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sky is blue

言わなければよかったのに日記

美しきバランス感覚

2006-04-08 20:54:46 | AYU
「1.2.3.4 YOU and ME?」「和な二曲」「ボ~~ルド & デリシャァァス」と、2005年のシングルについて書いてみて、やっぱりあゆは、バランスを重んじるというか、バランス主義というか、バランス感覚の優れている人なんだなぁと、今更ながらに気づかされた。あゆのバランス感覚が顕著なところなんて、探せばいくらでもあるような気がする。

例えば、「HEAVEN」が“作品(映画『SHINOBI』)のために作った曲”だとしたら、そのc/wには“自作(CREA作)の曲”「Will」を持ってくる。「fairyland」で“大掛かり”なPVを作ったと思ったら、その次の「HEAVEN」では“極めてシンプル”なPVを作る。『HEAVEN』がc/w含めて“和”なシングルだとしたら、次の『Bold & Delicious / Pride』では大胆な“洋楽との折衝”を試みる。「Bold & Delicious」一曲の中でも、“ハッピー”と“悲しみ”を混在させる。「fairyland」で<僕達は今最も永遠に近い場所にいる>と“永遠”を歌ってみせたと思ったら、そのc/w「alterna」では<変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ>と“変化”を歌ってみせる。また、「alterna」や「Will」なんかは、浜崎あゆみのより“コア”な部分が感じられる曲のように思うが、対して、「fairyland」や「HEAVEN」は、浜崎あゆみのより“ポップ”な部分が出ているように思える。

こんな風に、2005年のシングルだけ考えてみても、あゆの作品には、常に、徹底して貫かれている「バランス感覚」を感じる。これは、前から感じる部分であったし、今にはじまった話ではない。探せばいくらでも語れる要素があるように思う。最先端でありながら古風である、とかね。

例えば、あゆのことを、「アイドル」と捉える人もいれば、「アーティスト」と捉える人もいる。「アイドルとアーティストの良いとこどり」だなんて文章も見かけたことがある。それが「中途半端な感じがして嫌だ」という人もいるみたいだ。私なんかは、「アイドル」とか「アーティスト」って言葉は抜きにしても、一体、あゆのどこをどう捉えたら「中途半端」になるのか聞いてみたいくらいなのだが…。

とはいえ、8年も活動してるってのに(2006年4月8日で8周年、オメデトー!)、未だに、「アイドル」という人もいれば「アーティスト」という人もいるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うんだけど、どうでしょ? 別に、「名前」としての「アイドル」とか「アーティスト」にこだわりたいわけではない。ただ、あゆが、そうやって、「アイドル」とも「アーティスト」ともつかない存在で捉えられているのだとしたら、どうしてそうなっているのか。そこが重要なんじゃないかなと思ったわけです。で、それには、あゆの「バランス感覚」が大きく関わっているんじゃないかと。

あゆのことを「アイドル」と捉える人は、どうしてそう捉えるのだろう。衣装とかメイクとかPVとか、見た目が派手だから? う~ん。「アーティスト」と呼ばれてる人にだって、ビジュアル面で大きく訴えてくる人はたくさんいる。自分で作曲しないから? まぁ、あゆはCREA名義で作曲もするのだけど、これはファンじゃない人は知らない人もいるだろうから、作曲しないからって理由も考えられる。でも、じゃあ、UAとかはどうなるの? UAも、最近は自分で作曲もするようになったけど、最初はずっと人が作曲した曲を歌っていたし、今だって全部自分で作曲しているわけではない。「作詞は自分、作曲は他人」という点では、UAだってあゆだって同じでしょ。でも、UAのことを「アイドル」って捉えてる人はほとんどいないような気がする。これは、売り出し方の問題なのか?

「自分で考えてやってる(感じがする)」のがアーティスト、「他人が考えたものをやってる(感じがする)」のがアイドル、ってことなのかな? う~ん。よく分からないねぇ。だって、あゆは、「他人が考えたものをやってる」って感じしないもの。それとも、あゆのことをアイドルって捉えてる人は、そう思ってんのかね? 「音楽面は人任せにしてそう」とか? レコーディングでもプロデューサー的役割をこなし、CMJKに「彼女は自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い」とまで言わせる「音楽家」なのにねぇ。他人の手を借りるのは、アイドルだってアーティストだって同じだし。「思想」とか「意志」が感じられるかどうかってことなのかな? あゆの作品からは、「思想」とか「意志」、感じられるけどね。「音楽が最優先(大前提)にあるかどうか」とか? う~ん。あゆは「音楽を最優先(大前提)にしている」と思うけどね。

まぁ、あゆについては、最初のイメージってのが根強いのかな。スカウトされて歌手になったとか、売り出し方とか、エイベックスとか、そういう背景によるところが大きいかもね(UAもスカウトじゃなかったっけ?)。あと、インタビューとか語る場があまり与えられてないってのもあるかも(とはいえ、あんまり語りすぎるのもどうかと思うんだよね。アーティストなら、まず作品で語って欲しい! その点、あゆは凄いかも…)。

ちょっと言っておきますと、私は、アイドルもアーティストも「表現」においては「同等」だと思ってます。他人が考えたものであれ、自分が考えたものであれ、最終的にはその「表現者」の手に委ねられるわけだから。もちろん、「同じ」と言ってるわけではないですよ。「それぞれの魅力」があるって言ってるんです。ただ、私、日本でホントに「アイドル」っていえる存在って、減ってきてると思うんだけどなぁ。ジャニーズとかハロプロとかしかいなくなってる気が。もう、「アイドル/アーティスト」って分けること自体、時代遅れになっちゃってる気が。それが良い悪いじゃなくね。

