読書の記録

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「シン・ゴジラ」と「君の名は。」

2016年09月22日 | その他
 「シン・ゴジラ」と「君の名は。」 (どちらも壮大にネタバレ)
 
 
 評判の邦画を両方ともみたので今回は番外。
 
 ところで、僕は自称「よきゴジラの理解者」である。伊福部昭の音楽には心酔しているし、1954年のゴジラ第1作はセルビデオで持っているし、平成ゴジラの最終回「ゴジラVSデストロイヤー」は映画館で鑑賞し、ゴジラがメルトダウンする最後のシーンで、スクリーンを見ながら泣いてしまったクチである。なにかと批判の多い1984年のゴジラについても、帰巣本能を刺激されて噴火する三原山に死の疾走をするゴジラの姿に、僕はどうしようもない哀れさを感じてしまった。
 そう。ゴジラにおける僕の解釈は「異形の悲しみ」であった。南海の海の底で静かに暮らしているはずだったのに、放射能汚染によって異形の姿にされ、巨大な図体を維持すべく餌を求めると、行く先々でゴジラ本人にとってはいわれのない集団攻撃をしかけられ、最後は罠にはめられて殺される運命にある、悲劇的な生き物だ。
 この話を会社の人間にすると「先輩はゴジラに感情移入するんですか!」と呆れられた。
 そういう変わった鑑賞ポイントを持つ僕にとって「シン・ゴジラ」はあまりにも過去の作品とは距離のあるシロモノであった。シン・ゴジラはあまりにも「ただの生物」だったのである。もちろん、形態はどんどん進化するし、すさまじい放射能光線を吐きまくるし、そのエネルギーの超越性は空前絶後のものではあるが、しかし、その姿は爬虫類的知性の無さというか、そこに「悲しみ」が宿る気配はなく、意思のありかさえ見えず、シンゴジラはただトカゲと同じように、動物的本能のままに動き回るだけで、むしろエメリッヒのゴジラと同じベクトルにあるとさえ思った。
 じゃあ、つまらなかったのかというと、そんなことはなくて、「シン・ゴジラ」はこれはこれでめちゃくちゃ面白かった。
 おそらくこの映画の主題であろう、官僚組織の体たらくや、彼らが一掃されたあとの若い人たちによるゴジラ対策チームの活躍も見ごたえ十分だったし、だいたい東京の街を焼き払うゴジラの大立ち回りのド迫力は、理屈抜きで見惚れるものだった。
  そんなわけだから、これが邦画としては異例の大ヒットと知って、オタクなオトナが増えたもんだ、とまことにご同慶の至りだったのである。

 そんなところに「君の名は。」が、シン・ゴジラの興行成績をあっさり抜いたというニュースを聞いて驚いた。
 「シンゴジラ」のほうはそうとう前から宣伝されていたし、もともとゴジラブランドというのがあるし、監督はあの庵野秀明だし、まあそれなりにヒットはするだろうと思っていた。しかし「君の名は。」は、何かの映画を劇場でみたときに初めてその予告編をみて、そのときはまさかここまで大化けするとは思いもしなかった。男女いれかえも、タイムスリップも、よくあるネタだと思ったのである。
 それなのにこの興行成績だ。中高生に人気があるらしい、とのことだが、職場の人間が、つまり大のオトナが、男女問わず何人も呆然とするくらいに感動したと言ってくるのである。
 これは行かねばならない。話題が話題を呼んでいるという具合で、連休に見に行こうと思ったら、近辺の映画館はみんな予約で満席。これにはびっくりした。先日、会社の帰りのレイトショーをようやく見た次第である。
 男女入れ替えもタイムスリップも並行世界も、モチーフとしては鉄板中の鉄板で、だからある程度は面白い話ができることは約束済で、それゆえに陳腐さから抜け出て傑作にすることは難題でもあるが、「君の名は。」がうまく軌道に乗せたのは「男女入れ替わったときの記憶がなくなる」というところだろう。僕は残念ながら「呆然とするほどの」感動とまではいかなかったのだが、どこかで運命的な人になるはずの人と出会いをしておきながら、何かのすれ違いで深くコミットしないまま、記憶からも忘れられてしまった誰かさんがいたのかもしれない、なんて切なさをちょっぴり感じたのも事実だ。
 この映画がこれだけ人を虜にするということは、「本当は大切な誰かと会っていたのかもしれない」とみんな思いたい、ということなのかしら。過去形型シンデレラコンプレックスとでも言おうか。
 
 

 それにしても、「シン・ゴジラ」にも「君の名は。」にも共通するのは、巨大災害だ。われわれ日本人は、3.11以降、「街がまるごとひとつ失われてしまう」ほどの災害があることをリアリティとして知っている。知っているからこそ、どちらの映画も、共感の接点ができる。
 かつて、ハリウッド映画で、都市や町が根こそぎ壊滅するシーンをみるとき、それはあくまで絵空事中の絵空事で、痛快エンターテイメント以外の何物でもなかった。しかし、ゴジラが東京の街を焼き払い、隕石が飛騨の村を一つ吹き飛ばすことの「悲しみ」に、我々は心の底から共感できる。この「悲しみ」の共感の上に、ゴジラと人間の戦いの行方を真剣な眼差しで見るし、この「悲しみ」を回避するために、互いを探し求めて彷徨する三葉と瀧に万感の思いを抱くのである。

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