人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思えなくてもいいi

2019-12-26 12:15:42 | 求道、探究
私が所謂ノンデュアリティにハマリかけていた頃は、例えば私という"個人はいない"、なんてことを心底思える、感じている訳でもないのに、とにかくそう思おうといていたところがありました。
"そう思えないのは、途中の段階なのであって、究極の目覚めには充分ではないのだ..."、と覚者気取りの私は、いつもマインドをくすぐられていたのです。
ホント~に賢そうなバカなのでしたi
そう思えない、感じないのならそれでいい、分からないのなら分からんでいいんです。
自分がそうだったから言えるのですが、いやもう、宗教、スピ界隈はこんなのが多いのなんの...
キリスト教だったら聖書的で、福音的であろうとして自分を合わそうとしたり、何かの教えにかぶれると、その流儀にとらわれ始めます。
一体、こういうところに迷いこそあっても、本当の愛、平安というものがあるでしょうか?(そんなもの、ちっとも"福音的"でない!)
とらわれがある、ということはそれが見失われているということじゃありませんか?
そう思えない、感じられなければ今度はそう信じようとします。こうしてその界隈にはお追従者、信者で溢れかえってしまうのです。
まずそういうのは、表層でそう思い、分かったつもりになっていても、腑に落ちていない、身が頷いていない、ということに気がつかなければなりません。
そしてそれは、ありのままの、素のままの自分を誤魔化しているということです。
かと言って何も、自分はそう思えない、感じられない、信じられない、と自分で決め込む必要もないでしょう。ただ自分の現実はそうなっていることを受け入れるということです。
それを現臨にある、と言ってもいいでしょうが、あの"思いを超えた光"に照らされる、そのまんまである、ということはそういうことでしょう。そのまんまだからこそ、光に照らされるのです。
それは又オープン.マインドということであり、そうなろうとしなくてもオープンにならざるを得なくなります。
そこには、二元も非二元もOO教もありません。
この光にあって、自分を投げ出し、それにゆだねることが出来るのです。そこに迷いはありません...思いが超えられているから。
こういうことを色んな教えで、"思いを手放すi"とか言うんですね。
けど、自分からは手放せるものでないし、結局そう思えない、出来ない...と、堂々巡りになるんですが...
私はどうも具体的な方法を示さないで、とりつく島もないこと言っているみたいですが、案外言ってたりもしたりして...
それは..."いのり"。これはそういう方法という感じがしないのですが、投げ出すとかゆだねるというのはここからくるのです。

私は当たり前のことですが、自分自身のことしか言えないのです。他の人の道は知りません。
何の、どんな祈り? "私の神様"にあって祈る、祈らされる...他の神様のことは知りませんi..
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