以上のことを踏まえた上で、私は、あゆがやっていることは、「アーティスト」なんじゃないかなと思っています(正確に言うと『Duty』ぐらいから)。でも、あゆに「アイドル」的要素があるというのもよく分かります。そして、それはものすごーーーく素晴らしいことだと思うのですが、どうでしょ? ビートルズだってクイーンだって、アーティストでありながら、アイドルでもあったわけで、そこが破格だったというか、素晴らしかったと思うのですが。だからこそできることがあると思うし、誰にでもできることじゃないでしょうに。ま、あゆを、ビートルズやクイーンと比べるなって声も聞こえてきそうですがね。それも分かるんだけど、ま、ある面ではってことですよ。

あゆ自身はどう考えているのかな。私が読んだことのあるインタビューの範囲で拾ってみると、2002年にこんなことを言っています。「前はアーティストとは何か?みたいなことに、ヘンに固執してるところがあったのね。どこからがアイドルで、どこからがタレントでと分けたりしてて。でも、私はあくまでアーティストだ!みたいな(笑)。そういうのはすごくあった。でも、それってすごく自分で自分の視野を狭めてたと思うの」~「アーティストと見てほしいという気持ちが強かったから、誰かに“アナタは誰ですか?”と聞かれたら、“私は浜崎あゆみという歌手です”ってすごく言いたかった。でも今は、“私は浜崎あゆみだ”と思ってるんです」。

誰だってそうだと思うけど、やっぱ色々葛藤があるんだろうね。『ayu ready?』をやるときだって、最初、「私がバラエティ番組をやる意味が分からない」とか言ってたって話を聞いたことがあるような気がする(不確かな情報ですが)。

私、思うんだけど、あゆが「アーティストとして見てもらおう!」ってことに本気で取り組んでたら、結構、皆が皆「アーティスト」って捉えるような存在になること、実現できてたと思うんだよねぇ。分かんないけど。でも、あゆは、そんなこと(アーティストとして見てもらおうとすること)止めたんだよね、きっと。そんなことより、「浜崎あゆみ」であろうとしたんだよ。「浜崎あゆみであろうとすること」を選んだんだよ、きっと。

どこにもない場所で 私は私のままで立ってるよ

「SURREAL」という曲で、あゆはこう歌っている。本当にそういうことなんじゃないかな。アイドルともアーティストともつかない「どこにもない場所」は、「中途半端」って捉えられるかも知れない。でも、「どこにもない場所」に「浜崎あゆみ」のまま立ち続けるって、容易なことじゃないと思うな。たくさんの「自問自答」が必要とされる気がする。「良いとこどり」っていうけど、それはちょっと違う気がするな。いや、ま、「良いとこどり」でも良いけどね、なんちゅーか、「自由であろうとしてる」って気がする。アイドルにもアーティストにも寄りかからず、アイドルからもアーティストからも自由になって、「浜崎あゆみ」を獲得しようとしてるっていうか。アイドル/アーティストってことだけに限らず、常に「自由であるために戦ってる」って気がするな。私があゆに「ロック」を感じるのは、そういうとこからきてる気がする。つまり、「ロック」っていうのは「自由へのあくなき追及」だと、そんな風に思うわけですよ私は。

もちろん、ただ「アイドル」からも「アーティスト」からも逃げるだけじゃ(良いとこどりするだけじゃ)、何も確立されないし、何も残らないと思う。それこそ、「どっちつかず」で終わってしまう危険性がある。ここで重要なのは、あゆは、「アイドル」とか「アーティスト」とかいったものと一旦向き合った上で(インタビューにある通り)、「浜崎あゆみ」を確立させてるってことなんだよな。

で、そのためには、物凄い「バランス感覚」がないとできないと思うんだよ。じゃなきゃ、すぐにバランスを崩しちゃうはずだよ。「どこにもない場所に立ち続ける」なんて。だから、2005年のシングルで挙げたようなこともそうだし、あゆの表現から常に「バランス感覚」が感じられるのは、当然といえば当然のことなんだな。その「バランス感覚」が、その瞬間その瞬間で、「自由」へと向かっていて、そしてその先で、「浜崎あゆみ」へと向かっているから、美しく輝いて伝わってくるんだろうな。

だってね、作品から伝わってくる「バランス」が、それこそ「良いとこどり」のような、ただ取って付けただけのような「バランス」じゃないんだもの。あらゆる要素を寄せ集めただけの「バランス」じゃなくて、それらが複雑に絡み合った上での「バランス」、あらゆる要素が切っても切り離せないところまできてる「バランス」なんだもの。つまりそれは、「浜崎あゆみ」というフィルターを通しての「バランス」になってるってことだと思うのよ。だから、「浜崎あゆみ独自のもの」になってると思うんだよな。

「バランス感覚」か。さすが「天秤座」だね! ってそういう問題かよ! いやいや、天秤ってバランスって感じするからさぁ、ただ言ってみただけだよぉ。でも、そう考えると、あゆの歌詞には「二元論」も感じられるし。その点、UAとも共通してるんだよなぁ。あ、UAは「魚座」です。ってどーでも良い!

