goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

Where is the Love

2005-04-22 14:13:21 | AYU
もうね、おかしいでしょ。ここまで書いておいてライヴ行ってないって。
カミングアウトあゆはパンク?!曲がりくねった道架け橋たる存在林檎ちゃんとあゆの関係?歌は歌のないところから聴こえてくる言葉のおもさ人間として生きてやれ
んなことゴチャゴチャ言ってないで、早くライヴ行ってこい!って話でしょ。

しかし、我ながら凄いわ(笑)。嫌いと思っていたものを好きになってしまうことって、自分の中で凄い大変なのね。というか、ここまで溜めてたのかぁ。噛み砕くのに時間がかかったからってのもあるけど、それだけじゃないんだよなぁ。カミングアウトするの、ほんと勇気要ったんだよぉ。あゆは国内の大物なだけに、色んな情報が氾濫してるから、そういう意味でも、勇気要ったんだ。やっぱ、歪められた情報とか誤解とか驚くほど呆れるほど多いから。でも、好きじゃない人は、それをそのまま受け取ったりするだろうし、それ以上考えようともしないだろうし。もちろん、私が認識していることが本当のことだなんて言わないし、本当のことなんて私にも分からないよ。でも、いくらなんでもってのはあるよ、やっぱ。だからって、私がイチイチあれはねこれはねって書くのは違うと思うし、そんなことをしたいわけじゃないし、あゆについて誰がどう思おうと、それがその人にとっての真実なわけだから、それはそれで良いんだけど。

エレカシや椎名林檎に比べて、あゆのこととなると、こうして躍起になってしまうのは(そんな自分が嫌だし、みっともないって分かってるけど)、やっぱり、あゆが大物だからってのがあると思う。大物っていうのは、いかんせん、努力しなくても、情報ってのが入り込んできちゃうから。エレカシとかだと、好きでもなければ、今彼らが何やってんのかなんてよく分からないと思う。でも、あゆの場合、情報の一人歩きってのが本当凄いから。

ただ、言いたいのは、やっぱり、大物だろうが小物だろうが、自分の目や耳で確かめないと分からないってこと。それは皆同じだよ。やっぱり、情報は情報にしか過ぎないよ。それが本当だろうが嘘だろうが、情報は情報でしか、イメージはイメージでしかないよ。

ライヴ(実物)を観なきゃ分からないとか、具体的なことだけを言ってるんじゃない。なんつーか、「自分 対 ○○」にならなきゃってことかなぁ。もちろん、知り合いにでもならない限り、何かは絶対に介しているけれども。でも、仮に知り合いになったところで、人の本当の気持ちなんてそう簡単には分からないしね。だから、すべての人間は同じくらい「分からない」と思うのよ。その「分からなさ」ってのが、ないがしろにされてしまうと、嫌なのよ。

そんなこと皆分かってるのかも知れない。その上で色々言ったり聞いたりしてるのかも知れない。でも、嫌なのよ。そして、いちいちムカついてしまう自分も、嫌なのよ。さっき、特に好きじゃない人は、一方的に流れてくる情報を受け取って、それ以上知ろうとしないって書いたけど、当然、私だってそうだよ。けど、自分が好きだと思ったものに対しては、大切にしたいじゃない。で、その気持ちが分かりさえすれば、自分が興味ないことであっても、調べたりはしなくても、一方的に流れてくる情報をそれ以上のものに扱ったり、知った気になるなんてことできないと思うんだけど。好きじゃないものだって、自分が掘り下げないだけで、同じだけの奥深さがあるはずじゃない? 同じだけの「分からなさ」があるはずじゃない?

当然、好きなことに対してだって、すべてに触れることはできないよ。でも、大事なのは、自分が触れた一欠片からすべてを感じようとするっていうか、自分で考えてみるっていうかさぁ。そうすることによってのみ、一方通行じゃなくて双方向になるんじゃないかなぁ。何かを介してても、それが繋がるってことじゃないかなぁ。一方通行のままだったら、やっぱりそれはしょせん情報やイメージでしかないと思う。

情報に振り回されるのが嫌で、何も見ないようにするって方法もあるかも知れないけど、それは私にはできそうにない。自分の目や耳で確かめないと分からないからって、自分の目や耳で確かめたものしか信じないと言うのであれば、最終的には、何も見えなくなっちゃうと思うもん。自分の好きなことだけを選んでいくって方法もあるかも知れないけど、それも私にはできそうにない。そんな自分に嫌気がさしたりするけど、やっぱり、世界と繋がっていたいって思ってるからかなぁ。そうじゃなきゃ、自分ていう存在なんてすぐ吹き飛んで消えちゃうって思ってるからかなぁ。もっと自分に自信があれば、こんなこと書かないで済むのかもね。

純潔を突き進むならば、純潔を蝕もうとする邪悪よりも邪悪さを持っていなければならない。

こんな言葉があるらしい。よく分からないけど、純潔を全うしたいなら、邪悪よりも邪悪を知らなくちゃいけないのかも知れない。純粋な人って、案外、汚いことをたくさん見たり感じてきた人だったりするんだろうなって。それを真正面から受けてきた人っていうか。汚いことを見なければ、純粋なものなんて知れないのかも。逆に、純粋でなければ、汚いところになんて向かっていけないのかも。

ま、なんだかんだ言ったけど、エレカシだろうがあゆだろうが、届けられる作品とかステージ上で彼や彼女が発しているもの、私にとっては、それがすべてなんだよ。だから本当は、それ以外はどーでも良いの。それ以上でもそれ以下でもないの。だって、そこにすべてがあるでしょ? そこにすべてを感じられないようなら、結局それはどーでも良いんだよ。それに比べたら、情報なんて風に吹かれて消えちゃいそうだよ。だけど実際は、そういう情報の方が世の中には蔓延してしまう。本人の声とか作品とか表現とかよりも、情報の方がずーっと素早い勢いで蔓延していく。情報は軽いから。きっと、有名であればあるほど、本人の声や顔は埋没してってしまうのかも知れない。だけど、大物ってのは、やっぱり、それに埋没しないだけのものは持ってるんだと思うよ。それに触れようとしないのは別に良い。だけど、そこに埋没している、表層的で形式的なこととは別の部分が、誰にだってあるということぐらい、簡単に想像できるでしょ。ほんのちょっとの想像力さえあれば。

結局私は、エレカシのことも林檎ちゃんのこともあゆのことも、永遠に分からないのかも知れないよ。でも、うまく言えないけど、例えば、あゆで言うなら、「“私が思い描くあゆ”と“実際のあゆ”は違うと知りながら、同じだと信じる」っちゅうことなのよ!

