって、小学生に第一部だけ読ませてこんな回答出るわけはないのだが。


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