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柳橋 小松屋 03-3851-2783
あれと言うのは柳橋たもとのこちらの昔風佃煮。以前あなごを買った事があるのだが、その辛口さに驚いた。それこそ一切れでどんぶり飯がぺろっと食べれそうな感じ。最近は日本酒の修業中(笑)なのでお酒にも合うかな?と来店。
お店は柳橋の袂、反対側の袂は同じ屋号の屋形船乗り場。店内は一人入って品定めをすると身動きするのがやっとな位。寒い季節の限定品は・・・かきと生海苔。ではそのうちから特選かき佃煮2,160円を購入。なかなか粋な紙袋に入れてくれる。
さて家に帰り日本酒も準備して開封。見事に一粒一粒煮詰められたかきが堪らない。一口齧ると、おぉ、やはり濃い味。口の中ではむはむしているとほのかに磯の香りが広がる。これが江戸の粋ってやつですかね?!お酒が進む。
昔ながらの手間がかかってる分お値段は高め。しかし柳橋は花柳界だった土地柄、その味は本物だろう。自家消費よりも贈り物に利用されてそう。たまにはこういう本物の味を楽しむのもオツだね。
住所
東京都台東区柳橋1-2-1
営業時間
佃煮販売 持ち帰り、
平日 9:30~18:00
土曜日 9:30~17:00佃煮の持ち帰り、穴子や、あさり、など季節限定品は、
天候や季節により入荷が少ない時期は売り切れる場合あり、
電話にて事前予約可、
数の多いおみやげの注文は予約がおすすめ 03-3851-2783
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(花街) 柳橋 やなぎばしは、かつて東京都台東区柳橋に存在した花街。
柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名[2]が居住していた。1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになる。1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名に増加した。
明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。大学生にも人気の盛り場として賑わった[3]。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)[4]。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。
1928年(昭和3年)には、料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した「亀清楼」であった。
第2次世界大戦による休業と被害、敗戦を経て復興した。1952年(昭和27年)は料亭57軒であったが1964年(昭和39年)の東京オリンピック以後、衰退していき、特に隅田川の護岸改修(カミソリ堤防)で景色が遮断され、花街にとって大きな致命傷となった。それでも、花街は世間に迎合せずその伝統を守り通し、1999年(平成11年)1月、最後の料亭「いな垣」が廃業し200年近くの歴史に終止符を打った。現在はマンションやビルが立ち並び、一部の場所で花街の痕跡が残っている。
20161028 東京南東・史跡(碑)
東京都 台東区 柳橋
柳橋 神田川源流付近
神田川が隅田川に流入する河口部に位置する最下流の橋梁で、南詰の東日本橋側に進むと国道14号(靖国通り)上の両国橋西交差点にたどり着く。
その起源は江戸中期、当時は日本橋下柳原同朋町と対岸の浅草下平右衛門町とは渡船で往来していたものの不便な為1697年(元禄10年)に架橋を願い出て許可され翌年1698年に完成。1887年(明治20年)に鋼鉄橋になる。その後の関東大震災にて焼失したため震災復興事業として1929年(昭和4年)に現在の橋が完成。永代橋のデザインを取り入れたと言われている。1999年に中央区区民有形文化財として登録。
柳橋(やなぎばし)は、神田川にかかる橋で、特別区道(愛称:柳橋通り)を通す中央区管理の橋である。南岸は中央区東日本橋2丁目、北岸は台東区柳橋1丁目。橋北詰の台東区の町名でもある。
浅草橋、老舗蕎麦や「あさだ」で、蕎麦懐石を楽しむ。
ratuko00.exblog.jp
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第10回 和食・老舗(創業150年)あさだ 「浅草橋から浅草or御徒町の旅」
...柳橋-亀清楼-小松屋-梅花亭-浅草橋江戸蕎麦手打處 あさだ 食事記録昼の小会席コース 3500円+税 第1回 清澄白河から隅田川、森下の旅 東京散策(路地歩き)夕刻からのお誘い③ ...老舗料理...中年夫婦の外食 2016/10/30 05:07:00ratuko00.exblog.jp
20160209 東京南東 史跡
東京都台東区柳橋
柳橋界隈
柳橋(やなぎばし)は、かつて東京都台東区柳橋に存在した花街。
柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名[2]が居住していた。1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになる。1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名に増加した。
明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。大学生にも人気の盛り場として賑わった。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。
20170224 東京北東 史跡
東京都台東区柳橋
柳橋界隈
柳橋(やなぎばし)は、かつて東京都台東区柳橋に存在した花街。
柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名[2]が居住していた。1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになる。1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名に増加した。
明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。大学生にも人気の盛り場として賑わった[3]。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。
20170512 東京北東 史跡
東京都台東区浅草橋
柳橋界隈
柳橋(やなぎばし)は、かつて東京都台東区柳橋に存在した花街。
柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名[2]が居住していた。1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになる。1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名に増加した。
明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。大学生にも人気の盛り場として賑わった[3]。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。
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