2002年のインタビューは、こう締めくくられていた。

「最近つくづく思うんです。どこにいても、何をやってても、結局私の職業は死ぬまで浜崎あゆみなんだなって」

あゆ、カッコ良すぎます。


(miss)understood TOUR ~1回目~

2006-03-11 16:31:45 | AYU
そういえば、元旦にあゆの最新アルバム『(miss)understood』が出たっていうのに、そのことについて何も書いてないや。だって、今の今まで、「書く必要」を感じてる暇なんてなかったんだもん。あったのは、「聴く必要」だけ。

前作『MY STORY』で、私はちょっとだけ不安になった。『MY STORY』でひとつの完成形を見た気がしたから(ここでちらっと触れてます)。だから、次にあゆが『MY STORY 2』みたいなアルバムを作ってしまっても、それは仕方のないことかも知れないと思っていた。それだけ『MY STORY』が完成されたものだったから。でも、考えてみれば、そんな『MY STORY』の中でも、最後の「Humming 7/4」で、それまでの流れをぶち壊すような展開をちゃっかり見せていたんだよな、あゆは。そして、元旦に届けられた『(miss)understood』――。そこには、『MY STORY』では決して聴くことのできない「あゆ」がいた。いや、『MY STORY』だけじゃない。過去のどのアルバムを引っ張り出しても聴くことのできない「あゆ」がそこにはいた。それでいて、私がよく知っている「あゆ」でもあった。私は嬉しい! あゆは、『MY STORY』というあれだけの作品にも足を引っ張られずに、時計の針を進めることができたんだ。ヤッタネ!

『(miss)understood』については、語りたくなったら語るとして、タイトルについてだけちょこっと。やはり、「misunderstood(誤解された)」からきてるらしいんだけど、「そのままだと、私のことを理解してるのは私だけみたいな悲劇のヒロイン的になっちゃってヤだから、ミス、ミセスのミスというのをああいう形で入れて、かけてみたというか、フザけてみた(笑)。」とのことです。だから、「誤解」ってとらえても、「理解する人」ってとらえても、いいらしいよ!

そして、『ayumi hamasaki ARENA TOUR 2006 A ~(miss)understood~』です。今回、「さいたまスーパーアリーナ」からスタートするってことで行ってきましたよ初日!(ほとんどないと思いますけど、一応ネタバレ注意! 今もツアー中だからね)

ここで、想定外のことが起きてしまいました。「とまどっている自分」がいたのです。誤解しないで下さいね。私はそのことに興奮しているんですから。過去に『MY STORY TOUR』『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』など、あゆのライヴを観ましたが、特に『COUNTDOWN LIVE』なんて、そりゃもう楽しかったですよ。色んな概念が吹き飛ばされて、解放されている自分を感じました。ほんと、あっという間でした。

しかし、この日は、目の前のことを「飲み込めていない自分」がいたんです。今までのあゆと何かが違う。何かが生まれ変わろうとしている。そういうことを漠然と感じながらも、それが何だか分からない、というか、確かに感じてはいるんだけど、言葉にできないまま、時間が流れていって、「どうしよう、どうしよう」って感覚。しかし、それでいながら、「核はちっともブレていない」ということがビンビン伝わってくる。いやむしろ、核心に近づいてってるような。だから、「生まれ変わろうとする意志」と「その混沌の中でもブレない核」というのが同時に伝わってきて、はっきり言って「固まってしまった」って、そういうわけですよ。

これは本当に想定外でした。でも、考えてみれば、『(miss)understood』で変化をみせたんだから、ライヴだってそりゃ、ねぇ? 私もまだまだです。こりゃ、あゆは、私が思ってる以上に凄い奴かも知れない。「コワい」とまで思ってしまった。そして、あゆが人気を保っている理由が分かった気がした(オリコンチャート史上歴代女性アーティストNo.1記録達成オメデトー!)。みんな、これが観たいから、あゆのライヴに足を運んでいるのかもって思った。

前日に『Mステ』出演あり、初日ってこともあってか、声が辛そうな箇所や音程が厳しい箇所も結構あった。「大丈夫なんだろうか?」と本気でハラハラさせられた。でもね、すぐに気づいたよ。そりゃあ、どの曲も確実にレベルアップしてるんだもの。それはね、曲が難しくなってるとか、そういうことじゃないのよ(それもあるだろうが)。なんていうか、曲に込める魂(ソウル)の量というか質というかが、格段にレベルアップしてるのよ。「(miss)understood」なんて、歌ってみりゃあ分かると思うけど、あれ、それ相応の魂がなきゃ歌えないよ? 曲が必要とする魂、魂が必要とする音、その双方が確実にレベルアップしてる。「Pride」なんて、ちょっとビビっちゃいましたよ私。それでいながら、そのどれもが、「ポップ」であることから離脱していない! 何なんだこれは!

「ハラハラさせられた」って書いたけど、そうか、「これか」って思った。最近ライヴでこんなに「ハラハラさせられた」ことって、あったかなぁ私。まるで「綱渡り」みたいな感覚。それは、仕掛けとか演出とか、そういうことじゃないな。そこにはあったんだよ、「摩擦」が。あゆの中での「変化」と「不変」の「せめぎ合う音」だったのか。いや、あゆの中だけじゃない。あゆとお客さんの間に、たくさんの「疑問」が行き交ってるような。「馴れ合い」なんてものが、ほとんど見当たらなかった。「時代とこすれ合う音(ロック)」を聴いたような気がする。分からない。それは私の勘違いかも知れない。でも、ねぇ、例えば、ロック好きの人にしかアピールしないロックなんて、それはもうロックじゃないよねぇ? え? あゆはロックじゃないじゃないかって? そうか。「ロック」って名前が欲しいなら、そんなもんいつだって誰にだってあげるよ。ただ、私は、「ロックって言葉」よりも、「目の前の出来事」を信じたい。それだけなんだ。あゆが客席近くに来たとき、「あゆー!」って声に出す人も出さない人もいたけど、みんながみんな、「私のあゆ!」って思ってるような気がした。もちろん私だって、「私のあゆ!」って思ってるかんね(笑)。そして、それを受け止められる器があゆにはあるんだ。なんだか涙が出てきそうだったよ。「開かれてる」――そう感じた。

だんだん何書いてるか分からなくなってきたなぁ(笑)。だからまぁ、「ハラハラした」んだけど、それが物凄く「生々しかった」って、そういうことですよ。「ハラハラ」って、「今を生きてる」証なのかも知れない。「is this LOVE?」カッコ良かったなぁ。ライヴで化けたよ、ありゃ。

このツアーは、あと1回、6月の公演に行こうと思っていたんだけど、「これはもう1回くらい観なきゃ!」って自分の中で勝手に盛り上がってしまって、4月の代々木も行くことに決めてしまいました。も~、あゆめっ!

