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言わなければよかったのに日記

BEST of COUNTDOWN LIVE 2006-2007 A

2006-12-30 18:46:27 | AYU
この日は、あゆのカウントダウンライヴ、『BEST of COUNTDOWN LIVE 2006-2007 A』に行ってきました。

今回、タイトルに『BEST of ~』と付けられてるのは?!
ということは、ベスト的な内容(選曲)になるのか?
あゆは、11月29日にアルバム『Secret』を出しているが……。

これらの疑問は、会場に入って「そうだったのか!」と。

●2月28日(水) 浜崎あゆみ、ベストアルバム2作同時発売決定!
『A BEST 2 -WHITE-』
『A BEST 2 -BLACK-』

「音楽業界が震撼する超ベストアルバムが再びやってくる!」んだそうです(笑)。
いやぁ、テンション上がるね。ちょうどこの記事で、次のベストについて「話が出ててもおかしくない」とか「デビュー10周年の年にドドーンと出しちゃったりなんかして?」とか書いてたところだったし。デビュー10周年の年より1年早かったけどね。

ここではベストアルバムの話は置いとくとして、やはり、ベストのことがあったから、ライヴでも、現時点での集大成的なことをやりたくなったのだろう。開演前にして、一人で勝手に納得……していたはずだった。
(開演前には、私の知らない洋楽(たぶん)がかかってました。情報求ム!)

集大成的と言っても、懐かしい曲が聴けるのかな?ぐらいにしか思っていなかった。それでも、まだまだ生で聴いたことのない曲がたくさんある私としては、いや、そうじゃなくても、十分楽しみだった。

しかし、『Secret』の1曲目「Not yet」がオープニングに流れ、「やっぱりSecretモードなのか?」と思わせてから、1曲目がはじまってビックリ! 曲は「ourselves」だったのだが、『ARENA TOUR 2003-2004 A』のときの演出だったのだ(あゆが吊られて出てくる)。うぉー、私が初めて行ったライヴだ!

え? ってことは、もしや!?

と思ったら、本当にそうだった。続く「Fly high」では、『ARENA TOUR 2003-2004 A』の衣装。「NEVER EVER」では、『ARENA TOUR 2002 A』の檻をぶち破る演出。「A Song for ××」では、『ARENA TOUR 2002 A』のカンフー(?)を取り入れた演出。「No way to say」は、『ARENA TOUR 2003-2004 A』のドデカ衣装。「Free & Easy」では、『ARENA TOUR 2002 A』の宙に浮いた輪っかに座る演出。「Boys & Girls」では、『ARENA TOUR 2005 A ~MY STORY~』の噴水……。

あゆ、やってくれるわぁ。

ただ単に、ベスト的な選曲のライヴをするのではなく、ライヴそのもののベスト的な内容というか、今までのライヴを総括するような内容。美味しいとこどりって言っちゃうと身も蓋もないけど、やっぱりこれは凄い…。今までの叡智を結集した一大絵巻だもの。改めて、あゆってとんでもないことをやってきたんだなぁって思った。というか、スタッフ凄い! 衣装替えやセットチェンジが怒涛のようにあるから、よくこんなことが実現できたなって感じ。まぁ、忙しい忙しい(笑)。これを思い付くのも凄いと思うけど、実際にやってしまおうと思えるあゆチームが凄いよ。いやぁ、参った参った。

でもね、今、こういうことが実現できてるのも、あゆが「そのときそのときでベストを尽くしてきた」からなんだよね。もちろん、足りない部分も成功してるとは言えない部分もたくさんあっただろう。だけど、「自分のそのときそのとき」に対して「嘘のない表現」を常にしてきたから、だから今、こういうことができてるんだなぁって、強く思った。じゃなきゃ、あんな絵巻は描けないし、その辺のところは、今度出るベストにも如実に表れてるんじゃないかなぁ。この日のライヴを観ながら、あゆが築き上げてきたものの大きさを漠然と感じた。

カウントダウンライヴは、ツアーと違って、シンプルなライヴをやることが多いから、そういうのを期待していた人は、ちょっととまどったかも知れない。私もその中の一人。それに、いくら豪華な演出とはいえ、過去からのものであるために、もっと現在進行形のあゆが観たかったという人もいるだろう。ただでさえ、『Secret』が発売されたばかりだったのだから。使い回しだというシビアな見方もあるかも知れない。

