テクノロジー思考 技術の価値を理解するための「現代の教養」
蛯原健
ダイヤモンド社
これからの未来社会においてのサバイバル論が盛んである。サバイバルには、「世の中はこの先どうなるかというのを先読みしてそれに備える」サバイバルと「世の中がどうなったとしても生きているようにしておく」サバイバルの2種類がある。
たぶんどっちも大事なのだと思うが、本書テクノロジー思考はいわば前者と言える。つまり、経済発展が技術開発投資を促進させ、テクノロジーによるイノベーションを果たすことが決定された未来への筋道というのであれば、いずれGDP世界一になる中国と、テクノロジーの真ん中をグリップするインドおよび印僑は与件と思っていてよいし、モビリティもヘルスケアもIoTによるアフターデジタルな世界の到来は「いつ」そうなるかはわからないが「いつか」はそうなる。それに備えるのがテクノロジー思考ということなのだろう。
で、本書の感触としては日本は本当にもう存在感がないんだなと思うばかりだ。本書で出てくる日本の企業といえばソフトバンクの投資部門がちょろっと現れるだけである。
欧州はといえばGDPRをはじめとした法規制によってGAFA型のデータビジネスに対抗しようとしている。
そうなってくるとなかなか暗鬱な気分になってくる。本書の表現によれば世界は「テクノロジーか、死か」という局面にあり、その「テクノロジー」はアメリカと中国とインドが握っているのであって、ということは、それ以外の国や地域はなんとかサバイバルしていかなければ死ぬということである。欧州がGDPRで本当にサバイバルできるのかはどうもわからない。
ましてや日本はどうなんだろうか。つまり、日本においても一生活者としてはテクノロジーの恩恵に浴する生活となるのだろうけど、そのテクノロジーを管理しているのは日本の企業ではないということである。アメリカであり(今すでにそうだけど)、中国であり、インドである。日本もGDPRと似たような法律を検討しているようなことは聞いたことがあるけれど、日本政府は欧州ほどアメリカの経済政策と距離を置けないからなかなか厳しいようにも思う。そもそも法律規制でコトの進展を本当に拒むことができるものなのだろうか。
ぼく個人は昭和生まれのアナログ文系人間で、しがない一会社員でしかないから、これ以上デジタルトランスフォーメーション化した世の中はいらないのだけれど、しかし世の中は止まらない。下手に抵抗したり回避したりするとますます状況を悪くするばかりだ。勤め先もこれからどうなるかはまったくわからない。エンジニア部門をインド勢に牛耳られるかもしれないし、親会社や経営に中国が資本介入してくるかもしれない。というか5年10年先にはそうなっていてまったく不思議ではないわけだ。
だからといって、自分の身の振り方を今後どうするべきなのかの答えもない。せいぜいコツコツ貯めた貯蓄をこういったテクノロジー方面に投資信託するくらいかと思うくらいだけど、具体的にどういう銘柄や信託商品をどんな風に買えばいいのかもわかっていない次第である。
そうすると、もう一つの「世の中がどうなったとしても生きていけるようにしておく」ことのサバイバルのほうが頭をもたげてくる。地方で自給自足農業をできるようにしておこうかとか、太陽光パネルのクラウドファンディングに一口乗っておこうかとか。
オチが見えないがなんにせよ今年の日本はいよいよオリンピック後の日本になる。虚脱感などに襲われているヒマはないはずだ。