あゆについては、結婚→引退ってのも多いよね。つい最近のライヴでも、マイクを置いて肉声で「ありがとうございました」って言ったら、山口百恵さんを彷彿…とか、またも引退につなげられてたけど、あゆがマイクを置いて肉声で「ありがとうございました」っていうのは、毎回恒例だっつ~の! ってか、ドームでもやったからね、あの人。ドームで肉声だよ! そりゃ誰だって、本当んとこは分からないけど、前インタビューで「結婚と引退がセットになってる妙な習慣も違うと言いたい。あゆは結婚しても、仕事をしなくなるということはないと思う」って言ってたからなぁ。もちろん、気が変わることだってあると思うけど、今回のツアーでも、最後に「また必ず会おうね!!」って言ってくれたし。仮に、あゆに「引退」がちらつくのであれば、それはあゆが「永遠ではない」ってことに意識的な表現をしているからじゃないの? でも、それでこそ表現ってものじゃないの?

極めつけは、これかぁ。これ、挙句の果てには、「長○ファンの陰謀説」まで出たらしい。もうさ、やっぱ、言いたくなっちゃうよ、大概にせえよって。そりゃ、誤解を招く失言だったかも知れないけど。ってか、あゆだから大騒ぎになるわけで、エレカシなんて何回大騒ぎになってるか知れないよ(笑)。でも、あゆは、「あの時は誤解されて確かに傷ついたけど、それよりも、その話を聞いてあゆを信じたい気持ちと、信じられなくなってくる気持ちとの間で揺れている状態の子たちが一杯いたのなら、それが一番苦しかった」って言ってるんだものなぁ。それだから、「Free & Easy」って曲作って、思いを伝えてくれたんだよなぁ。あんな言葉、そう簡単には歌えないよ。結局、ファンしか聴かないのかも知れないけど、それで良いのかも知れない。そこにも書いてあるけど、ファンが分かっていれば、それで良いのかも知れない。だから、ファンじゃない人は、せめて、分かってないってことを分かって下さい(笑)。

そこにも「複雑な環境」とか書いてあるけど、あゆの両親があゆが小さいころに離婚してる話、どれくらい有名なんだろう。私はてっきり凄い有名なことだと思ってたけど。ま、別に知らなくても良いんだけど。だから、話は戻るけど、結婚についても、私なんかよりずーっと結婚(家族)ってものに対して真剣っていうか重く捉えてるみたいで。そんなこと思ったら、結婚、結婚って、普通の神経なら言えない気するよね。

ああ、こんなしょーもない話ゴメンなさい。こんなバカ恥ずかしいこと書くのなんて、今回が最後にしたいよ。でもなぁ、ビートルズやクイーンだって、アイドルってバカにされてたらしいし、好きって言うとバカにされた時期もあったらしいから。別に、あゆがビートルズやクイーンと同等とは言わないけど。でも、結局あゆは、今も人気じゃん。そりゃ、一時期の人気よりは落ちてるかもだけど、本人は「私はもう旬じゃないから」って笑って言えてるらしいし、ずーっと走ってきて、セールスとかそういうものより大事なものを見つけられたんじゃないの? なんと言っても、今も活動してるじゃん。それがすべてっていうか。だから、最後は真実が勝つんだよ! 破壊されんだよ駄目な物はいずれ!(by ガストロンジャー)

とにかく、世界は素晴らしくない!ってことなんだよ(笑)。誰に言ってるのかも何に言ってるのかも分からないけど。おそらく自分にも言ってるんだよ。

ブラック・アイド・ピーズの「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」って曲があって、テロとか戦争のことが歌われてて、こんな世界で<愛はどこにいっちゃったんだ?>と歌われてて、最後に、

当然だよな、だから時々俺は気分が滅入っちまうのさ
愛が見つかるまで、俺はビートを鳴り止ませないぜ


って歌ってた。そうなんだよねぇ、なんか強がりばっか書いちゃったけど、本当は、凄く疲れるよ(笑)。気分が滅入っちゃうことばかりよ。いつも負けそうだよ。でも、

世界は素晴らしくない! だから私も、ビートを鳴り止ますわけにはいかないよ! ミヤジだって「どこへ?」で<俺はペンを置きかねている>って歌ってたし(「ホエア・イズ~」って題名も近いね)。だから私も、ペンを置くわけにはいかないんだよ! 結局は、間違ってることに、負けることになろうとも。


人間として生きてやれ

2005-04-19 14:29:01 | AYU
どんだけクサいタイトルなんだって感じだけど(笑)。今回、GWで皆出かけてて読まないかも知れないから恥ずかしいのは今のうちに書いちゃえ!ってことで(笑)、書き走っちゃいました~。GWスペシャル大放出です(笑)。読んでくれた方には大感謝です。予告通り、「言葉のおもさ」の続きです。

結局、あゆを好きになっちゃったわけだけど、だから私はお終いなのかなぁ(あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた)。うーん、そうかも知れないね。だとしたら、もう一回始めれば良いんだけど、あゆ自体、終わりから始まってるような人だもんね。それが、究極の癒しなのかもと感じる部分でもあるわけで。あの人、一回、自分を葬ってるもんなぁ。

