「1.2.3.4 YOU and ME?」~「和な二曲」~「ボ~~ルド & デリシャァァス」と、2005年のシングルについて書いてみて、やっぱりあゆは、バランスを重んじるというか、バランス主義というか、バランス感覚の優れている人なんだなぁと、今更ながらに気づかされた。あゆのバランス感覚が顕著なところなんて、探せばいくらでもあるような気がする。
例えば、「HEAVEN」が“作品(映画『SHINOBI』)のために作った曲”だとしたら、そのc/wには“自作(CREA作)の曲”「Will」を持ってくる。「fairyland」で“大掛かり”なPVを作ったと思ったら、その次の「HEAVEN」では“極めてシンプル”なPVを作る。『HEAVEN』がc/w含めて“和”なシングルだとしたら、次の『Bold & Delicious / Pride』では大胆な“洋楽との折衝”を試みる。「Bold & Delicious」一曲の中でも、“ハッピー”と“悲しみ”を混在させる。「fairyland」で<僕達は今最も永遠に近い場所にいる>と“永遠”を歌ってみせたと思ったら、そのc/w「alterna」では<変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ>と“変化”を歌ってみせる。また、「alterna」や「Will」なんかは、浜崎あゆみのより“コア”な部分が感じられる曲のように思うが、対して、「fairyland」や「HEAVEN」は、浜崎あゆみのより“ポップ”な部分が出ているように思える。
こんな風に、2005年のシングルだけ考えてみても、あゆの作品には、常に、徹底して貫かれている「バランス感覚」を感じる。これは、前から感じる部分であったし、今にはじまった話ではない。探せばいくらでも語れる要素があるように思う。最先端でありながら古風である、とかね。
例えば、あゆのことを、「アイドル」と捉える人もいれば、「アーティスト」と捉える人もいる。「アイドルとアーティストの良いとこどり」だなんて文章も見かけたことがある。それが「中途半端な感じがして嫌だ」という人もいるみたいだ。私なんかは、「アイドル」とか「アーティスト」って言葉は抜きにしても、一体、あゆのどこをどう捉えたら「中途半端」になるのか聞いてみたいくらいなのだが…。
とはいえ、8年も活動してるってのに(2006年4月8日で8周年、オメデトー!)、未だに、「アイドル」という人もいれば「アーティスト」という人もいるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うんだけど、どうでしょ? 別に、「名前」としての「アイドル」とか「アーティスト」にこだわりたいわけではない。ただ、あゆが、そうやって、「アイドル」とも「アーティスト」ともつかない存在で捉えられているのだとしたら、どうしてそうなっているのか。そこが重要なんじゃないかなと思ったわけです。で、それには、あゆの「バランス感覚」が大きく関わっているんじゃないかと。
あゆのことを「アイドル」と捉える人は、どうしてそう捉えるのだろう。衣装とかメイクとかPVとか、見た目が派手だから? う~ん。「アーティスト」と呼ばれてる人にだって、ビジュアル面で大きく訴えてくる人はたくさんいる。自分で作曲しないから? まぁ、あゆはCREA名義で作曲もするのだけど、これはファンじゃない人は知らない人もいるだろうから、作曲しないからって理由も考えられる。でも、じゃあ、UAとかはどうなるの? UAも、最近は自分で作曲もするようになったけど、最初はずっと人が作曲した曲を歌っていたし、今だって全部自分で作曲しているわけではない。「作詞は自分、作曲は他人」という点では、UAだってあゆだって同じでしょ。でも、UAのことを「アイドル」って捉えてる人はほとんどいないような気がする。これは、売り出し方の問題なのか?