後日、あゆのインタビューを立読みしたら、このツアーのことを「今までになくシンプル」って言っててビックラこいた。ええ? これでシンプルかよ! しかし、ちょっと待てよ、と。そういえば、シンプルだったかも知れない…。『MY STORY TOUR』のときは、全体を通して一貫したストーリーみたいのがあったけど、今回はそういうのなかったし、2~3曲の仕掛けが凄かっただけに、その印象が強くてそのときは気づけなかったけど、なるほど、シンプルだったかも…。これからのあゆを示唆させるものになるのだろうか。とにかく、CDだけじゃなく、ライヴの方でも、『MY STORY TOUR』から、時計の針を進めることができたってことかな。

ひとつだけ確信したことがあるよ。このツアーを終えたとき、あゆは確実に進化(深化)している!

だけどね、ちょっとこれだけは言わせてよ! 「Will」は聴きたかったぞ! あと、「In The Corner」だって! むぅ~!

P.S.
またも開演前の音楽がマドンナの『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』だったぞ! 今度はアルバム丸々一枚かかってた。おそらく最初から最後まで。といっても、『COUNTDOWN LIVE』のときもアルバム丸々一枚かかってたのかも知れない(開演ギリギリに入場したので分からないのです)。いやあ、全国で開演前にマドンナをかけて回るのだろうか。うふふ☆


COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A

2005-12-30 15:32:48 | AYU
さ~てと、そろそろ年を越さないとね。

2005年最後のライヴは「あゆ」でした。カウントダウンライヴってやつです(私が行ってきたのは30日の方だから、カウントダウンは無かったけど)。昨年のをDVDで見て、これは行かなあかん!と。だって、ツアーと全然違うんだもん。あゆのライヴは、ツアーとカウントダウン両方見なきゃ語れん! で、見てきたけど、見ても語れん!

ほんと、語れないのよ、あゆのライヴは。改めて、あゆはライヴを見なきゃってことは分かったし、ツアーとカウントダウン両方見なきゃってのは分かったんだけど。カウントダウンはね、ツアーと違って、一言で言っちゃうと「シンプル」。いわゆる「ライヴ」って感じ。だから、単純にあゆの「音楽」を楽しみたいって人はこっちの方が好きかもね。「ストイック」な感じで、あゆの「底力」を知ることができると思う。それでいて、年越というお祭りだから、ライヴで盛り上がる、ここぞ!という勝負曲みたいのあるじゃん。それが怒涛の勢いで連発された後半なんか(evolution → flower garden → Humming 7/4)、心の中で「ひえ~!」って悲鳴上げちゃったもん。この「ひえ~!」って何かって言うと、私にもよく分からないんだけど、おそらく、高揚してるんだろうね。一瞬、「ついていけるかぁ?」なんてことが頭をよぎったのは、体力的にとかじゃなくて、もう細胞全部で「うわぁもうどうしよう!」っていう、そういう感じよ。

例えば、いくらライヴといっても、仕事のことや他のことを考えてしまったりすることあるじゃん? それとか、ライヴを見ながら湧き上がってくる感情を、そんなことしたくもないのに、脳が知らず知らずのうちに言葉に変換しようとしてたりさ(ない?)。でもね、そういうのが吹き飛ばされちゃうわけよ。思考停止? いやいや、思考を停止させるって容易じゃないよ? 正確に言うと、「思考超越」だな。だって、ただの思考停止だったら、こんなに高揚しないもん。思考停止したときってのは、もっと冷めてると思うんだよね。じゃなくて、思考を超越してるから、こんなにも高揚できるんだと、私は思うわけです。

だから、時間という概念も吹き飛んじゃったんだな。ほんと、あっという間に時間が過ぎていた。そして、私の心と体は満たされていた。ライヴ後、あまりに閑散としている原宿近辺を歩きながら、「うわ~、現実に戻りたくないよぅ!」なんてことを本気で思ってしまった。「現実に戻りたくない」って気持ちと「あの時間は現実だったんだ」って気持ちとが入り混じって、なんだかとっても不思議な気分で、たぶん、興奮していたんだ。ライヴ中、これを知らない人がいるなんて、なんて勿体ないんだ!とか思っていたけど、そんなこともすっかり忘れていたよ。

だから、いわゆる「ライヴ・レポート」ってやつは書けそうにない。でも、書いておきたいことがあるんだ。

会場は代々木体育館だったんだけど、アリーナ席に段差が作られていることに感動した。こんなの初めて。

で、で、開演前にマドンナがかかったのです! マドンナの最新アルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』がそのまんま。私、開演前にして、泣きそうになってしまいました。感激して。あゆはよく「マドンナのパクリ」って言われるんですよ。で、それには、揶揄や中傷の意味が込められてることが多いような気がするんですね。本当に「音楽」のことを考えて言ってるんだろうか?みたいな。「音楽」以外のところに目的があるのなら、「音楽」は利用しないでもらえるかなぁ?みたいな。愛情のない引用が「パクリ」って言われるように、(引用元も引用先も含めての)「音楽」に対して愛情がないのなら、簡単に「パクリ」って言ってしまうことは、簡単に「パクる」ことと同じくらい、危険だと思うんです。節操がないって言ってる人に、節操がないってこと、ままありますからね。