2000年の『vogue』~『Far away』~『SEASONS』の「絶望三部作」と呼ばれてるシングル一連の流れがまさにそれだもんなぁ。「vogue」っていう“流行”とか“人気”って意味のタイトルで、<君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに 散って行くから>って歌ってるし。まだ、ベストも出してない、四大ドームツアーもこなしてない、つまり、傍目には全然これからって見える時期で既に。そして、「Far away」で、<新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる>で、三部作最後の「SEASONS」では、前二作の自分の写真をあゆ自身が持っているというジャケットで(遠近法?を使って三作のジャケが繋がってる)、PVでは喪服みたいな黒い服着てたもんなぁ。ちょっとこれって、結構凄いと思う。あのときのあゆの状況でこれを発想できたのは。自分を見つめるもう一人の自分の目みたいのが、常にある人なんだろうな。インタビューとか読むと、周りが思ってるよりずーっと、自分の置かれてる立場とか状況とか、音楽的にもそれ以外の面でも自分が世間にどう捉えられてるのかとか、良い面も悪い面も驚くほど認識しててビックリするもん。ま、ときどき、何もそこまでっていうか、言わなくても良いことまでバカ正直に言っちゃってるとこあるけど(笑)。

そんな、自分を多角的に見ることのできるあゆちゃんですが、そんな彼女ですら、デビューしてからの超多忙なスケジュールに、自分がやっていることやそれが世間にどう広まっているのかを確認することもできなくて、体を壊して休養したときにやっと確認する時間を持てて、世間での扱われ方を見て「何も伝わってないのかな」と絶望すら感じたらしい。「“浜崎あゆみ”をやっている自分を凄く恥じた」らしい。だからか、上記の「絶望三部作」ぐらいから音楽と(そして自分や自分の状況と)向き合おうって意志が感じられてきたんだけど、追い討ちをかけるようにして、本人の意向を挟む余地もなくレコード会社から「ベストを出します」と決定され、更にそれのアルバム同日発売「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」騒ぎまであり、「ああ、私は“人間”浜崎あゆみではなくて、“商品”浜崎あゆみなんだな」と思い知ったらしい。当時は、「消費されていく対象となる典型的なアーティストであるというのも分かってる」なんていう卑屈というか皮肉というか、そんな発言までしてたし(やっぱりあゆちゃんは生意気ね!笑)。

だけど、あゆはそこで終わらなかったのです。だからこそ、私と出会えたのです(私エッラそ~笑)。そう、ここでキマシタ! 極道あゆ(笑)の名台詞!

「人間として生きてやれ」

キタ―――!

はい。取り乱してすみません。あゆが自らに下した決断は、組織のせいにするでもなく、世間のせいにするでもなく、諦めてしまうでもなく、「人間として生きることを自分に課した」わけですよアナタ! そりゃ、逃げられない状況だったってのもあるだろうけどね。自分の行動一つで株価動いちゃうんだから(汗)。でも、そんな状況から逃げないどころか、その中で人間として生きようとしたワケですよ! 思えば、ベストのジャケが涙なのも、ベストなのに曲を歌い直したのも、人間としての必死の自己主張だったんだろうなぁ。

そっからのあゆは、凄いよなぁ、やっぱ。ああ~、このときをリアルタイムで体験したかったよぅ~!(悔) それを体験できなかったから、こうして長々と書いて疑似体験しようとしてるのかも知れない(笑)。

よく、否定的な意味で商業音楽とか言うけど、どんな音楽だって、お金もらってる以上、構造的には一緒だよね。大切なのは、そこじゃなくて……。あゆはそのへん、全部引き受けてるっていうか、逃げも隠れもしてないっていうか、誤魔化してないっていうか……。

社会の中で人間らしく生きる難しさを、私達は知っている。ともすれば、すぐに社会の歯車、商品になってしまう。傍から見たら、輝かしく見えた彼女だって、自分が大きな社会の歯車に過ぎない、商品に過ぎないと感じていた。けど、社会と言ったって、蓋を開けてみれば、一人一人の集まりに過ぎない。色々な人間がいるゆえに、一人一人が人間らしく生きることが難しくなってしまうんだろうけど、でも、それができなければ、何のための社会なんだろう。それに、人は一人では生きられないということも、私達は知ってるはずで。あゆは、社会の中で人間らしく生きて、自分らしさを獲得しようとしたのだと思う。

あゆは、「あそこまで作り込まれてて凄い」とかよく言われると思うけど、私が本当に凄いと思うのは「そこ」じゃない。「あそこまで計算されていても、その計算に飲み込まれていない」ところだ。「ワインディング・ロード」で書いた「とてつもないバランス感覚」ってそれかも。確かに、あゆのステージや衣装に対する徹底ぶりは凄いと思うし、「浜崎あゆみ」を作っているのは、あゆ一人ではなくて、たくさんのスタッフやファン、メディアの存在なんかも感じる。その辺が、「アーティスト」ではなく「アイドル」として捉えられる要因だと思うけど(でも、どう考えても「人形」じゃないなぁ)、言わば、「浜崎あゆみ」という社会を、「あゆ」を含めた大勢の人達が作っているんだなという印象はある(でも、それってどのアーティストでもそうだよね)。でも、その中でも、しっかりと「あゆ」が見えるんだよね。普通なら、あれだけ巨大な「浜崎あゆみ」というシステム(社会)の中に放り込まれれば、それこそ本当に機械(商品)みたいになってしまうと思う。でも、そうはなっていない。少なくとも私の目には、そう映る。「浜崎あゆみ」という社会の中で、しっかりと人間としての「あゆ」が生きていると思う。「マイ・ストーリーは突然に」「スター不在」で言っていた「99%の中の1%」って、そういうことを言いたかったんだと思う。

きっと、逆説みたいだけど、生身の確固たる部分(人間)がないと、あれだけ機械(社会)のように作り込まれたことってできないんだと思う。私も最初、「機械みたい」って思ってたけど、あのときのあの状況でそうならざるを得なかったというか、でも、そこにある信念というか生身な部分を感じてしまったから、今では、それはまるっきり逆転してしまった。