「自分で考えてやってる(感じがする)」のがアーティスト、「他人が考えたものをやってる(感じがする)」のがアイドル、ってことなのかな? う~ん。よく分からないねぇ。だって、あゆは、「他人が考えたものをやってる」って感じしないもの。それとも、あゆのことをアイドルって捉えてる人は、そう思ってんのかね? 「音楽面は人任せにしてそう」とか? レコーディングでもプロデューサー的役割をこなし、CMJKに「彼女は自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い」とまで言わせる「音楽家」なのにねぇ。他人の手を借りるのは、アイドルだってアーティストだって同じだし。「思想」とか「意志」が感じられるかどうかってことなのかな? あゆの作品からは、「思想」とか「意志」、感じられるけどね。「音楽が最優先(大前提)にあるかどうか」とか? う~ん。あゆは「音楽を最優先(大前提)にしている」と思うけどね。
まぁ、あゆについては、最初のイメージってのが根強いのかな。スカウトされて歌手になったとか、売り出し方とか、エイベックスとか、そういう背景によるところが大きいかもね(UAもスカウトじゃなかったっけ?)。あと、インタビューとか語る場があまり与えられてないってのもあるかも(とはいえ、あんまり語りすぎるのもどうかと思うんだよね。アーティストなら、まず作品で語って欲しい! その点、あゆは凄いかも…)。
ちょっと言っておきますと、私は、アイドルもアーティストも「表現」においては「同等」だと思ってます。他人が考えたものであれ、自分が考えたものであれ、最終的にはその「表現者」の手に委ねられるわけだから。もちろん、「同じ」と言ってるわけではないですよ。「それぞれの魅力」があるって言ってるんです。ただ、私、日本でホントに「アイドル」っていえる存在って、減ってきてると思うんだけどなぁ。ジャニーズとかハロプロとかしかいなくなってる気が。もう、「アイドル/アーティスト」って分けること自体、時代遅れになっちゃってる気が。それが良い悪いじゃなくね。
以上のことを踏まえた上で、私は、あゆがやっていることは、「アーティスト」なんじゃないかなと思っています(正確に言うと『Duty』ぐらいから)。でも、あゆに「アイドル」的要素があるというのもよく分かります。そして、それはものすごーーーく素晴らしいことだと思うのですが、どうでしょ? ビートルズだってクイーンだって、アーティストでありながら、アイドルでもあったわけで、そこが破格だったというか、素晴らしかったと思うのですが。だからこそできることがあると思うし、誰にでもできることじゃないでしょうに。ま、あゆを、ビートルズやクイーンと比べるなって声も聞こえてきそうですがね。それも分かるんだけど、ま、ある面ではってことですよ。
あゆ自身はどう考えているのかな。私が読んだことのあるインタビューの範囲で拾ってみると、2002年にこんなことを言っています。「前はアーティストとは何か?みたいなことに、ヘンに固執してるところがあったのね。どこからがアイドルで、どこからがタレントでと分けたりしてて。でも、私はあくまでアーティストだ!みたいな(笑)。そういうのはすごくあった。でも、それってすごく自分で自分の視野を狭めてたと思うの」~「アーティストと見てほしいという気持ちが強かったから、誰かに“アナタは誰ですか?”と聞かれたら、“私は浜崎あゆみという歌手です”ってすごく言いたかった。でも今は、“私は浜崎あゆみだ”と思ってるんです」。
誰だってそうだと思うけど、やっぱ色々葛藤があるんだろうね。『ayu ready?』をやるときだって、最初、「私がバラエティ番組をやる意味が分からない」とか言ってたって話を聞いたことがあるような気がする(不確かな情報ですが)。
私、思うんだけど、あゆが「アーティストとして見てもらおう!」ってことに本気で取り組んでたら、結構、皆が皆「アーティスト」って捉えるような存在になること、実現できてたと思うんだよねぇ。分かんないけど。でも、あゆは、そんなこと(アーティストとして見てもらおうとすること)止めたんだよね、きっと。そんなことより、「浜崎あゆみ」であろうとしたんだよ。「浜崎あゆみであろうとすること」を選んだんだよ、きっと。
どこにもない場所で 私は私のままで立ってるよ
「SURREAL」という曲で、あゆはこう歌っている。本当にそういうことなんじゃないかな。アイドルともアーティストともつかない「どこにもない場所」は、「中途半端」って捉えられるかも知れない。でも、「どこにもない場所」に「浜崎あゆみ」のまま立ち続けるって、容易なことじゃないと思うな。たくさんの「自問自答」が必要とされる気がする。「良いとこどり」っていうけど、それはちょっと違う気がするな。いや、ま、「良いとこどり」でも良いけどね、なんちゅーか、「自由であろうとしてる」って気がする。アイドルにもアーティストにも寄りかからず、アイドルからもアーティストからも自由になって、「浜崎あゆみ」を獲得しようとしてるっていうか。アイドル/アーティストってことだけに限らず、常に「自由であるために戦ってる」って気がするな。私があゆに「ロック」を感じるのは、そういうとこからきてる気がする。つまり、「ロック」っていうのは「自由へのあくなき追及」だと、そんな風に思うわけですよ私は。
