助ぶ六゛

楽しかったこと、おいしかったもの、忘れられないこと

ユウヒ・ドットコム(1)

2006年11月12日 | 助六の創作
http://www.yuhi.com/prologue.html

 蒸したタクシーの車内に、携帯電話の着信メロディーが流れた。
 その音は砂漠で方向感覚を失った者がふと目撃した航空機影のように、運転手の虚ろだった瞳に生気を甦らせた。タクシードライバーというのは一見賑やかな接客商売のようだが、実際は一枚の鉄板によって華やかな街から決定的に隔絶された孤独なビジネスだ。彼はいつでも好きなところへ移動して、街のあちこちを観察することができる。だが街の人々は誰ひとり彼の存在に興味を抱かない。ルームミラーごしのアイコンタクトと最低限の単語のやり取り。それがその世界のすべてだ。
 オルゴールのように涼やかな着信メロディーは、そんな彼の世界を心地よく揺さぶり続けた。こうやってたまに訪れるコネクトの要求が、彼が決してたったひとりにはならないことを証明してくれる。俺はひとりにはならない。その前提があるからこそ、狭いタクシーの車内に一日中座り続けることができる。
 赤信号で交通の流れが止まると、運転手は調子の悪いクーラーのコンパネを思いきり叩いた。クーラーはうんともすんとも言わない。彼は諦めてハンドルにひじをつき、空を見上げた。空は薄緑色をしている。夕立が近い。額を流れる汗をシャツの袖で簡単に拭うと、胸ポケットから携帯電話を取り出した。さっきのメロディーは通話ではなく、メールの着信を告げるものだった。妻に言いつけて、通話とメールを着信音で区別できるように設定してもらっている。そうすれば、運転中に慌てて電話を取り出さずにすむ。メールの着信の場合には休憩時間にでもゆっくり読めばいい。
 信号が青になる。発進。十メートルも進まないうちにぱらぱらと雨粒がフロントガラスを叩き、すぐにどしゃぶりになった。運転手はワイパーのスイッチを入れた。
 にわか雨はその日の売り上げに劇的な変化を与える。タクシードライバーにとってはまさに恵みの雨だ。売り上げ平均が五万円の平日でも、にわか雨で長距離の客を効率良くつかまえることができれば、金曜並みの八万円はいく。まして今日は日曜だ。人出が多い。普通の感覚からすれば、運転手は歩道に目を凝らし、突然の雨に困惑した表情で立ち尽くす乗客の姿を探すべきだった。だが彼はあえて右に車線変更をし、そのまま交通の流れに乗った。そうすればメールのチェックぐらい片手で行なえる。
 携帯電話の画面には「メールあり」と表示されていた。運転手は危なげない手つきで「受信フォルダ」を選択し、決定ボタンを押した。
 送信者のアドレスが表示されている。見覚えがない。だが件名には「パパへ」とあった。
(娘からだ)
 運転手は娘が量販店で携帯電話を熱心に品定めしている姿を思い出した。先週久しぶりに土曜の休みをとれたので、娘と一緒にショッピングに出かけた時のことだ。その日は普段フロントガラスの向こう側に見かける父娘のように、娘の買い物につき合い、お茶とケーキをごちそうした。そういう休日の過ごし方もいいものだ。その日娘は、パパもママも携帯を買ったんだから、自分もそろそろ欲しいんだと言っていた。きっとあの時ひときわ時間をかけて眺めていた、ピンクの折り畳み式を購入したに違いない。
 運転手は表情を緩めながらメールの本文を開封しようとした。
 その時、タクシーの右前輪が道路の水たまりの上を通過した。水に浮いたタイヤは接地力を失い、アスファルト表面の大きな凹みに沿って斜め方向にスリップした。タクシーの予定していた進行方向が大きくぶれる。車体が大きく振動する。運転手はすぐに異変に気づいた。だが緊急にぶれを修正しようにも、左手は携帯電話でふさがっていた。スピードも出ている。ハンドルを握っていた右手が、強く左の方向に引っぱられた。
 心臓が胸骨の奥で踊っていた。左車線の車がクラクションを鳴らし、すんでのところでタクシーをかわして走り去っていった。運転手は慌てて携帯電話を放り出し、ハンドルを思いきり右に切った。すると今度は後輪が道路にできた水の膜に足を取られ、タクシー全体が大きく横にスライドした。運転手はパニック状態だった。彼は急ブレーキを踏むつもりで、アクセルをさらに踏み込んでしまった。エンジンが唸り、回転計の針が振り切れた。車体が左右小刻みに振動した。タクシーは完全に安定を失い、中央分離帯を乗り越え、反対車線に飛び出した。
 運の良いことに、対向車線は車の流れが寸断されていた。タクシーは何の妨害も受けずさらに加速し、対向車線を斜めに横切った。その先には歩道があった。そこは日曜日になると歩行者天国となる大通りで、車道に出るのに邪魔なガードレールは布設されていなかった。
 歩道のあちこちから悲鳴が上がる。
 反射神経に優れた人は猛進して来る鉄の塊から素早く飛び退け、鈍い人は自分の身に突然降り掛かった事態をうまく飲み込めずに立ち尽くしていた。友人との会話に夢中になっていた歩行者は、事態の発生にさえ気づかずにボウリング・ピンのように宙を舞った。タクシーはブレーキ痕もつけずに、銀行の鋼鉄のシャッターに飛び込んでいった。
 グシャリ。 

 subject : パパへ。
 from : lin@docomo.ne.jp
 すごい雨が降ってきたけどお仕事がんばってね。ケータイ、買っちゃった。初めてのメールだね。ついでにタカシマヤでパパが食べたがってた豆腐を買ってきた。冷蔵庫に入れておくので帰ったら冷や奴にして食べてね。凛

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