例えば、B'zとか、それが良い悪いではなくて、その音楽を聴いて、稲葉さんってこういう人なんだろうな~とか、松本さんってこういう人なんだろうな~ってのは、あまり伝わってこないんだよね(私には)。けど、あゆの音楽からは、あゆの人物像というか物の考え方や感じ方、そういう人間くさい部分が伝わってくるんだよね。それは、私があゆを好きだからだけなのかも知れないけど(B'zもちゃんと聴いたら違ってくるかもだけど)、好きになる前からそれは感じていたし、そう思う。

私の目にはそう映るだけかも知れないけど、あれだけの場所にいながら、人間らしさを獲得してるんだもの。だってね、私があゆと同じようなことになったら、す~ぐ本当の機械っぽくなっちゃうよ。す~ぐ飲み込まれちゃうよ。ああいう衣装だって、「着飾ってる」とか「着せられてる」って印象になっちゃうよ。私、あゆの衣装は「着飾ってる」って印象ないんだよね。「+」ってシークレット・トラックがあるんだけど、そこであゆは、<姿を飾れば飾るほど 心が虚しいでしょう 必要ないでしょ そういうことでしょ>って歌ってるんだよね。最初、「うわっ、あれだけ着飾ってるあゆがこんなこと歌ってる~。おもしれー」とか思ってたけど(笑)、本当<そういうこと>なんだよね。思うに、あゆの衣装や演出は、戦闘服みたいなもんなんだよ。「言葉のおもさ」でも不器用な言葉で勝負してるって書いたけど、そんな風に表現が丸裸だからこその戦闘服。だからきっと、あゆの中では「着飾ってる」とか、そういうんじゃないんだろうな。どんな機械みたいな衣装着てても、生身の体一つでぶつかってきてるっていう真逆の印象なんだもん。あまりに丸裸かつ不器用な分、戦闘服が必要になるんじゃないのかな。ギターウルフの人が着る皮ジャンとか、ビジュアル系の人がする化粧とか、そういうようなもん? 衣装に限らず人によって手法は様々だけど、「戦ってる人」なんだなってことは確かに感じるな。しかもその「+」の歌詞、歌詞カードに載せないんだよね、あゆは。粋だな~。

ダメだあ。話がまとまらなくなってきた。とにかく、こういうあゆだからこそ、「社会の中で人間らしく生きる難しさ」と「人は一人では生きられない」という矛盾を知っている多くの人に指示されたのかなぁ(もし、本当に計算されただけの人だったら、ここまでなってなかったと思うし)。この世で生きる人なら、特にここ日本で生きる人なら、誰もがぶち当たることだろうしね。あゆも私とかと大して変わらないんだろうね。

ちょっと前のインタビューであゆはこんなようなことを言っていた。「今までは、機械っぽいっていうか、サイボーグっぽいっていうか宇宙人っぽいっていうか(笑)、そういう感じだったと思うけど、今は、もっと人間くさくありたいと思っている」(発言うろ覚え)。私含めて、あゆについては色々なことを思う人がいると思うけど、もうとっくに色々、分かってるんだろうね、あゆちんは。

ああ、やはり長くなってしまった。やっぱり、私にはできないんだよ。アーティストや音楽を、機械やアクセサリーやゲームやオモチャのように扱うことは。バーチャルなもののようには、扱えないんだよ。やっぱり、人間としてだったり、そういう風にしか捉えられない。基本的には。だからこそ、こんな風に恥ずかしーーーい文章になってしまうのかも知れないけど、でも、私には、あゆを機械だとかアクセサリーのようには扱えないの。

これでやっと、疑似体験(整理とも言う)が一段落して今のあゆの『マイ・ストーリー』に追い付けるかな?(ウマイ!) それが、あまりにも絵に描いたようなストーリーだったとしても、事実は小説よりも奇なり! 「本当のような嘘」だと思ってるものも「嘘のような本当」かも知れない! そりゃ本当のことは分からないけどね、ただ言えるのは、これは、バーチャルじゃないんだよ! リアルなんだよ!

非常に長く熱苦しい話、失礼いたしました。ああ、恥ずかしい。冒頭でも述べた通り、読んでくれた方に大感謝です。それにしても、最初は嫌いだったのに、何こんなに語ってんだろ(笑)。っていうか、いつの間にこんな語れるネタ(?)溜まってたんだろ。ここで語ったようなことって、そんな語られてることじゃないし、それこそ好きでもなければ知らないことだと思うし、大分後になってから明らかになったこともあるのに。もちろん、ほんの少し前まではこんなこと全っ然知らなかったし。私いつの間に? 自分、コワっ(笑)。


言葉のおもさ

2005-04-17 17:27:50 | AYU
昔の記事を読み返してみると、今よりまだ勢いがあるなぁと思う。最近は、勢いというか何というか、そういうのがないなぁ。更新を怠りがちだとか、内容が過去のものだとか、そういうところに理由はないのは分かりきっている。

自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは

ってのは、あゆの「TO BE」って曲の歌詞だけど、以前私は、あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた。って、本当に失礼極まりない奴だな私は(笑)。もちろん、多少オーバーに言ってますよ。それに、好きになったからこそ言えてるわけで。ま、今じゃ、ごめんなさいってところなんですけど(笑)。

言われなくても分かってる。教科書にでも書いてありそうな言葉。私は、<夢は叶えるもの 人は信じ合うもの 愛はすばらしいもの>ってのに対して、<もういいって もういいって>と歌うシロップに共感していたつもりだったし、そんなシロップだからこそ信じられるような気がしていた。そういう場所と浜崎あゆみって対極にあると思っていた。