もちろん、ただ「アイドル」からも「アーティスト」からも逃げるだけじゃ(良いとこどりするだけじゃ)、何も確立されないし、何も残らないと思う。それこそ、「どっちつかず」で終わってしまう危険性がある。ここで重要なのは、あゆは、「アイドル」とか「アーティスト」とかいったものと一旦向き合った上で(インタビューにある通り)、「浜崎あゆみ」を確立させてるってことなんだよな。
で、そのためには、物凄い「バランス感覚」がないとできないと思うんだよ。じゃなきゃ、すぐにバランスを崩しちゃうはずだよ。「どこにもない場所に立ち続ける」なんて。だから、2005年のシングルで挙げたようなこともそうだし、あゆの表現から常に「バランス感覚」が感じられるのは、当然といえば当然のことなんだな。その「バランス感覚」が、その瞬間その瞬間で、「自由」へと向かっていて、そしてその先で、「浜崎あゆみ」へと向かっているから、美しく輝いて伝わってくるんだろうな。
だってね、作品から伝わってくる「バランス」が、それこそ「良いとこどり」のような、ただ取って付けただけのような「バランス」じゃないんだもの。あらゆる要素を寄せ集めただけの「バランス」じゃなくて、それらが複雑に絡み合った上での「バランス」、あらゆる要素が切っても切り離せないところまできてる「バランス」なんだもの。つまりそれは、「浜崎あゆみ」というフィルターを通しての「バランス」になってるってことだと思うのよ。だから、「浜崎あゆみ独自のもの」になってると思うんだよな。
「バランス感覚」か。さすが「天秤座」だね! ってそういう問題かよ! いやいや、天秤ってバランスって感じするからさぁ、ただ言ってみただけだよぉ。でも、そう考えると、あゆの歌詞には「二元論」も感じられるし。その点、UAとも共通してるんだよなぁ。あ、UAは「魚座」です。ってどーでも良い!
2002年のインタビューは、こう締めくくられていた。
「最近つくづく思うんです。どこにいても、何をやってても、結局私の職業は死ぬまで浜崎あゆみなんだなって」
あゆ、カッコ良すぎます。
例えば、「HEAVEN」が“作品(映画『SHINOBI』)のために作った曲”だとしたら、そのc/wには“自作(CREA作)の曲”「Will」を持ってくる。「fairyland」で“大掛かり”なPVを作ったと思ったら、その次の「HEAVEN」では“極めてシンプル”なPVを作る。『HEAVEN』がc/w含めて“和”なシングルだとしたら、次の『Bold & Delicious / Pride』では大胆な“洋楽との折衝”を試みる。「Bold & Delicious」一曲の中でも、“ハッピー”と“悲しみ”を混在させる。「fairyland」で<僕達は今最も永遠に近い場所にいる>と“永遠”を歌ってみせたと思ったら、そのc/w「alterna」では<変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ>と“変化”を歌ってみせる。また、「alterna」や「Will」なんかは、浜崎あゆみのより“コア”な部分が感じられる曲のように思うが、対して、「fairyland」や「HEAVEN」は、浜崎あゆみのより“ポップ”な部分が出ているように思える。
こんな風に、2005年のシングルだけ考えてみても、あゆの作品には、常に、徹底して貫かれている「バランス感覚」を感じる。これは、前から感じる部分であったし、今にはじまった話ではない。探せばいくらでも語れる要素があるように思う。最先端でありながら古風である、とかね。
例えば、あゆのことを、「アイドル」と捉える人もいれば、「アーティスト」と捉える人もいる。「アイドルとアーティストの良いとこどり」だなんて文章も見かけたことがある。それが「中途半端な感じがして嫌だ」という人もいるみたいだ。私なんかは、「アイドル」とか「アーティスト」って言葉は抜きにしても、一体、あゆのどこをどう捉えたら「中途半端」になるのか聞いてみたいくらいなのだが…。
とはいえ、8年も活動してるってのに(2006年4月8日で8周年、オメデトー!)、未だに、「アイドル」という人もいれば「アーティスト」という人もいるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うんだけど、どうでしょ? 別に、「名前」としての「アイドル」とか「アーティスト」にこだわりたいわけではない。ただ、あゆが、そうやって、「アイドル」とも「アーティスト」ともつかない存在で捉えられているのだとしたら、どうしてそうなっているのか。そこが重要なんじゃないかなと思ったわけです。で、それには、あゆの「バランス感覚」が大きく関わっているんじゃないかと。
あゆのことを「アイドル」と捉える人は、どうしてそう捉えるのだろう。衣装とかメイクとかPVとか、見た目が派手だから? う~ん。「アーティスト」と呼ばれてる人にだって、ビジュアル面で大きく訴えてくる人はたくさんいる。自分で作曲しないから? まぁ、あゆはCREA名義で作曲もするのだけど、これはファンじゃない人は知らない人もいるだろうから、作曲しないからって理由も考えられる。でも、じゃあ、UAとかはどうなるの? UAも、最近は自分で作曲もするようになったけど、最初はずっと人が作曲した曲を歌っていたし、今だって全部自分で作曲しているわけではない。「作詞は自分、作曲は他人」という点では、UAだってあゆだって同じでしょ。でも、UAのことを「アイドル」って捉えてる人はほとんどいないような気がする。これは、売り出し方の問題なのか?