ま、それは置いといて、そんな中、あゆが堂々とマドンナをかけてくれたことが嬉しかったんですよ! ネタばらしじゃないですか?(笑) もう本っ当に、あゆは、マドンナが大好きで、そして、音楽が大好きで、そしてそして、ファン(音楽を愛する人)を大事に思ってるんだってことが伝わってきて。あゆの立場や状況を考えると、いくら本当に好きでも、かけるのはちょっと躊躇するんじゃないかな~って思ったりするんです。でも、そこで、敢えてかけてきた。そこに私は、あゆの並々ならぬ覚悟と正真正銘のリスペクト精神と、何より深い愛情を感じたんですよ。逆に、私はあゆを見くびっていたんだな。こんなことで逃げたり隠れたりするような人じゃなかったんだ。それでも、これも話題作りだとか戦略だとか言う人は、もう「音楽」なんて聴かない方が良いんじゃないですか?

ああ、今日の私はやけに挑戦的になってしまう。あゆに影響されちゃったかな。でもね、<私はこういう人間なの あなたに 好かれても嫌われても構わない 愛されても、見捨てられても 私は決して止めないから No No わかるでしょ?>、この言葉が何だか分からない人は、「あゆはマドンナのパクリ」って言う権利ないですよ(笑)。

あゆは、「マドンナに影響されてる自分」も包み隠さず、私達にぶつけてきた。伝えようとしてきた。何もこんなところで、正直にぶつけてこなくったって良いわけですよ。単なる開演前のBGMなんだから。でも、ぶつけてきた。そこに、あゆの、音楽とファンに対する真摯な気持ちを感じたし、その気持ちに嘘はないんだなって思いました。本当に丸裸でぶつかってくる人なんだな~。それに、これ、マドンナをうちらにも聴いて欲しいってことでしょ? 可愛いよね。しかも、開演に近い時間にかけてきて、そのままSEに繋げたから、より多くの人に聴かせてたし。

あゆのその姿勢は確実にファンに届いてるらしく、「あゆは、マドンナに憧れて、マドンナになりたくて、がんばってるんじゃないかな」とか言ってるファンもいるもんね。

でもね、ここまで書いておいてなんなんだけど、そんなことどーでも良くなっちゃたんだよね。だって、先日『スマステ』でマドンナ特集やってたから見たんだけど、それ見てたら、な~んだ、「マドンナのパクリ」ってチョー誉め言葉じゃん!?って思えてしまったんだもん(笑)。だって、あれ見たら、マドンナを目指そう!なんて、生半可な気持ちじゃ、恐ろしくて思えないもん。あんな凄い人と比べられたら、たまったもんじゃないよ。だからね、マドンナ物凄いって思うと同時に、あゆ凄いなって。ライヴ前にかけるなんて、よくできたな(笑)。もう日本でマドンナを目指すのはあゆ一人に任せるから良いや!って思っちゃった。っつうか、ロックバンドがビートルズの影響から逃れられないように、女性アーティスト(ポップス)にとって、もはや避けて通れない道だと思ったね。だったら、そこを通ろうとするあゆは立派じゃん! 「マドンナのパクリ」ってみんな鋭い! よく分かったね。そりゃそうだよ。私マドンナ好きだもんbyあゆって感じで(笑)。私、マドンナについてはまだまだ初心者なんで分からなかったんだけど、「マドンナのパクリ」って捉え方によっては凄い誉め言葉になり得るね?(笑) その言葉自体、似合う人なかなかいなくない? 称号として、あゆは誇りに思って良いかもよ?(笑) もう、「“マドンナをパクッてる(マドンナに立ち向かってる)あゆ”が好き」で良いかな~。とにかく、ここ日本でマドンナを目指すのはあゆに任せた!

以前、矢沢永吉がこんなことを言っていた。「ビートルズになりたかったけど、まさか矢沢永吉になるとは思わなかった」。あゆもいつかそういうことが言えるときがくるのかな。「マドンナになりたかったけど、………」。

私は、「ハング・アップ」が聴こえてきたあの瞬間を、忘れちゃいけないって強く心に誓った。

ライヴ本編は、「Bold & Delicious」で締め括られた。その前が、「Boys & Girls」。「Boys & Girls」は初期の代表曲で、ライヴでもお馴染みの曲。あゆとお客さんが一体となって一緒に歌う曲。あゆもお客さんにマイクを向ける。そんな曲の後に「Bold & Delicious」を持ってくるあゆの感性が好きだ。

「Bold & Delicious」は、私にとって、この日一番のハイライトだった。総勢20人くらいのゴスペル隊が表れて、その中の一人がバラードっつうか聖歌っつうかそういうのを静かに歌いだし、静寂を突き破るようにして、例の<ya..ga..da..wo..>が響きわたる。20人ものコーラスと勝負しようっていうあゆの根性も凄いと思ったが、私が一番興奮したのは、その場の空気そのものにだった。さっきまで「Boys & Girls」で一体となっていたお客さんが、今度はぽかーんと圧倒されているのだ。白けているのではない。目の前の表現に圧倒され、でも、どうして良いか分からず、立ち尽くしているって感じ。リズムが難解とかそういうことじゃなくて、どうしたら良いか分からず、とまどいながらも、ただただ目の前の出来事を受け止めてるって感じ。そして、その前では、多分、子供も大人も男も女も関係なくなっていたんだ。なんてったって、みんな、釘付けになっていたんだから。私は、「これ」こそが私が求めていたことかも知れない!って思った。なんだか嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。「これ」については、うまく言えるか分からないけど、また別の機会に書いてみたいと思う。