でも、思ってたより私は単純だったようだ。そして、複雑でもあったのだ。そんな彼女の歌に反応してしまった。別に、詞を良いと思ったわけではないけど、彼女の歌を構成する要素として詞は確かにあるわけだし、私が何か(特に音楽)を好きになるときは大抵そうであるように、彼女のこの部分に惹かれたとかそういう部分的な惹かれ方ではなく、総合的な惹かれ方をしたわけだから、切り離せるものではない。そして、驚くことに、シロップも<愛しかないとか思っちゃうヤバい>とか歌いだした。「愛とか希望とか歌いだしたらお終いだと思っていたけど、歌いだしましたねぇ」というようなことを五十嵐くんは言っていた。

どんな言葉でも、言葉それ自体に、薄っぺらいも重たいもないんだよね。どんな言葉だって、重くも軽くもなる。そして私は、重い言葉が聴きたいわけでも、軽い言葉が聴きたいわけでもなかったんだ。飾りとしての言葉なら、重かったりも軽かったりもするんだろう。でも、言葉が飾りじゃなくなったとき、それは重くも軽くもなくなって、それこそ「歌」になるのかも知れない。

言われなくても分かってると感じたのは、それを私が言ったり言われたりする必要がなかったからかも知れない。今、私がそれを必要としてるのかどうかはよく分からないが、どうであれ、あゆは、彼女自身がそのとき言ったり言われたりする必要がある言葉を歌っているんだと思い知らされた。何を歌っているかとかそれがどこからきたかとかより大事なのはそこなんじゃないかと思った。

シロップだって、あゆだって、そんなに変わらないのかも知れない。ただ、夢とか愛とか、誰かに決められるのではなくて、自分の手で見つけたいってだけで。そうじゃなきゃ、リアルになんて感じられないってだけで。それに、好きになる前は知ってる気になってただけ&イメージに惑わされて分からなかったけど、あゆもシロップ的なこと(?)歌ってるんだよねぇ。そういう、自分の手でっていう、自分の手でなんとかリアルを掴もうとしているってところは、シロップもあゆも共通してると、私は思っちゃうんだけどねぇ。そんなの私だけかも知れないけど(苦笑)。

それと、教科書にでも書いてありそうな言葉で勝負しているあゆは凄いなと思うよ。逃げ場ないもん。あんな歌詞、下手に歌ってしまえば薄っぺらくなっちゃうからね。だから、飾りに逃げちゃう人だっていると思うし、その逃げが飾りを超えてアートになる人だっていると思うし、それはそれで良いと思う。けど、あゆはそういうのとは違うよね(今のところ)。すっごい不器用な人だと思うんだけど。で、そういう言葉で勝負してるにも関わらず、あの説得力。だって、好きか嫌いか、共感できるかできないかは別として、誰も踏み込めないもん! 歌っているあゆには、誰も近づけませ~ん! ステージ上のフレディ・マーキュリーに、バッターボックスのイチローに、誰一人触れられないようにね! でもそれって孤独と背中合わせなのかもね。世界の中心で、愛をさけぶってこういうこと?(笑)

でも大丈夫。ファンがそんな孤独な場所からすぐに引きずり下ろしてあげるから!(笑) だから何度だって、その孤独な場所に戻っていけるのかもよ? 『ヴェスパタイン』のころのビョークに、アラーキーこと荒木経惟が「(彼女は)天女のように死に向かって飛んで行こうとしてる。だから俺が足を掴んでひきずりおろしてやるよ。掴む時にスカートの中は覗くけどな(笑)」なんていうとっても素敵なことを言ってたけどね。ま、それと同じかどうかは分からないけど。あゆも、一時期の世界の中心ぶり(苦笑)は脱したと思うし。一時期は、自分の状況とか分からなくなって、右も左も上の下も真っ白な壁に囲まれているような感覚に陥ったそうだから…。

あゆが表現してたのって、(結果的にだけど)究極の癒しかも知れないなぁ。だから、聴く人によってはウサン臭くも思えるのかも。でも、癒しなんてウサン臭さと表裏一体のものだろうしね。音楽からして、ウサン臭さと表裏一体だしね。ま、このごろのあゆは、またちょっと違うんだけどね。そこは脱したというか…。

ああ、ダメだ~。また長くなってしまう~。いつまでたっても終わらない~。今回の話もうまくまとめられない~。しかも、どんどん恥ずかしい内容になっていってる気がする~。

というわけで次回へ続く! って続くんかい!

*** P.S. ***

「TO BE」であゆは、こうも歌っている。

決してキレイな人間(マル)にはなれないけれどね いびつに輝くよ

あ~、「魂のかたち」でも「凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居してたりとか、そういう両極端な(いびつな)感じが好きなのかも知れない」って書いたけど、やっぱりいびつな人に弱いのね~私。うーん。でも「TO BE」、良い曲だわぁ。99年の曲。


スター不在

2005-03-06 15:18:34 | AYU
あゆが、3月24日に行われる『愛・地球博』の開会式でオーケストラをバックに「A Song is born」を歌うんだってよ! 天皇・皇后両陛下、小泉首相の前で歌うんだってよ! すげー。なんだよー! 勝手に出世しやがってー!(笑)

考えてもみれば、あゆ、『ゴールドディスク大賞』のときだって、ジミー・ペイジを差し置いて大トリだったもんな。レッド・ツェッペリンだよ? 三大ギタリストだよ? ツェッペリンがいなかったら、エレカシもナンバガもデリコも生まれてなかったかもだよ。それを差し置いて大トリ! ジミー・ペイジの横で笑顔で手なんか振っちゃって。あゆ、すげー。あんときは、あゆとジミー・ペイジの2ショットに興奮したなぁ(私だけ?)。女子十二楽坊、邪魔! 面積とりすぎ!ってね(笑)。この興奮をぶつけたくて側にいた親に向かって、「いや、だからジミー・ペイジだよ? レッド・ツェッペリンだよ?」って、「エリック・クラプトンとジェフ・ベックで云々かんぬん…」って、私はスクール・オブ・ロックか!っちゅう勢いで(笑)。いやぁ、あゆ最高!