でも私は、今回こういうことをやれた意義は物凄く大きいんじゃないかと思った。今まで自分がやってきたことを一つ一つ確かめながら、それをまた、自ら一つ一つ封印していくかのように表現していく彼女を観て、「私、次に行くからね!」というような声を聞いたような気がした。2007年は、初のアジアツアーも控えている。2006年に、『(miss)understood』と『Secret』という2つのアルバムを出し、新たな旅立ちをしようとしている今、ここにきて自らの活動を一旦振り返ることができたのは、しかも、お客さんの反応をダイレクトに感じられるライヴという場でそれをやれたのは、あゆにとって物凄く大きいんじゃないかな。

そして、もう一つ大きかったことは、これがただの「集大成的なライヴ」で終わってなかったこと。過去のライヴから引用していながらも、そこには「今」のテイストも加えられていて、確かに「今」を感じさせるものであったこと。

「Fly high」から「Beautiful Fighters」(『Secret』収録)へと違和感なく繋げてみせ、また、初披露の新しい曲である「Beautiful Fighters」が歴史ある馴染み曲「Fly high」に負けていない。「NEVER EVER」では、CDとはまったく違うアレンジで新鮮に聴かせる。「A Song for ××」は、ファースト収録の原点中の原点と言える曲でありながら、今も当時に負けないリアリティを持って響いてきた。余談だが、『Secret』収録の「Secret」は、「A Song for ××」のアンサーソングのような内容。だから、もしかしたら、「A Song for ××」が聴けるかな~と思っていたのだ。

そして、この日、私が最もシビれたのは、『Secret』収録の「until that Day...」だった。ずっと聴いてみたかった「A Song for ××」や一度生で聴いてみたかった「Free & Easy」が聴けたのにも関わらず、だ。いやぁ、『Secret』から何曲か披露されるかなと思っていたが、まさかこの曲を持ってくるとは!(逆に、「JEWEL」や「1 LOVE」やらないんだからなぁ) あゆったら、チャレンジャーだなぁ。そして、それがめちゃめちゃカッコ良い! 何なんだこの人は! 調子に乗って、「生き様がロック!」ってこういうことを言うのかな~って思っちゃったじゃないか。大晦日では、新年一発目にこの曲を持ってきたということだから、やっぱりそういうことなんだろう。集大成的な内容であっても、あゆの向いてる先は、「過去」なんかじゃない。

いやぁ、こんなことをやってのけてみせるなんて、正直、驚いたよ。

そうそう、メッセージ映像では“英語”を聞かせてくれましたね。

それはそうと、今回改めて発見したんですが、「flower garden」って凄い曲じゃないですか!? うねるイントロ、スウィングするようなロックなグルーヴ、輪唱のように追いかけていくコーラス、それがゴスペルのように盛り上がっていき、そして、あゆのリズミカルなラップ、と、なんだかゴチャゴチャしてるのか?って感じですが、これが見事にシンプルに結実している! あのね、どこぞのミクスチャー・ロックとかよりも、あゆはいち早くラップを取り入れたりしてんの!!(たぶん…笑)

そして、今回あゆが最後の曲に選んだのは「BLUE BIRD」。最初、ラストを飾る曲っぽくないというだけの理由で、「これで最後?」だなんて思っちゃったけど、すぐに何故この曲を最後に持ってきたのかが分かったよ。

MCでアジアツアーの話になって、「海の向こうの浜崎あゆみ。観てみたいよねぇ!」って、ヨッちゃんがワクワクしながら言っていた。それに対して、「どういう風になるのかぜんぜん想像つかないですけど」って言ったあゆは、ちょっと不安そうで淋しそうに見えたんだ。

そして、「BLUE BIRD」――。

<居場所はいつもここにあった>

あゆは今、これを伝えたかったんだって思った。それでも、

<青い空を共に行こうよ どこへ辿り着くんだとしても>

なんて素敵な人なんだ!!!

あゆは、いつだって、歌で気持ちを伝えてきてくれた人だったよなぁと再確認。

歌い終わった後には、凄く爽やかで素敵な笑顔になってたよ。

やっぱり、今回こういうことをやれたことは大きかったと思う。自分のやってきたこと、切り開いてきた居場所を改めて確認し、そしてまた新たに! 「BLUE BIRD」にすべて込められてたと言っても過言ではないくらい。

というわけで、『BEST of ~』と銘打たれている通りベスト的な内容でありながら、『Secret』にも通じる内容とも言えて、「Not yet」のオープニングからはじまったのも納得で、それがまた、感動的でもありました。点が線になる瞬間というか、過去と今が繋がって、そして未来へ、みたいな。

最後に――。「BLUE BIRD」で<居場所はいつもここにあった>と歌っているあゆですが、同じく『Secret』収録のアルバム最終曲「Secret」では<今もここで私は変わらず居場所をずっと探しています>と歌っています。どっちなんだよ!! って、いやいや、あゆとはそういう人なのです!?

2007年も、あゆから目が離せない!