そうそう、「Bold & Delicious」の記事で書き切れなかったんだけど、あの曲、カッコ良いながら、「笑える」ってところもポイントなのよね。あそこで<意味不明♪>ってバリバリにキメられても、「お前が意味不明だよ!」って突っ込みたくなる感じの。<一番さむい♪>って、「お前がさむいよ!」って感じのね。で、この曲に限らず、あゆの音楽には、常にちゃんと「笑い」があるんだよね。で、これは私にとって凄く重要なことだと気付いたの。私の好きな音楽には、すべてどこかに「笑い」があるんだよ。どんな曲であっても、必ずどこかに「笑える」っていうのがある。うん、これだわ~。

帰り際、「凄かったねぇ」と興奮してる人、「最近はノリの良い曲やらないんだよな」と不満げに言ってる人、初めて見に来たっぽい人と、色々な人がいた。それがなんとも心地良かった。

*** 後記 ***

『スマステ』のマドンナ特集は、第2弾もあるらしいです。そして、あゆ、3/10に『Mステ』と『音楽戦士』、3/11に『CDTV』に出るよ~。そして、3/23には、この『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』の12月31日公演を収録したDVDが発売されま~す。

パクリだのなんだの、色々書いてしまったけど、3/8発売のシングル『Startin' / Born To Be...』の「Startin'」のプロモ見てたら、「私、なに小さいこと言ってんだろ」って思ってしまったよ。


ボ~~ルド & デリシャァァス

2005-12-25 22:01:26 | AYU
『HEAVEN』に続き、やっとここまで来ました、2005年最後のシングル。

●Bold & Delicious / Pride
あゆの2005年を代表する曲は?と聞かれたら、迷わず「Bold & Delicious」と答えます。ほんと、今までのはなんだったんだ?っつうくらいの気合の入りよう。衝撃だったなぁ。ほんの数秒試聴しただけで、「え? これがあゆ? あゆがこんな曲やっちゃうの?」ってドキマギしちゃいました。ソウルフルでファンキーで、何やらコーラスがやたらと入ってて。「Pride」にしても、やたら荘厳な雰囲気で。今までにもこういったターニング・ポイントとなる曲はあったんだろうけど、好きになってからリアルタイムでそれを体験するのは初めてだったものですから、ドキドキしましたよ。進化(深化)しようとするあゆの意志を嬉しく思うと同時に、どうなってしまうんだろうという不安が交錯して。明らかにハードルが上がってるし、超えられるのか?って感じで。音楽自体は特別新しいといったものではないかも知れませんが、あゆにとっては“新しい”わけで、それを如何にして、その音楽が持つ“新しさ”に繋げられるかだと思うのです。

今回は両曲とも、スウィートボックスのGEOが作曲しています。スウィートボックスといえば、バッハの「G線上のアリア」を取り入れた「エヴリシング・イズ・ゴナ・ビー・オールライト」が有名で、作曲&プロデュースのGEOと女性ヴォーカルによるユニットです。ティナ・ハリスという黒人女性が初代ヴォーカルで、現在はジェイドという白人女性がヴォーカルです。といっても、私は詳しくなく、今回のあゆの曲によって認識した次第です。「エヴリシング~」はよくかかってたので知ってましたが。

で、スウィートボックスを良いなと思っていたあゆが、「こういうの歌ってみたいな。スウィートボックスみたいな曲、というより、本人が書いてくれるといいよね」と現実味もなくポロッと話していたら、スタッフが知らない間にGEOに話を通していて、あゆが忘れた頃になって、「好きなのがあったら歌って」と突然12曲入りのデモが送られてきたらしいです。しかし、その時には、既に次のシングルは録り終えてて、アルバムもほぼ内容が決まっていたそうです。が、デモを聴いたあゆは、「歌いたくてしょうがなくなっちゃった(笑)」ってことで、急遽、シングルを変更。それどころか、アルバムも、一旦ゼロに戻して、一から構築し直すことを決定。そういや、今回のシングルはオリコンか何かの記録がかかってたんだよね。それでこの決断。録り終えてたのに。今までとガラリと変わる挑戦曲なのに。男前!

「Bold & Delicious」は、デモの中で特に印象的だったとあゆは言う。で、デモでは、ジェイドが一人で声を重ねていて、もっと静かでキレイな感じだったそうです。そこから「パワフルでソウルフルでファンキー」なものを感じ取ったあゆは、そこを増幅させて、「これはもっと大袈裟にして、みんなでクラップしながら歌えるようなもっとハッピーなものにしたい」と思ったそう。NYの教会でパイプオルガンの音を聴いた時、「あ、ゴスペル」と思い、「私以外の声でコーラスを分厚くしたい」と。でもって、デモは当然ながら英語詞なわけで、「日本語だとハマらない譜割とかもあるんで、けっこうイジッてる」とのこと。日本語をハメる作業には結構苦労したらしく、後に「テンションが全然違った」と本人が語っているように、洋楽のテンションの違いを肌で感じたんだろうな。「Pride」の方は、「個人の主張というより、みんなが同じ気持ちで何かに対して叫び続けてるみたいな感じにしたかった」~「キレイに歌う合唱団みたいな声のイメージだったから、小学生から50代くらいまでの人を大勢集めて、みんなでガーッと歌ってもらった」とのこと。「『オペラ座の怪人』にしよう」って思ったらしいね。

ここまで書いてみて思うのは、もうあゆのやってることって、アレンジでありプロデュースじゃん。じゃなきゃ、ここまで語れないでしょ。実際には、CMJK(ex.電気グルーヴ。あゆの作品ではお馴染み)にアレンジを依頼したりしてるわけだけど、全体を司ってるのは、まぎれもなく「あゆ」。今回の大胆な変貌ぶりにしたって、「GEOのおかげじゃん」と言う人もいるかも知れないけど、それを決断したのは「あゆ」なんだよ。