というわけで、開会式、みんな見てね(笑)。あゆは第三部らしい。そう言えば、「A Song is born」は、911のチャリティーで作られたと思うんだけど、小室哲哉作曲(作詞はあゆ。KEIKOとデュエットしてたなぁ)。でも、小室色に染まり切ってないのよねぇ。そういや、つんく♂もあゆに「LOVE~Destiney~」書いたけど、これもまた、つんく♂色に染まり切ってないんだよねぇ。どちらも強力プロデューサーなのにね。あゆは、自己プロデュース派なのね!

ということで、いきなり変なテンションでごめんなさい。それを記念して、ちょっと考え(過ぎ)てみたことを――。

私はどうしてあゆの音楽に惹かれてしまうのだろう。エレカシや椎名林檎、ビートルズやクイーン、シロップ、ブランキー、ビョーク……他の好きなアーティストについてなら、どうして惹かれるのか何となく分かるのに。

どうして惹かれるのかは、案外、どうして嫌っていたのかを考えると分かるかも知れない(最初は嫌ってたから)。最初、彼女は音楽なんてどうでも良いんだろうなって感じがして嫌だった。でも、それだけだったらそこで終わる。彼女が違ったのは、音楽なんてどうでも良いって風なくせして、歌いだすと、急に命を吹き込まれたかのように感極まってんだもん。それには、ただちょっと演じる(感情移入する)のが上手いだけってのでは片付けられないものがあった。ただ音楽なんてどうでも良いんだろうなって人だったら、その人はそうなんだなってそこまでで、別に何とも思わないけど、彼女は、音楽なんてお構いなしって風なくせして、歌いだすと、音楽に囲まれると、急に感情が溢れ出して感極まってんだもん。それなのに、音楽なんてお構いなしって感じ。それが私にはシャクに触ったんだと思う。要は、嫉妬してたんだ。私はこんなに音楽が好きなのに、コイツは、音楽なんて知らないって感じのくせして、音楽から選ばれてる~! しかも本人それに気付いてない!?って。

幸か不幸か、彼女は、彼女自身が音楽に出会う前から、音楽に選ばれてしまったのだろう。もともと歌手になりたかったわけではなく、スカウトされてなったわけだし、実際のところ、音楽を舐めていたのかも知れない。音楽について、あまりにも無知で無防備で無自覚だったかも知れない。でもそれは、裏を返せば、あまりにも丸裸で純粋な音楽との向き合い方だったとも言えるのかも。宇多田ヒカルや椎名林檎が持っていたものを浜崎あゆみは持っていなかったかも知れないが、宇多田ヒカルや椎名林檎がどう転んでも持ち得ないものを浜崎あゆみは持っていたのかも知れない。

しかし、それだけだったら、そのままだったら、そこで終わっていただろう。少なくとも私の中では。

確かに、私にとってあゆの音楽は、それまで聴いたことなかった新しさをくれるわけでも、特別に自分好みの音楽ってわけでもなかった。でも、そんなこと、どうでも良くなってしまう。あれ? ってことは、これは、音楽なんてどうでも良くなってしまう音楽? 何それ? いよいよ私は音楽なんてどうでも良くなってしまったの? いや……

つまり、彼女の音楽は、音楽のための音楽ではなかったということだろう。だから、音楽が好きな私には拒否反応が出てしまったのかも知れない。でも、どうだろう。音楽は、音楽のための音楽であって良いのだろうか。無論、そういう音楽もあるのだろう。でも、音楽なんて、そのままじゃただの空気の振動だ。私には、音楽より大切なものがたくさんあって、それに比べたら、音楽なんてなんて小っぽけなものなんだろう。音楽なんてなくて済むのなら、ない方が良いのかもね。でも、おかしいかな。そういう大切なものを思えば思うほど、音楽を呼び寄せてしまう。また、音楽によって、大切なものを取り戻したりもする。それがなければ、音楽なんてちっとも大切に感じられないかも知れないよ。結局、私はそういう聴き方しかできないのかな。あゆは、そういう私にとって、音楽が好き故に陥りがちな盲点をちょうどタイミング良く突く存在だったのかも。

確かに、あゆの音楽は、音楽のための音楽ではなかったかも知れない。乱暴な言い方かも知れないけど、彼女は最初、音楽なんてどうでも良かったのだろう。けれど、皮肉なのか何なのか、彼女が歌い出したときの姿(歌声)は、私にとっては「音楽そのもの」だった。音楽という概念すら生まれる前の、根源的な何かだった。『歌は歌のないところから聴こえてくる』――早川義夫のアルバムにこんなタイトルがある。歌が歌のないところから聴こえてくるのであれば、彼女の姿(歌声)は、その歌のないところ、つまり、歌の出どころそのものだったのではないか。それはきっと、「生きている」とか「私はここにいる」とか、そんな単純なことだ。それが、ひどく形式的で機械的で記号的な音楽の中に、ぽこっと存在している。音楽が機械的であればあるほど、その歌の出どころだけが生々しく丸裸になっていく。その図式。99%の中の1%。「歌」さえ知らないまま剥き出しになった「歌の出どころ」。私は無意識のうちにそれに惹きつけられていたのか。それとも、その「歌のないところ」が「歌」に辿り着いて欲しいと密かに願っていたのか。

少し話は変わるが、椎名林檎が、自分達の世代のことを聞かれて「スター不在」と答えていた。それ故、「自由」で「不謹慎」だと。そう。私は、エルヴィス・プレスリーもビートルズも三大ギタリストも日本語ロック論争も知らない。後から知ってその音楽に感動することはできても、それをリアルタイムで体験した人のようには知ることはできない。私はビートルズが大好きだけど、きっとリアルタイムの人のようには絶対的な存在として感じられてはいない。ポップ・ミュージックはもともと外国のものだったと言われても、頭では理解できても心では理解できない。生まれたときから音楽は街中に溢れていたし、レコードではなくCD世代で、アルバムが高くて買えなかったわけではない(最近じゃiPodとかもあって場所さえもとらない)。それどころか、レンタルというものまであり、品揃えも豊富で、録音だって簡単にできてしまう。そして、次から次へと新しい音楽が生まれてくる。それでも自分は音楽が好きだから音楽を大切に思っている!と言いたいところだけど、やっぱり昔の人が持っていた音楽に対する有り難みや重さに比べたら、随分と軽くなってしまったのだと思う。だからと言って、それを悲観しているわけではない。それだけ音楽が生活に浸透し、発展したということだし、現に今も音楽は消えずに街に溢れているのだから。ただ、それを認識することによって見えてくること、認識しなければ見えなくなってしまうこともあるかも知れないってことだ。