<セットリスト>

SE. Not yet
01. ourselves
02. Fly high
03. Beautiful Fighters
04. NEVER EVER
05. A Song for ××
06. No way to say
07. Free & Easy
08. evolution
09. flower garden
(メッセージ映像)
10. until that Day...
11. AUDIENCE
12. Boys & Girls

13. Trauma
14. independent
15. Humming 7/4
16. BLUE BIRD

あの、私のツボを突いた、ヴェールが冗談みたいにメッチャ長い「M」をやってくれたのなら、私は大爆笑、いやいや、もっともっと大興奮していたかも知れない(ぼそっ)。


邦楽をもっと聴かせて!

2006-09-23 23:07:41 | AYU
邦楽を積極的に聴くようになる大きなキッカケを私にくれたのは「椎名林檎」だった。それ以前にも、ミッシェル・ガン・エレファント、ホフディラン、トライセラトップス、ブリリアント・グリーンなど聴いてはいたが、やはり私の中心は洋楽だった。(そのもっともっと前まで遡れば、L⇔Rだったりしますがね)

椎名林檎の何がそんなに自分にとって斬新だったのか、今でもよく分からない。しかし、あれから何年かの月日が経った。その間に私は、椎名林檎の対極、もっと言えば敵(笑)ぐらいに思っていた「浜崎あゆみ」を好きになり、そのことによって、自分がどうして椎名林檎にあんなにも惹かれたのかが、当時よりは分かってきたような気がしているのだ。浜崎あゆみ、おそるべし。

それまで洋楽中心だった自分が言えるのは、椎名林檎が洋楽に近かったから夢中になったのでは決してないということだ。もしかしたら、ミッシェル・ガン・エレファントやトライセラトップスなどには、洋楽に近いものを求めていたのかも知れない。つまり、「洋楽ありき」で聴いていたのだ。しかし、椎名林檎は違った(実はここに「エレファントカシマシ」も入る)。彼女の音楽は、私に洋楽を忘れさせるほどの輝きを放っていた。だから私は、実際に洋楽を忘れかけたんだと思う。『ロッキング・オン』(洋楽専門誌)ばかり読んでいたのが『ロッキング・オン・ジャパン』(邦楽専門誌)ばかり読むようになり、(椎名林檎の影響がバレバレですが)ブランキー・ジェット・シティ、くるり、中村一義、UAなどの邦楽を一気に聴くようになった。

もちろん、本当に洋楽を忘れたわけではなかった。クーラ・シェイカーが来日すればライヴに行ったし、レディオヘッドが来日すればライヴに行った。

そうこうしているうちに、転機が訪れた。あれほど嫌っていた、心のどこかでバカにさえしていた「浜崎あゆみ」に、ガツンとやられてしまったのだ。私は、まったく意味が分からなかった。どうして浜崎あゆみなんかに惹かれてしまうのだ? 自分が一番バカにしていた「商業音楽」じゃないのか? 浜崎あゆみはそれを最も象徴する存在じゃないのか? 一体全体これはどういうことなんだ!?

そして、それだけではない「変化」が自分の中で起こっていることに気がついた。自分が盛り上がっていた邦楽のいくつかに盛り上がれなくなり、再び洋楽への興味が増しているということだ(これは逆もあるんだけど)。浜崎あゆみと言えば、「J-POP(邦楽)」を象徴するような存在だと思っていたのに、これはなんとも、不思議な話だなぁ。洋楽への興味は、以前から変わらないと言えば変わらないので、それほど問題ではない。一番の変化は、邦楽を聴くようになったキッカケである椎名林檎(今の)に、以前のように盛り上がれなくなってしまったということだろう。

もしかしたら、浜崎あゆみを好きになっていなければ、私は今も椎名林檎を追いかけていたのかも知れない。何も、浜崎あゆみが椎名林檎に取って代わったと言いたいわけではない。あゆはあゆ、林檎ちゃんは林檎ちゃんだ。椎名林檎に盛り上がれなくなったことと、浜崎あゆみに夢中になっていることは、無関係であろう。

しかし、私が浜崎あゆみの表現に興奮するとき、「私がかつて椎名林檎に求めていたのはこのことだったのかも知れない…」と思う自分がいるのも確かなのだ。それは、音楽性というよりも、「大衆的であろうとする」という姿勢の面でのことだと思っていた。しかし、そもそも、「音楽性」と「スタンス」というのはハッキリ分けられるものなのだろうか。いや、仮に分けて考えることが可能であっても、「スタンス」だけで済むのなら、「浜崎あゆみ」じゃなくたって良かったはずだし、「音楽性」だけで済むのなら、「椎名林檎」で良かったはずだ。もちろん、誤解のないように言っておくが、私は浜崎あゆみに椎名林檎の幻影を見ているわけではない。何度も言うが、あゆはあゆ、林檎ちゃんは林檎ちゃんだ。

