読書の記録

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ミライの授業

2018年02月13日 | 生き方・育て方・教え方

ミライの授業

瀧本哲史
講談社


 日経オンラインの記事だったかなにかで、さわりの記事を読んでたいそう関心した。で、うちの中学生の娘にでも読ませてみようか、と購入した次第。本書は腰オビのコピーによれば「これは14歳に向けた「冒険の書」であり、大人たちが知るべき「教養の書」である。」とある。

 本書を読んでみて、若い人ーーこの場合は我が娘を想定してなにか付言することがあるとすれば、僕なりの要諦は2つあって、

・統計は武器になる
・パラダイムシフトは世代交代しないと起きない

 ということ。

 前者は、統計こそが史上最強のツールであるような言説を多く見るようになってもはや珍しくもないが、確かに「武器」になる。本人の所属や立場に一定の権威がない場合(たとえば新入社員とか)、彼の言説の説得力を高めることができる武器が統計だ。「私が言っているのではない。統計がそう言っているのだ。」という説得は社長への上申にも通用する。

 ただし、武器になる=正義、ではない。統計はウソをつくし、統計はレトリックにもなる。悪の説得に統計が使われることは珍しくない。

 だから、これは逆に言えば、統計を武器にしておかないと、統計にやられてしまうことがあるということである。統計に騙され、統計に搾取されることがあるのだ。

 あやしげな健康食品のセールスくらいだったらいいが、社会制度設計とか重大なイシューに対しての政治上の意思決定を、巧みな統計のつなぎ合わせで説得力を高め、議会や選挙を通過させる動きは多い。

 統計は、真理を、真実を発見するための手法ではあるが、一方で虚構を、妄想を、あたかも真実であるかのように装わせる魔法でもある。世の中にはびこる統計の半分はむしろこちらかもしれない。

 また何が真理で、何が真実かというのは、ひどく難しい問題であることも確かだ。

 しかし、統計を繰り広げて何かを説得する輩の多くは、なにかありたしと思ってそれをやっている。

 

 その「ありたし」が何なのか。これが重要だ。

 ひとことでいうと、その「ありたし」は、現状を維持したいものなのか、現状を変えたいものなのか、ということ。この「現状を維持したい」というのは、物理的な維持ではなくて、それを支える思想の維持、ようするにパラダイムである。平たく言うと「オレがそうやってきたんだから、お前もそうしろ」あるいは「おれがずっとそう思ってきたんだから、お前もそう思え」。

 この現状維持のために統計が使われだしたら、そのときは危険信号だと思ってよい。

 

 かつてのSFの巨匠アーサー・C・クラークの名言にこんなのがある。

 「名を馳せた老年の科学者ができるといったものはできる。名を馳せた老年の科学者ができないといったものはできる。」

 この発言のポイントは後半にあることはいうまでもない。

 

 しかし、現状をひっくりかえすような、つまりパラダイムシフトはやはり短期間では達成しない。旧世代の抵抗力はそれくらい大きい。大きなパラダイムシフトは旧世代がすべて新世代に入れ替わる、つまり世代交代しない限り実現しないのだ。これを急速にやろうとしたのがほぼすべてのオトナを殺してしまったポルポトということになるから、急進主義は急進主義で大問題なのである。

 ポルポトは論外として、とはいえ、パラダイムシフトを政策や経営やマネジメントにちゃんと計算していれていくのは容易ではない。自動的に価値観を破壊し、交代させる因子をどういれていくか、というのは自己否定をどこかでしていくことを織り込むということだからだ。かといって世代の総入れ替えを待つのはやはり時間がかかる。

 

 上の世代で自らパラダイムシフトを実践できる人というのは本当に数が限られる。真に偉大な人はそれができるかもしれないが、多くのオトナは凡夫なのだ。それが現実の世の生である。そして凡夫な人は残念ながら強い現状維持バイアスがかかっている。

 したがって、若い人は、やはり統計を武器にして上の世代と戦うことである。統計とはさみは使いよう。上の世代も統計で説得にかかる。ただし、それは現状維持のための説得だ。それを打ち壊すにはさらに強力な統計で覆していくしかない。


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