「自分で考えてやってる(感じがする)」のがアーティスト、「他人が考えたものをやってる(感じがする)」のがアイドル、ってことなのかな? う~ん。よく分からないねぇ。だって、あゆは、「他人が考えたものをやってる」って感じしないもの。それとも、あゆのことをアイドルって捉えてる人は、そう思ってんのかね? 「音楽面は人任せにしてそう」とか? レコーディングでもプロデューサー的役割をこなし、CMJKに「彼女は自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い」とまで言わせる「音楽家」なのにねぇ。他人の手を借りるのは、アイドルだってアーティストだって同じだし。「思想」とか「意志」が感じられるかどうかってことなのかな? あゆの作品からは、「思想」とか「意志」、感じられるけどね。「音楽が最優先(大前提)にあるかどうか」とか? う~ん。あゆは「音楽を最優先(大前提)にしている」と思うけどね。
まぁ、あゆについては、最初のイメージってのが根強いのかな。スカウトされて歌手になったとか、売り出し方とか、エイベックスとか、そういう背景によるところが大きいかもね(UAもスカウトじゃなかったっけ?)。あと、インタビューとか語る場があまり与えられてないってのもあるかも(とはいえ、あんまり語りすぎるのもどうかと思うんだよね。アーティストなら、まず作品で語って欲しい! その点、あゆは凄いかも…)。
ちょっと言っておきますと、私は、アイドルもアーティストも「表現」においては「同等」だと思ってます。他人が考えたものであれ、自分が考えたものであれ、最終的にはその「表現者」の手に委ねられるわけだから。もちろん、「同じ」と言ってるわけではないですよ。「それぞれの魅力」があるって言ってるんです。ただ、私、日本でホントに「アイドル」っていえる存在って、減ってきてると思うんだけどなぁ。ジャニーズとかハロプロとかしかいなくなってる気が。もう、「アイドル/アーティスト」って分けること自体、時代遅れになっちゃってる気が。それが良い悪いじゃなくね。
以上のことを踏まえた上で、私は、あゆがやっていることは、「アーティスト」なんじゃないかなと思っています(正確に言うと『Duty』ぐらいから)。でも、あゆに「アイドル」的要素があるというのもよく分かります。そして、それはものすごーーーく素晴らしいことだと思うのですが、どうでしょ? ビートルズだってクイーンだって、アーティストでありながら、アイドルでもあったわけで、そこが破格だったというか、素晴らしかったと思うのですが。だからこそできることがあると思うし、誰にでもできることじゃないでしょうに。ま、あゆを、ビートルズやクイーンと比べるなって声も聞こえてきそうですがね。それも分かるんだけど、ま、ある面ではってことですよ。
あゆ自身はどう考えているのかな。私が読んだことのあるインタビューの範囲で拾ってみると、2002年にこんなことを言っています。「前はアーティストとは何か?みたいなことに、ヘンに固執してるところがあったのね。どこからがアイドルで、どこからがタレントでと分けたりしてて。でも、私はあくまでアーティストだ!みたいな(笑)。そういうのはすごくあった。でも、それってすごく自分で自分の視野を狭めてたと思うの」~「アーティストと見てほしいという気持ちが強かったから、誰かに“アナタは誰ですか?”と聞かれたら、“私は浜崎あゆみという歌手です”ってすごく言いたかった。でも今は、“私は浜崎あゆみだ”と思ってるんです」。
誰だってそうだと思うけど、やっぱ色々葛藤があるんだろうね。『ayu ready?』をやるときだって、最初、「私がバラエティ番組をやる意味が分からない」とか言ってたって話を聞いたことがあるような気がする(不確かな情報ですが)。