では何故、「浜崎あゆみ」を追いかけていくことによって、「椎名林檎」の何に夢中になったのかが分かってきたのか。そう、私は、「椎名林檎」の何に夢中になったのかが分かってきたのではなく、「邦楽」の何に夢中になったのかが分かってきたのではないか。「椎名林檎」は、私にとって「邦楽を聴くようになったキッカケ」の存在である。

近田春夫は、「椎名林檎」についてこう評していた。
「日本語のロックとは何なのか、いつの間にか難しすぎて、ほとんどのアーティストが考えもしなくなった、しかしやはり絶対に曖昧に出来る筈もないその問題に対して、このヒトは真正面からぶつかっている気がする」
(『考えるヒット』1999.11.18より)

私が今、この文章を読んだとき、真っ先に思い浮かべたのは「浜崎あゆみ」だった。だって私は、こんな風に書いていたんだもの。
「日本語のロックに出来ることは何なのか? そんなことをこんなにバカみたいに真剣に考えさせられたアーティストは、私にとって、おそらく、『あゆ』が初めてだよ。あゆを聴いてると、日本語ロックとは何なのか?って、そういうことに向き合わざるを得なくなるんだよ」
「sweetbox "ADDICTED" to "(miss)understood"」より)

そしてそれは、前回の「流行歌手で悪いかぁ!」で書いたようなことに繋がっていった。

つづく。
(そう言えば、林檎ちゃんとあゆの「今度会おうね」は実現したんですかねぇ)

******

え~、こんなことを書いているうちに、2006年から2007年に変わってしまいました。あゆの最新の動向、ちゃんとチェックしていますよ。色々書きたいこともありすぎるくらいありすぎます。もうちょっと何とかなんないかなと対策も考えております。現在と過去を行ったり来たりして書いても良いじゃないか、とか。でも、やっぱり、変わらないかも知れません(笑)。今回の記事も結局「つづく」になってしまったし、どうなることやら…。こんなブログですが、もう少し更新ペースを上げていきたいと思っていますので、2007年も何卒よろしくお願いいたします。


流行歌手で悪いかぁ!

2006-09-22 18:55:59 | AYU
「上から物を言うのが文学なら、我輩は文学者ではない。流行作家で十分だ」
(TBS『我輩は主婦である』より)

さてさて、、、

マドンナの作品をいくつか聴いて、幸運にも13年ぶりの来日公演があってライヴを観て、あゆがマドンナから大いに影響を受けていることがよく分かった。うん。確かによく分かった。けど、それと同じくらいに、いや、もしかしたらそれ以上に、こうも感じてしまった。

マドンナとあゆ、全然違うじゃん!!

「MADONNA Confessions Tour」でも書いた通り、あゆがマドンナから影響を受けてることは紛れもない事実だろうと、それはライヴを観てより確信に変わったのだけど、同時に、全然違うじゃん!とも思った。「なるほど似てるな」とも思ったし、「いや全然違うな」とも思った。それが私を混乱させた。マドンナのライヴを観たらあゆのことがもっともっと分かるかと思ったら、ますます分からなくなってしまったという感じ。

あゆがマドンナから影響を受けていることは分かったが、では、何故、何がどうなって、あゆの表現がああいう風になっているのかが分からない――。

やっぱりあゆはマドンナが好きなんだな!こういう風になりたいんだな!ってだけ思えたら、それで楽だったのかも知れない。それ以上考えないで済んだのかも知れない。しかし、あゆはそれで終わりにはさせてくれなかった。もちろん、違う人なのだから違って当たり前だし、マドンナと比べなくたって良いわけだが、私の、その、喉の奥に引っかかってしまったような「違和感」は、考えずにはいられない「謎」として、どうしても無視することができなくなってしまった。そして、ようやく、やっとこさ、こんな考えが浮かんできた。

この「違和感」こそが、あゆの凄さだったりして!?

