オバマ大統領 広島スピーチ
名演説だった。
初のアメリカ大統領現職の広島訪問ということで、事前からそのスピーチが注目されていた。謝罪するかしないかとか、どこまで具体的にふみこむかとか下馬評はいろいろ騒いでいたが、それに堕しないすばらしい内容であった。特に最後の締めくくりが圧巻。ハフィントンポストの訳文だと以下の通りである。
「世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。」
17分に渡る演説は、日米どちらが悪いか、あるいはどちらに原因と事情を求めるかにせず、両者の対立しやすい概念をアウフヘーベンさせ、最後に「未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地」と着地させた。そうとう練りこまれた内容である。草稿を書いたのがオバマ本人なのかその取り巻きなのかはどうでもよい。対立と止揚という西洋論理哲学の真髄をみた気がする。
オバマ大統領あるいはアメリカの今回の広島訪問にあたっての対応は、いろいろ批判もある。70年待たせてたったのこれだけかよ、とか、結局ごめんなさいはないのかよ、とか。むしろ批判どころを探すほうが易しいとさえ言えるだろう。
とは言え、一歩は進んだ。それをまずは評価したい。我々は、原爆投下というアメリカの行為を「許」せなくても、しかし「赦」せないと、我々は、なにも未来に進めない。
オバマ大統領は、就任当初の期待値が異常に高く、その後は下降線の一方だったというのが一般的な評価ではあるが、それでも彼は希望を与える人だった。大統領としてそれは大事な資質だろうと思う。彼の演説は、たしかに人を動かす力があった。そして、その演説には熟慮の跡がある。
この複雑な時代に、単刀直入にスパーンと言い切ることは、カタルシスも手伝って実に気持ちがよい。しかし、本当はこういう複雑な時代だからこそ熟慮が求められるはずだ。トランプ候補がこれからどうなるのかわからないが、熟慮ができる人が大統領とその参謀になってほしいと思う。