そういったわけで、この『Bold & Delicious / Pride』には、今までのあゆの作品にはない“新鮮味”があり、それがこの音楽に宿る“新鮮味”にも繋がっていて、それでいながら、しっかり“あゆ”であるという。GEOとの出会い(洋楽との直接的な接触)などに、正面からぶつかっていった賜物であると思います。言ってみれば、“洋楽の洗礼”を受けたって感じかなぁ。と同時に、あゆの直感力のすごさに脱帽というか、恐ろしささえ感じました。“洋楽の洗礼”を受けたとき、あゆは“ゴスペル”を選択してるんだからね。「Bold & Delicious」は、近田春夫も『考えるヒット』で誉めてくれてます。「浜崎あゆみの冒険的な新曲にマドンナに近いセンスを見た」! 「Jポップのメインストリームから音がはみだしていた」! 「去勢されていない」、これすごく分かるなぁ。あゆの音楽って「飼い馴らされてない感じ」がするんだよね。引用だってあるだろうに、ほんと、なんでなんだろ? ひょっとしたら、これが音楽の不思議ってやつ? 「パクリ」とか言って切り捨てる人は、この「飼い馴らされてない感じ」を出してみてくださいよ。

今回の、誰の目(耳)にも明らかな変化について、あゆはこんな発言をしている。「(『MY STORY』やそれに伴うツアーで)ここはみんなもOKなんだよねっていうのが築けてることが嬉しかった。でも一方で、そのOKのことばかりやってても仕方ないなと思った」~「こうやれば喜んでくれる、こういう曲はみんなが好きだよねってわかってしまって。でも、ここにきて、こんな球を投げたら、みんなどうする?ってことをやりたくなった。そこに正直に向かった」~「みんながどう受け取るかなとは思ったんだけど、そこに不安は別になかった。必ず伝わると信じていたからね」。ああもういちいちバカみたいにカッコ良い! モー娘。だっけ? いや、Def.Divaか。「好きすぎてバカみたい」!!

忘れちゃならないプロモですが、「Bold & Delicious」が、ビョークの「ビッグ・タイム・センシュアリティ」のプロモにそっくりだそうで。またかよあゆー!とも思いましたが(笑)、あゆ、ビョーク好きなのかな。ま、あゆの嗜好からすると、好きでも全然不思議じゃないよな。しかし、プロモは、どこまであゆが考えてるんだろう。プロモでは「素材に徹する」と言っていたあゆだけど、ある程度監督に任せてるとは言え、何も意見を言わないわけじゃないだろうし。昔、プロデューサー並みに動くことに対して、「どうしてそこまでやるの?」と聞かれ、「あゆがやらなかったら他に誰がやるの?」と言ってのけたあゆなだけにね(かっくいい!)。最終的な責任は「あゆ」にあるんだもんね。そんでもって、かなりのMTVフリークなあゆのことだから、ビョークのこのプロモのことだって、知らないわけがない! というか、これは私でも分かるわい! せっかくだから調べてみると、「ビッグ・タイム・センシュアリティ」の監督をしたステファン・セドナウィーは、レッチリやアラニスやU2のプロモも手がけているらしく、マドンナにミルウェイズ・アマッザイを紹介した人物だとか。なるほど~。あゆ、色々教えてくれてありがとね! そういや、これ、映画『バニラ・スカイ』でもチラッと流れるのよね。ま、そんな色々も、あゆちゃんのこんな一言で吹き飛んでしまいました。それはこのプロモについて語っていたわけではないのですけど、「よしとされても、そうじゃなくても。だって、私が今やりたいことはコレなんだもんっていう、それだけなの」。ま、まいりました~。でも、うん、がんばっていこうね☆

ただ、もちろん、それだけではありません。このプロモは、ゴージャスで大胆なあゆの姿に混じって、普段のあゆの姿も映し出されるのですが、それについてあゆは、「そこに私は、どの笑顔が本当だと思いますか?っていうディレクションしてる人の問いかけを感じた」って言ってて、「そういうのがすごく感じられるから、なんて悲しいPVなんでしょうと思って見ていました」だってさ。ちきしょー! そこまで気付けなかった…。「悲しいPV」かぁ。続けて、「『Bold & Delicious』は、超アゲアゲでノリノリで、すごく言い切っていてカッコイイんだけど、その裏にある悲しさとかを感じてもらえると嬉しい。だからビデオもそう」だってさ。やはりちゃんと繋がってるのね。「ハッピーなものにしたい」って言って作った曲なのに、そこにちゃんと「悲しみ」も込める。バランス感覚の優れているあゆちゃんのことだから、考えてみれば当然のことなんだけどね。言い切ることによって、そこに至るまでの迷いや葛藤も含めて表現できると思ったのかな。この曲聴いて“悲しさ”を感じ取った人がどれくらいいるんだろか。精進します!

ちなみに余談ですが、面白い発見をしたので。今回、ビョークのプロモに似てるっつうことで、ビョークのプロモを色々見直してみたんです。あ、私、ビョーク好きです。で、「alterna」のプロモのことを書いたとき、ビョークの「バチェラレット」を彷彿とさせるって書いたじゃないですか。で、「バチェラレット」も見直してみたんですけど、そしたら、思いっきり『MY STORY』って出てくるじゃないですかぁ! 『MY STORY』っつうのはもちろん、あゆの6thアルバムのタイトルでありまして、「alterna」って曲は、『MY STORY』の延長上にあってプロモもそのダイジェストのようだって書いたと思うんですけど、いやはや、面白いっすね~。