むしろ、倖田來未や安室奈美恵なんかの方が、分かりやすいのではないか?と思ってしまった。いや、安室ちゃんはマドンナよりもジャネット・ジャクソンだとか、倖田來未は……とか色々あるかも知れないが、ここで言いたいのはそういうことではなく、例に挙げるのはYUKIとか他の人だって良いのだけれど、影響の受け方というか出し方というか。例えば、倖田來未とかは、解釈の仕方や理解度はともかく(はい、エラそうなこと言ってます…笑)、マドンナとか好きなんだろうなっていうのが何となく分かるというか。マドンナ・チルドレンとして、捉えやすいというか。

しかし、あゆの場合、「マドンナからの影響」を確かに感じさせながらも、それが、マドンナから影響を受けてこうなったとは俄かには思えないような「何だかよく分からない形」になっているような気がする。それでいて、前述したどのアーティストよりも、感じさせる「マドンナからの影響」が根深い。つまり、より深くマドンナから影響を受けていながら、マドンナからより遠い表現をしているといった印象なのだ。マドンナだけで考えなくても良い。マドンナのライヴを観て違和感を感じた私は、マドンナよりもスマパンとか、そういう方にあゆは近いんじゃないか?とも考えたりしたが、それでも結局、同じことだった。「スマパンからの影響」を感じさせながらも、それが、「何だかよく分からない形」になっている。

結局、マドンナ(やスマパン)からの影響は、あゆの中の一要素にしか過ぎなかったということなのだろう。だから、「マドンナからの影響」だけで語り切れるわけがない。世の中たくさんの音楽があるのだからそんなの当たり前だと思うかも知れないが、果たしてそうだろうか。

これは、私が、あゆについてはある程度詳しいからなのかも知れないとも思った。先ほど例に挙げた倖田來未などは、よく知らないから、マドンナ・チルドレンの一言だけで片付けられてしまうのだと。それもあるとは思う。しかし、それだけで説明できてしまうなら、私のこの「混乱」は何だったんだ?という感じだ。それほど、私が感じた「違和感」は強烈だった。そしてまた、私にとって、そういう「何だかよく分からない形」であるとか「強烈な違和感」とかいったものを感じさせるアーティストは、非常に少ないことに気付いた。そしてそこに、どうしようもなく惹かれている自分がいることにも。

私は、この「違和感」を表現する言葉を探していた。そのとき、たまたま読んでいた小林信彦の『日本人は笑わない』で、「美空ひばり」について書かれていた文章に出会った。そこに、古川ロッパが、初めて見た美空ひばりの印象を次のようにしるしたとあった。

「美空ひばりといふ笠置(シヅ子)の真似して歌ふ十二歳の少女、まことに鮮やかであり、気味わるし。」

この文章に、特に、「まことに鮮やかであり、気味わるし」って表現に、今の自分があゆに対して抱いている感情をズバッと言い当てられたような気がして、そこからは一気に読んでしまった。

古川ロッパが「気味わるし」と感じたものは、ここでは、「とっくに否定されたはずの<古い日本>であり、<湿った感情>だった」とされている。

小林氏は、美空ひばりのことを「外来のリズムを強引に自分の世界に結びつけてきた歌手」とし、「とにかく形容しがたい和洋折衷」であり、「美空ひばりのオリジナリティは、こういう<えたいの知れぬ和洋折衷ぶり>にある」としていた。「ジャズが流行すれば『A列車で行こう』をうたい、ロカビリー・ブームとなれば『ロカビリー剣法』をうたった美空ひばり」とし、あくまで「流行歌手」として捉えている。<えたいの知れないアナーキーな和洋折衷>があくまで華やかに明るくうたい上げられているのを見て、「どうして<演歌の女王>なんだ?」と疑問を投げかけている。「もし美空ひばりが<日本的>であろうとするならば、こうした和洋折衷のごった煮でありつづけるしかない。一見、非日本的に見えるけれども、日本語と原語でうたわれたあの「シェリト・リンド」こそ、<今の日本>そのものじゃないか……」。

いやはや、引用ばかりしてしまって申し訳ない&お恥ずかしい限りですが、こんな文章、自分では書けそうにないので許して下さい。

そう、私は、これらの表現にイチイチ「これだ!」と興奮してしまったのです。もちろん、「美空ひばり」と「浜崎あゆみ」では、時代も違いますし、「美空ひばり」について詳しくない私が言えることではないってのも分かっていますし、あの「美空ひばり」を引き合いに出すなんて恐れ多いっていうか身の程知らずってことも分かっています。ですが、そんなこと言ってももう遅いじゃないですか? だって私は、今までだって、あゆのことを書くときに、さんざん、「ビートルズ」やら「クイーン」やら「マドンナ」やらの名前を出してるんですからね! そういう名前を出さなければ語れないところまで「浜崎あゆみ」はきてるんですよ!(はい、調子に乗った…笑)

とにかく、これらの文章と私が感じた「違和感」というのが、私の中でどんどん繋がっていってしまったんです。そして私は、以前にもこういった感覚を私に与えたアーティストがいたことを思い出しました。「椎名林檎」です。

次回へつづく。


Have you confessed?

