「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 第1回 濃密な、それでいて希薄な 星野 珠青

2022年05月26日 | 詩客
 詩歌梁山泊から「歌人による自由詩評」の原稿依頼を受けた3月31日に、第60回現代詩手帖賞の受賞者が発表された。その人は第62回角川短歌賞の受賞者であり、歌集『輪をつくる』(KADOKAWA)で知られる歌人・竹中優子である。
 歌壇にとっても喜ばしい話題をこのタイミングで知ったことは何かの運命なのかもしれない。そこで、現代詩手帖賞受賞作「冬が終わるとき」および『輪をつくる』を私なりに読み解いて、竹中作品を味わってみたいと思う。


毎月分割で返すと言った妹の借金の
振り込みがあったのは最初の二か月だけだったと
川崎さんが電話をしてきたのは夕暮れ時
何度も電話も郵便も送りましたが連絡を取る手段が他にありませんので、
そう話す川崎さんは学校の事務員さん
一度だけ顔を合わせたことがある


 「冬が終わるとき」の冒頭部分を引用した。この詩は作中主体の家族や周囲の人々が登場する。そのなかでも中心となるのは妹だ。彼女とは借金という経済的事情でかろうじて繋がっている関係であることが窺える。

嘘をつくとき
人は人を思い浮かべる
(あるいは
何にも考えていない)


 ここは作者の人間観が反映されている気がした。他人のことを思う嘘、他人のことを思わない嘘。人間はどちらもつくことができる。私たちはなんて狡猾なのだろう。

育てられて 恩返しをしなければと みんなに微笑まれて
妹は
本物の馬鹿になった
背が低いことが悩みで
本当の母親が自分と同じように背が低いことを知って嬉しいと書いた
手紙ごと妹は燃やされた


 上記は中盤部分。〈本物の馬鹿〉と言い放たれ、手紙ごと燃やして存在をなかったことにしたいと思われている妹。作中主体の眼差しの冷徹さにドキッとする。容赦がない。
 妹に対する感情の吐露の合間には別の人物の描写が差し挟まれる。古希のお祝いの翌日に徹夜ができたほど元気な七十三歳の友人、それとは対照的に二十年かけて寝たきりの父、作中主体の職場の人たち……。各々の人生は交差したり、もつれたり、平行線をたどったりする。その複雑さが一篇の詩のなかだけでも充分に伝わってくるのが、この作品の魅力なのかもしれない。

 また、私が『輪をつくる』を読んで「作中主体以外の人物が多く出てくる歌集だ」と思ったこととも関係がありそうだ。まずは家族が登場する短歌を引いてみる。

片耳が聞こえなくなったと父が言う松ぼっくりを手渡すように

西瓜という浅瀬をひとつ切り分けて母のさみしき食卓に置く

部屋に来てテレビつけ寝ころぶ週末に真水のように老ける妹

ふたりの子のひとりの死までを見届けて祖母の口座の残金二万円


 竹中の家族詠に対しては、黒瀬珂瀾が栞文でこのように書いている。

 家族を詠んで、この歌集は実に先鋭的だ。父、母、兄、妹、祖母……狂おしく絡み合い、しかして時に遠く離れ、複雑な関係がこの一巻では語られる。(中略)これらの家族詠は従来の作とは違って、人の弱さ、悲しさを浮き彫りにし、時に家族同士が突き放し合い、時に頼り合わざるを得ない現代を、「切実」に描いている。

 現代に生きる私たちの、濃密な、それでいて希薄な人間関係。危ういバランスの上で成り立っている、私たち。
 これは血を分けた家族も例外ではない。父母とまるで友達のような親子関係を築けた人もいるだろう。しかし、同居家族よりもSNS上で仲良くなった人のほうが近しさを感じる人だっているだろう。近いのに、なんだか遠い。遠いのに、やけに近い。
 そして、家族以外の人物が登場する短歌。

 
うそをつかずに生きてるんだね 友達と思うひと笑うGU店内

体育教師に生理の重さを話しおり 窓の向こうに窓がひらいて

氷上に刺身置かれて東京は 君は 居場所の話をしている

口を聞いてくれなかった女子のことを椋鳥の目で古藤くんが話す

 それぞれの歌に出てくる友達/体育教師/君/古藤くんは、その姿に寄りかかりすぎず、冷静な目線で語られる。短歌においても詩においても、作者のまなざしは一貫して「人間関係の距離感」へと向けられている。

妹よ
よく聞け
私たちの用事は決して
よく生きることではない

 「冬が終わるとき」の結びは妹へのメッセージである。ここに出てくる〈私たち〉は作中主体と関わりのある人間のみならず、すべての人間を指しているのではないだろうか。
私たち〉は私たちなのだ。

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