例えば、今じゃ、ドーン!としたビートルズのような存在がいるわけでもなく、様々な音楽が溢れ、音楽に対する接し方も人それぞれだ。音楽を手放せない人もいるだろうし、ときどき聴くくらいの人もいるだろうし、音楽なんて特に興味ない人もいるだろう。そして、その誰に対しても、音楽は平等に開かれている。こんな風に街に溢れ、色々な音楽がある中で、それは特別な人達だけの特別なものではなくなった。それはある意味、自由とも言えるけれど、「スター不在」とか「神不在」とも言えるのかも知れない。私にとっての音楽と他の人にとっての音楽は違っているし、一つの正しい答えなんてのも見当たらない。宗教のように、絶対的な何かがあったら楽なのかも知れない。でも、「神不在」。もはや音楽は、エルヴィスのものでもビートルズのものでもなくなり、誰のものでもなくなった。だから、ある意味では自由に、ある意味では不謹慎にもなれる。しかし同時に、自分の手で音楽を見つけなくてはならなくなったのではないか。音楽は決して誰のものにもならないけれど、だからこそ、誰のものにもなる。スターも神も不在になったのに、なぜ音楽はなくならないのか。人は音楽に何を求めているのか。音楽は宗教じゃなくなったかも知れないけど、自分の宗教を鳴らすものとして今も私達の側にあるのかも知れない。

そして、椎名林檎と浜崎あゆみ。どちらも大きな現象となり、もう本当に色んなことを言われまくったであろう両者だが、林檎ちゃんがそれにダメージを受け、「三枚で辞める」発言とか、妊娠ということはあったものの一時期表舞台から姿を消す必要があったのは、彼女には守るものがあったからだと思う。守るものっていうのは「音楽」だ。それに対して、あゆには、それすらなかったんだと思う。だから、突き進むしかなかったんだと。そして私には、そのどちらもが正しいと思えるのです。

あゆは、自分なりに「音楽」と向き合い、自分なりに「音楽」を見つけたんだと思う(『Duty』あたりから全然違うもんね)。私は音楽が大好きだけど、それが誰のものにもならないことも、誰のものにもなることも知っている。音楽は自分で見つけるしかない。彼女の音楽からは、それが彼女にとっては自分が見つけた音楽なんだってことが伝わってくるから、グッときてしまう。それは、自分で作曲したとかしないとか、そういうことでは計り切れなくて…(それを私に最初に教えてくれたのはあゆかも)。宗教としての音楽を失ってしまったら、そこにしか音楽が残されていないのかも知れない。けど、そこに立ち返ったとき、歌が歌のないところから聴こえてくるのかも。今じゃ、彼女の音楽にも、その音である必然性をちゃんと感じるよ。音に対しても驚くほど自覚的だし。何も持っていない、音楽と出会ってもいないところからスタートして、音楽を見つけ、音楽である必然性まで獲得したあゆの道のりは、感動的ですらあるよ。それに、音楽が好きになればなるほどぶち当たる、音楽が単なる空気の振動でしかないこと。それも彼女はちゃんと知っている。

って、偉そうに勝手なことばっか言っててすみません!(汗) もちろん、あくまで私が思ったことで。そりゃ、本当のところは分からないけどさ~。でも、とりあえず今は、こんなこと思ったんです。だから書いてみました。でも多分、言いたいことは、「あゆの何が好きかって、歌声が好きなんだよね」って、ただそれだけのような気もします(笑)。これだけ書いておきながら(笑)。あ、あと、開会式見てね、か(笑)。いやぁ~、ここまで読んでくれた人、ありがとです!


架け橋たる存在

2004-12-18 15:26:38 | AYU
やっぱり、突っ走りすぎたかなぁ? カミングアウトしてからタガが外れたように書きまくってしまったけど、皆、引いてるかなぁ? 不安。それに、いつもこう熱中症(?)だと思われたら困るなぁ(笑)。信じてもらえないかもだけど、すごく醒めてる自分もいるんだけどねぇ。矛盾した奴なんです。矛盾の中でしか自由に泳げない奴なんです。ってカッコつけすぎだねこれ。興奮してる自分も冷静な自分もなるべく全部ひっくるめて書いてるつもりだけどねぇ。

それで、この日はねぇ、も~~~すっごいことがあったんです。でも、自分の中でまだそれを書くときじゃないんですよね。書けるときがきたら、書きたいとは思いますけど(第三者から見たらそんな大したことじゃないんで安心して下さい…笑)。書くタイミング、順番――他の人からすればなんてことなさそうなことでも、自分にとっては重要ってことありますよね。じゃ何も書くなって言われそうだけど、続きがあるんですよ。この日はそれプラス、人との出会い、繋がり、運命の不思議を感じる日でもあったんです。だから、それにちなんで、今回は「繋がり」をテーマに書いてみたいな、と。ってことで、私が発見した嬉しい繋がりをいくつか紹介したいと思います。熱苦しい話が続いたんでね、今回はラフに♪

で、どんな繋がりかというと、またまたあゆ絡みです。なーんだ…と思ったそこの貴方! ちょっと待って下さい! 繋がりってことだから、当然、繋がり先があるわけですよね? 繋がり先はもちろんあゆじゃないですから。だからまぁ、読んで下さいよ。ね? ね? 今回はラフだし♪