2006-09-20 22:23:52 | AYU
ずっとずっと会いたかった、「マドンナ」に会ってきた。

いや、「ずっとずっと」なんて言うと、お前のような俄かファンがゴラ!って感じなのですが、気持ちとしてはそれくらいってことで、許してね。

今回は、そのことを書く前にちょっとした“告白”を――。

こんなところで、カッコつけたり、見栄を張ったり、知ったかぶりをしても、なんの意味もないので、はっきりと書いておきますが、私がマドンナに真剣に興味を持ったキッカケは、「あゆ」です。そう、「浜崎あゆみ」です。

そんなこと言ったら、「邪道」だと言われてしまうのかも知れないけど、「嘲笑」されてしまうのかも知れないけど、それが自分にとっては「本当のこと」なんだから仕方がない。好きなものに対して嘘はつきたくないし、自分に嘘はつけない。もっとも、マドンナはそんな小さな存在ではなかったけれど。

私にとってマドンナは、「有名なアーティストの一人」に過ぎなかった。何故だか女性アーティストはあまり聴かない傾向にあったし、好き嫌いとか興味の有る無しじゃなく、単純に縁がなかった。恥ずかしながら、ちゃんと認識している曲もなかった。ビョークと関わりがあったり、気になる存在ではあったけれど。

それが、まさか、「浜崎あゆみ」がキッカケで、「マドンナ」に興味を持つことになろうとは…。

私は、今でこそあゆのことを好きだと書いているが、最初は何となくあゆを嫌っていたのだ。いや、嫌っていたというより、避けていたという方が近いか。今にして思えば、油断していると入り込まれてしまいそうな何かがあゆにあったってことだと思っているが、自分が認めたくないものの象徴として、あゆがいたような気さえする。そこらへんのことについては、まだまだ書かなきゃとは思っているのだが(今までも何度か書いてきたが)、とにかく私は、あゆを好きになった。その気持ちは、大げさでなく、私の中の何かをすべて引っくり返してしまいそうになるような勢いだった。それからはもう、それに対抗するのに必死だよ(笑)。その軌跡がこのブログとも言えるのだけど(笑)、まぁ、言ってしまえば、あゆに「丸裸」にされちゃったってわけ。

でもこれは、音楽をより深く愛するチャンスを与えられたってことだと思ってる。だって、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるもの。いや、あゆを好きになる前だって、考えてたのかも知れないけど、あゆを好きになった今となっては、何だかどこか自分が「傍観者」でいたような気がしてくるから不思議だよ。だけど、何がどうとかうまく説明できないんだけど、あゆは私を「傍観者」でいさせてくれない。そして、それは、「ビートルズをリアルタイムで体験すること」と同じような気がしてきてしまうんだ。そう言う私を笑う人がいても構わない。ただ、私にとってこの胸のドキドキワクワクは、ビートルズさえも与えてくれなかったものであり、と同時に、ビートルズが与えてくれたものでもあるんだ。

自分の持ってる「知識」だとか「経験」とかでは歯が立たない「好き」に出会ってしまったってことかな。だから、その「好き」に対峙するために、「知識」や「経験」を磨かなくてはっていうか。さっきも書いたけど、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるよ。いかに自分が「無知」であるかを思い知らされたってことかな。それだけ自分にとってあゆが「未知の存在」だったってわけだ。まぁ、「知識」や「経験」も、「愛」がすべてのはじまりってことだね。逆に、愛なき知識、愛を忘れた経験ってのが、いざというときに、いかに役に立たないかってのが痛いくらいに分かったっていうか。

そうして、あゆを好きになっていくうちに、ぶち当たってしまった存在が「マドンナ」だったのでした。プロモや衣装などのビジュアル面での類似を取り上げられてたりするのが世間的には代表例だと思うのですが、そうでなくても、あゆがマドンナから多大に影響を受けているであろうことは、あゆの表現に触れていれば、自ずと、もう逃れようもない事実としてそこに存在しているのでした。

あゆが好きだと公言しているアーティストは、マドンナの他にもたくさんいますし、類似を取り上げられるアーティストも、マドンナだけではありません。だけれど、そういった数あるアーティストの中でも、「マドンナ」という存在が引っかかってしまったんです。マドンナとの類似を挙げられるのは、ビジュアル面でのことが多く、一見、表面的なことだけで言われているようにも見受けられます。しかし、表面的なことだけでは計り知れない影響が、あゆの中にあるように感じられたのです。あゆとの間に、他の多くのアーティストにはない、深い関連性が、マドンナにはあるような気がしたのです。あゆの本質を理解するためには、マドンナを避けては通れないというような…。

そこには、あゆを愛する者として、そして、音楽を愛する者として、目を背けてはならないような、いや、目を背けずにはいられないような「神秘」が潜んでいるような気がしたのです。