そうそう、これに収録されている「Will」のHeigo Tani(Co-Fusion)によるリミックスが結構イイ感じでした。

そんなこんなで、非常に長~く、事細かに書いてしまって、お恥ずかしい限りです。別にこんなに細かく書かなくても良いんだけどね。でも、その有名さに反して、こういうことが知られてない気がして。もっと言えば、あゆは、それに見合う評価をされてない気がして。「正当な評価」ってもんが、この世の中に存在するのかどうかは疑問としてもね。あゆが、まったく売れていない無名のミュージシャンだったら別に構わないんだけど、今や、あゆを知らない人を見つけることの方が困難じゃん? まぁ、それこそが「評価されてる」って証なのかも知れないけど、それでいながら、こういうことがあまり知られてない気がするのは、それは私の被害妄想かも知れないという疑いはありつつも(笑)、なんとも歯がゆいじゃん? だから書いてみました。

最近、あゆは、「クラシックやオペラも聴いてみたいし、歴史も学びたい」と思っているらしい。意外かも知れないけど、あゆの温故知新ぶりは、音楽に限らず、そこかしこに垣間見られるんだよねぇ。私が彼女をすごいと思うのは、「変化は常にしていたい」とか「新しいことを取り入れるのは良いこと」と彼女自身が語っているように、そういう姿勢を見せながらも、「けど、それだけじゃ何も残らない気がして」なんてことも言ってたりするとこなんですよね。貪欲に学び、積極的に変わろうとする一方で、変わらない芯の部分を常に見つめてるっていうか探してるっていうか。芯があるから変われるんだし、変化によって芯の部分が更に磨かれていくんだもんね。変化のための変化ではない。知識のための知識ではない。絶対失くしたくないものは?と聞かれて、「愛かな。それは全てにおいて」と彼女が答えていたことをフッと思い出した。


和な二曲

2005-12-24 20:03:48 | AYU
前2作シングルに続き、2005年発売のあゆのシングルについて。

●HEAVEN
これは、明らかに映画『SHINOBI』のために書かれた曲ですね。どうしても「『SHINOBI』のために書いたんだな」ってのが先にきちゃいます。特に詞がそう感じさせるんだろうけど、曲自体も、前2作シングルで今までにない感じを見せたのに対し、従来のあゆの王道バラードって感じで。ただ、人(作品)のために曲を書くという行為自体が、新しい挑戦だったと言えるのではないでしょうか。そのために自己主張を抑えたのかも知れない。今まで、ここまでハッキリとした形で、あゆが人(作品)のために曲を書いたことはなかったと思うし、そういうことにトライできるようになったのも余裕の表れなのだと思います。従来のバラード路線と書きましたが、ちょっと展開が新しいですね。サビが来るかと思ったらなかなか来なくて、来たと思ったらそのまま戻らず最後までいくところとか。あと、これはc/wの「Will」にも言えるんですけど、ものすごく“和”を意識した音作りとか。

c/wの「Will」。これはビックリしました。今までのあゆにない!って。曲も詞も歌い方も。力強くて研ぎ澄まされてて。歌詞は、ちょっと無理があるかも知れないけど、エレカシが書いてもおかしくないんじゃ?とか思っちゃいました。こういう歌詞も書けるようになったんだ。で、作曲者を見てこれまたビックリ。「CREA + D・A・I」なんですよ(CREA=あゆ)。共作ではあるけれど、こういう曲も書けるようになったんだ。ストリングスを弦一徹ストリングス、ドラムを玉田豊夢(100s)、バック・ヴォーカルのアレンジを小林信吾が担当しています。で、サビが『魔女の宅急便』の「海の見える街」に似ていると。他にも、小田和正の「キラキラ」とかバックホーンの「空、星、海の夜」とか言われてるみたいですけど、『魔女の宅急便』のは私も思いましたね~。日本の代表的アニメ映画だし、あゆもリスペクトしているユーミン(あゆは自身のアルバムで「卒業写真」をカヴァー、「春よ、来い」を歌ったりもしています)が主題歌だし、あゆも見聞きしているんでしょうね。でも、凛とした歌声によって、このメロディに新たな生命が吹き込まれたような気はします。そう、歌い方がね、今までになく力強くて。表現力が増してるんですよ。以前、2~3年前ぐらいからビブラートが減ってきたと書きましたが、そういった鍛錬を経て、表現力に磨きがかかってるんだろうな。それと、やっぱりCREA作の曲を歌うときのあゆのヴォーカルには、他の人が作った曲を歌うときにはない“特別なオーラ”があるなって思いました。最近、CREA作は減ってきてしまったけど、もうちょっとCREA作の曲も聴いてみたいな~。うん。

「HEAVEN」「Will」と聴いて、やっぱり私は、より“浜崎あゆみ”な曲が好きなんだなと実感しました。つまり、「Will」の方が断然好き。「Will」はね、あゆの“新境地”を感じたし、曲・詞・ヴォーカルが渾然一体となったパワーに、思わず唸っちゃいましたもん。で、カラオケで歌ってみたら、これが意外と難しい。この“特別なオーラ”を出せないのはもちろんのこと、歌も結構難しい。あゆ、成長したな~。(エラそうでごめん)

プロモは、「HEAVEN」のみ。「fairyland」とは打って変わって、全編モノクロ・ワンカメラ・ワンシーンになってます。

さて、次の『Bold & Delicious / Pride』については、長くなってしまうと思われるので、今回は『HEAVEN』のみで。特に意味もなく、クリスマス・イヴの日付でこの記事を書いてみましたが、この日、ラジオに生出演したあゆは、「デビュー当時を思い出すナンバー」というお題で、一曲セレクトしてかけてくれました。それは、スウィートボックスの「エヴリシング・イズ・ゴナ・ビー・オールライト」で、初代ヴォーカルであるティナ・ハリスが歌う方のバージョンでしたとさ。