久保田光太郎
はい。エレカシファンならお分かりですね? 最新アルバム『風』(04年)で4曲のプロデュース・編曲を担当(シングル「友達がいるのさ」含む)。5曲でギターも弾いています。「達者であれよ」では、宮本さんと一緒に作詞・作曲までやっちゃってます。ライヴも、ひたちなかでサポートしました。そんな久保田光太郎さん、あゆの最新アルバム『MY STORY』(04年)にも関わってましたぁ! 嬉すぅい! これを発見したときの私の喜びようったらなかった。光太郎さんは、アルバムの最後を飾る曲「Humming 7/4」の編曲を手がけています。この曲は、あゆ作曲で(作曲のときはCREAという名義――私、好きになるまで知りませんでした)、あゆのロック好きが炸裂。あゆ、ロック好きみたいだから。小さいころは親戚か何かの影響でレッド・ツェッペリンやディープ・パープルを聴いてたとのことだけど(のめり込んでってほどじゃなかったっぽいし、強いて言えばって感じみたいだけど)、それ、どこぞのバンドの宮本って人と一緒じゃないですか?(笑) 他にもスマパンとか好きらしいし、実は結構ロック好き? いやん、話合っちゃうかも(←バカ)。というわけで、この曲は、もろロックって感じなんですけど、あゆにしては珍しく解放されたような、自分の言いたいことをストレートにぶつけたような攻撃的なところが清々しくて気持ちイイ曲(ちとムカつくぐらい?笑)。アルバムの最後を飾る曲だし、シングルじゃないのにプロモまで作ってるし、本人作だし、おそらくあゆにとっても思い入れのある曲なんだと思います。そんな曲の編曲を手がけたのが、エレカシとも一緒に結構深く仕事をした(しかも近い時期に)光太郎さんだなんて私は嬉しいのです。この曲で、光太郎さんは、編曲だけでなく、もちろんギターも弾いてるし、コーラスでも参加してます。光太郎さんの声を聴いてみたい方、またはギター・プレイを聴いてみたい方、『MY STORY』(04年)はいかがでしょうか?(笑) ま、プロモも作られていることだし、見る(聴く)機会も結構あるかも知れませんけどね。

亀田誠治
もうお分かりですね。椎名林檎の新バンド、東京事変のベースの方です(こう紹介するのも変な感じ)。林檎ちゃんとは、デビュー時から編曲や演奏(ベース)でずっと関わっているし、林檎ちゃんも「師匠」って呼んでいるほどですから。林檎ちゃんだけじゃなく、色んなアーティストを手がけています(スピッツとか平井堅とか黒沢健一ex.L⇔Rも!)。そんな亀ちゃん、あゆとも仕事してましたぁ! いやぁ、嬉しいですねぇ。『RAINBOW』(02年)の「Close to you」って曲で(これもCREA作の曲)、編曲を担当しています。ベースも弾いていますよ。ちなみに、中山信彦がプログラミングを担当。中山信彦は、林檎ちゃんの『勝訴ストリップ』(00年)のほぼ全曲でプログラミングやシンセを担当しています。ライヴもサポートしてました。

西川進
椎名林檎作品で結構ギター弾いてますよね。『無罪モラトリアム』(99年)で6曲、『勝訴ストリップ』(00年)で5曲。あゆの曲でもギター弾いてました。それが「July 1st」です。『RAINBOW』(02年)収録。ベースも弾いてます。私が、こんな爽やかギターの曲もあるんだと驚いたという曲です(「ワインディング・ロード」参照)。

名越由貴夫
UAファンなら聞いたことありますね? 「悲しみジョニー」や「ミルクティー」でギター弾いていますし、アルバム『泥棒』(02年)でもギターで全面的に参加しています。そのあとのツアー『空の小屋』(02~03年)も一緒に回りましたよね。そして、はい、あゆの曲でもギター弾いてました。『RAINBOW』(02年)収録の「independent」という曲で。

小林信吾
編曲家でもあり、作曲家でもあり、キーボード・プレイヤーでもあり。KANの「愛は勝つ」の編曲を担当、演奏もしています。アルバム『野球選手が夢だった』(90年)では、8曲の編曲を担当。KANの他作品も数多く手がけています。いやぁ、KAN好きですよ。ライヴにも行きました。小林さんは、最近では平原綾香も手がけていますよね。で、あゆの曲も何曲か編曲・演奏しています。『Duty』(00年)の「teddy bear」や「girlish」などなど。というか、それ以上にあゆとは関わりが深いみたいで。ツアーにも音楽監督として関わっているし、CX系『ayu ready?』でも音楽監修を担当したらしいし。あゆのツアーでいつもキーボード弾いてるんですよ(いつからかはちょっと調査不足で分からないけど、最近はずっとみたい)。ライヴDVD見たけど、あゆに「ボス(だったかな?)」って紹介されてました。ってか、あゆのツアー・バンドって、ギターは野村義男(よっちゃん)だし、ベースは元バービーボーイズのエンリケさんなんだものねぇ。

玉田豊夢
「100s(ひゃくしき)」と言えば分かりますかね? 中村一義の新バンドです。そのドラムの人です。あゆの最新アルバム『MY STORY』(04年)でドラム叩いてました。「About You」って曲です。この曲も「Humming 7/4」同様、シングルではないけれどプロモが作られているから、見る(聴く)機会も結構あるのではないでしょうか。

いやぁ、こういうのは探せば他にも色々あるんだろうなぁ。とりあえず今回はこんなところで。一応、クレジット等を元にしているので間違いないと思いますけど、間違いがあったらゴメンなさい! 同姓同名とか(笑)。それに、あくまで私のアンテナで書いてるから、もっと違うアーティストとの繋がりがあったり、各人の紹介ももっと他に書くべきことがあるだろってのもあるかも知れません。いやぁ、私ったらオタクですね。いやいやまだまだぜんぜん修行足りないですけどね。音楽って楽しい!