そうして私は、「マドンナ」に真剣に興味を持ちはじめました。


sweetbox "ADDICTED" to "(miss)understood"

2006-08-23 17:55:32 | AYU
スウィートボックスのライヴ、『"ADDICTED" to JAPAN Tour』に行ってきた。

その記事が何故、「AYU」カテゴリなのかというと……。

今年元旦に発売された浜崎あゆみの『(miss)understood』には、スウィートボックスのGEOからの提供曲が「6曲」収録されていた。インタビューによると、選曲もアレンジも詞もほぼ見えてる状態だったアルバムを、一旦全部ゼロに戻してまで、あゆが入れようとした6曲ってことになる。

その後、3月に発売されたスウィートボックスの『アディクテッド』に、あゆに提供した曲のセルフカヴァーが収録された。何曲入ってるのかな?と思って曲目を見てみると、「Pride」「Bold & Delicious」「Ladies Night」の3曲のようだ。と思ったら、タイトルは違っているが、他にも2曲あった。「Every Step」と「Beautiful Girl」だ(あゆの方のタイトルは、「rainy day」と「Beautiful Day」)。ということは、セルフカヴァーが「5曲」も収録されてるってことだ(ただ、スウィートボックスがあゆの曲を聴いてからレコーディングしたかは不明)。なんだかなぁとも思ったが、こうなった以上、とにかく聴いてみたい! いや、これは、あゆファンならば、聴かねばならない作品だろう! だって、普段は気付きにくいあゆの才能に気付けるかも知れないんだからね…。(『アディクテッド』については、あゆも公式コメントを出しています)

そういうわけで、スウィートボックスの『アディクテッド』を聴き、ライヴにも足を運んだのですが、いやあ、CDだけでなく、ライヴまで体験できるとは! もちろん私は、あゆのライヴでも「GEO提供曲」を体験済みだからね。これは、今まで見えてこなかったあゆの魅力に触れられる最高のチャンスじゃないですか!

というわけで、私が書くことは、結局、「AYUカテゴリな内容」になってしまうのです。ごめんなさい。ただ単に私が、スウィートボックスについて語れるだけの言葉と見識を持っていないってだけなのです。

******

セルフカヴァーが収録されると聞いたとき、私は正直、ちょびっと凹んでしまった。あゆがせっかく新境地を見せたのに、ここで本人にやられちゃあ、敵わないよ、しかも相手外人だし、と、そんなことを考える自分が何よりも嫌なくせに、誰よりも私自身がそう思っていた。でも、心のどこかでは、良くも悪くもこれで真価が問われると、ドキドキしていた。ま、とにかく、聴いてみないことには何も始まらない。

そして、『アディクテッド』に収録されているセルフカヴァーの5曲を聴いた。
そして、この日のライヴでも、「Beautiful Girl」を除く、4曲を聴くことができた。

もちろんこれは、好みがあるだろうし、好き嫌いは聴いた人それぞれが決めることだ。だから、これから書くことは、あくまでも私個人の意見でしかない。でも、そんなことを言ったら、音楽について書かれた文章なんて、全部そうでしょう? けれど、だからこそ、なるべく、出来るだけ、そういった個人の好みとは関係ないところで書けたらなぁと思っている。出来てるかどうかはともかく、そう思っている。

というわけで、これだけは言えると思ったことがある。

「あゆの方がイッちゃってる」

スウィートボックスも確かに良いのだけれど、何か足りない。何年後かに思い出すとしたら、あゆの方だろうなと思う。心に残るのは、あゆの方だと。

それが何故なのかを、私は知りたいんだと思った。そして、そんなことを考えている自分に驚いた。だって、こんなことを考えてみたのは、初めての経験だったから。だから、漠然と思った。

「浜崎あゆみは本質を暴いていくアーティストなんだ」

そう思ったら、今まで抱いていた色々な謎がスッと解けていくような気がした。

スウィートボックスよりあゆの方が、何故良いのか、良いと感じるのか。それを突き詰めていったら、日本語のロック(J-POPでも歌謡曲でも何でも良いけど)に出来ることは何なのか?とか、そういうことにぶち当たってしまった。そんなことをこんなにバカみたいに真剣に考えさせられたアーティストは、私にとって、おそらく、「あゆ」が初めてだよ。それは、日本語ロックの本質に向き合うことに他ならないじゃないか。だから、あゆは本質を暴いていくアーティストなのかもなぁって思ったんだ。あゆを聴いてると、日本語ロックとは何なのか?って、そういうことに向き合わざるを得なくなるんだよ。そんな、考えなくても済むのなら、考えなくても良いような、しかし、それを考えなければ日本語ロックに未来はないとも言えるような、そういうことをさ。まぁでも、それも最近になって、なのかなぁ。あゆは、遅咲きのアーティストなのかも知れない。