私、思うんだけど、あゆが「アーティストとして見てもらおう!」ってことに本気で取り組んでたら、結構、皆が皆「アーティスト」って捉えるような存在になること、実現できてたと思うんだよねぇ。分かんないけど。でも、あゆは、そんなこと(アーティストとして見てもらおうとすること)止めたんだよね、きっと。そんなことより、「浜崎あゆみ」であろうとしたんだよ。「浜崎あゆみであろうとすること」を選んだんだよ、きっと。
どこにもない場所で 私は私のままで立ってるよ
「SURREAL」という曲で、あゆはこう歌っている。本当にそういうことなんじゃないかな。アイドルともアーティストともつかない「どこにもない場所」は、「中途半端」って捉えられるかも知れない。でも、「どこにもない場所」に「浜崎あゆみ」のまま立ち続けるって、容易なことじゃないと思うな。たくさんの「自問自答」が必要とされる気がする。「良いとこどり」っていうけど、それはちょっと違う気がするな。いや、ま、「良いとこどり」でも良いけどね、なんちゅーか、「自由であろうとしてる」って気がする。アイドルにもアーティストにも寄りかからず、アイドルからもアーティストからも自由になって、「浜崎あゆみ」を獲得しようとしてるっていうか。アイドル/アーティストってことだけに限らず、常に「自由であるために戦ってる」って気がするな。私があゆに「ロック」を感じるのは、そういうとこからきてる気がする。つまり、「ロック」っていうのは「自由へのあくなき追及」だと、そんな風に思うわけですよ私は。
もちろん、ただ「アイドル」からも「アーティスト」からも逃げるだけじゃ(良いとこどりするだけじゃ)、何も確立されないし、何も残らないと思う。それこそ、「どっちつかず」で終わってしまう危険性がある。ここで重要なのは、あゆは、「アイドル」とか「アーティスト」とかいったものと一旦向き合った上で(インタビューにある通り)、「浜崎あゆみ」を確立させてるってことなんだよな。
で、そのためには、物凄い「バランス感覚」がないとできないと思うんだよ。じゃなきゃ、すぐにバランスを崩しちゃうはずだよ。「どこにもない場所に立ち続ける」なんて。だから、2005年のシングルで挙げたようなこともそうだし、あゆの表現から常に「バランス感覚」が感じられるのは、当然といえば当然のことなんだな。その「バランス感覚」が、その瞬間その瞬間で、「自由」へと向かっていて、そしてその先で、「浜崎あゆみ」へと向かっているから、美しく輝いて伝わってくるんだろうな。
だってね、作品から伝わってくる「バランス」が、それこそ「良いとこどり」のような、ただ取って付けただけのような「バランス」じゃないんだもの。あらゆる要素を寄せ集めただけの「バランス」じゃなくて、それらが複雑に絡み合った上での「バランス」、あらゆる要素が切っても切り離せないところまできてる「バランス」なんだもの。つまりそれは、「浜崎あゆみ」というフィルターを通しての「バランス」になってるってことだと思うのよ。だから、「浜崎あゆみ独自のもの」になってると思うんだよな。
「バランス感覚」か。さすが「天秤座」だね! ってそういう問題かよ! いやいや、天秤ってバランスって感じするからさぁ、ただ言ってみただけだよぉ。でも、そう考えると、あゆの歌詞には「二元論」も感じられるし。その点、UAとも共通してるんだよなぁ。あ、UAは「魚座」です。ってどーでも良い!
2002年のインタビューは、こう締めくくられていた。
「最近つくづく思うんです。どこにいても、何をやってても、結局私の職業は死ぬまで浜崎あゆみなんだなって」
あゆ、カッコ良すぎます。