話を元に戻そう。

具体的には、どんな風にあゆの方が良いと思ったかというと……。

まず、パッと聴いただけでも違いが分かるのは、「Bold & Delicious」「Pride」「Ladies Night」の3曲。「Bold & Delicious」は、音の隙間の取り方といい、歌の間の取り方といい、コーラスの付け方といい、もう一言で言ってしまうと、あゆの方がファンキーなのだ。「Pride」は、曲の荘厳さや重厚さ、迫力において、あゆの方が勝っている(その分、あゆの方が重いが)。「Ladies Night」は、コミカルかつ狂気を感じさせるビートの打ち込み方、ナレーションのようなラップからキャッチーなコーラスへと展開していくときの強引さからくるグルーヴ、電話の音での終わり方など、すべてが圧倒的。

また、これら3曲に比べて、そんなに違いがないように思える「Every Step/rainy day」「Beautiful Girl/Beautiful Day」でも、「Every Step」には、最後にフワッと音が消える瞬間、それがない。「rainy day」では、それがあることによって、曲の描く世界がグッと広がると同時に奥深さが増している。「Beautiful Girl/Beautiful Day」も、どちらがソウルフルかと聞かれれば、あゆの方だと言わざるを得ない気がする。

ここで、ふと気が付いた。

あゆがやっていることは、その曲のルーツや根源にあるものを掘り下げることではないかと。「Bold & Delicious」では、よりファンキーに。「Ladies Night」では、80年代を感じさせるビートとそれに絡むラップ~コーラスを強調。「Pride」では、その曲が持っているクラシック的というかオペラ的というか、そういう要素を掘り当てているといった感じだ。「rainy day」では、潤いや情緒を感じさせるリズムの刻み方やサウンドの繊細な構成から、エレクトロニカ等の影響が感じられる。「Beautiful Day」では、シンプルでありながら、よりソウルフルに聴かせている。

つまり、人から提供された曲でありながら、その当人よりも、そのルーツや根源にあるものを掘り下げてしまっているという印象なのだ。これが本当だとしたら、物凄いことなのではないだろうか。少なくとも私は、これに気付いたとき、胸が震えてしまった。

そして、それだけではない。あゆの楽曲には、スウィートボックスの楽曲にはない、ある種、「破壊的」なところが感じられる。解体して再構築しているというか。だから、その曲のルーツを感じさせながらも、どこか歪(いびつ)でもある。つまり、人からの提供曲でありながら、それを土台にして何かを付け加えるのではなく、それを解体して、そのルーツや根源を探り当てながら、尚且つ、そこに何かを付け加えて、再び構築していく。そういうことが行われているような気がするのだ。

そういうことなら、あゆ側の編曲者がすごかっただけじゃないの?という見方もできる。しかし、あゆは、自分で曲も作るし、編曲だってやる人なんである(『MY STORY』で、初の自作インストを披露、そこで初めて編曲にも挑戦している)。現場では、ヴォーカルスタイル、フェイクやコーラスのアレンジを次々と繰り出し、プロデューサー的役割をこなしているらしいし、そんな人が、音に対して人任せでいられるわけがない。いや、仮に、人任せであったとしても、あゆの求心力がなければ、こんなサウンドは作れなかったはずだ。それは、聴いてみれば分かる。それに、今回は長くなってしまうので書けなかったが、スウィートボックスを聴いて、あゆの「日本語(歌詞)の乗せ方」に感服してしまった。特に「Bold & Delicious」「Ladies Night」なんて、よくもまぁこんなことが出来たなというか、どうしてこんなことが出来たのかと不思議に思ってしまったくらいだ。補足するわけではないけれど、以前にも引用させてもらった、CMJKのこんな言葉が、あゆの「音楽家」ぶりを言い表していると思う。「彼女はちゃんと自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い。ものすごいアイディアマンでもあるからね」

さて、『(miss)understood』で私が感じたのは、まだまだほんのちょっと顔を出しただけに過ぎないかも知れないけれど、「ブラック・ミュージックへの接近」だった。それが、今までにない深みをもたらしているように思えた。

近田春夫は、4thシングル『For My Dear...』(98/10/07)の時点で既にそれを見抜いていたかのように思える。収録されていたアコースティック・ヴァージョンについて、こんな風に書いていたのだ。

「ちょっとロバータ・フラック風な生ピアノとエレピの実に黒いアコースティックだった。このミックスの方が、彼女の魅力がよく見えるような気がする」

今回、スウィートボックスのライヴに行けて、本当に良かったと思う。