「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第307回 小笠原鳥類の/眼差し 脊椎動物「ジュラ紀には鳥類が分化した」―わがジュラシックパーク(聲℃said Vol.8、所収ライトバース出版) 髙野 尭

2024年09月10日 | 詩客
アマツバメ「空中の飛翔に特化し、」
建物金属を曲げる、写真を撮影するのワニ。
小屋(板)ペンキ
イクチオルニス類「体長約20㎝で小形のカモメに似ている、」
版画を探して、灰色の塩味の写真に、棚で出会う。オルゴール踊る
ウ(鵜)
の眼「鵜や鷹が獲物をあさるときのように、鋭く物を探し出そうとする目つき。」イルカの鼻息は荒い。アメンボの競艇。水面に映るカメラレンズ、それは掃き出せない

 たいてい大人の発話主体には、それぞれの来歴によるか世代的に共有できる経験を元手に、それに伴う物事に対する同志的先入観がこびり付いている。だからそういった意味において詩作は、その詩作主体に纏わりついている世俗的身体を脱いでいく行為にほぼ等しい、といっていいだろう。鳥類さんのエクリチュールもその点はみんなと同じだ、とボクは思う。ただ外界を視る観察主体としてみたときはちょっと違うのではないか。それは何かというと、そもそも観察主体というよりもガラスの受容板としての受容主体、と言ったほうが鳥類さんの場合はもっと適切かもしれないからだ。とにかく反射させるのだ。鳥でも魚でもなんでも。その反射して飛び散って紙に転写された痕跡が詩なのだ、だから詩句の分節化を躊躇うように吃りがちで体言止めが多い、つまりコンテキストに抵抗をかけるから分節度が低い、という鳥類節の仮説を立ててみよう。
 この仮説が基本だとすると、冒頭のお題付き詩郡はどう読まれるのだろうか。その問いにこたえる前に、実はこの冒頭詩郡の中に偽作が紛れ込んでいる。なぜわかるのかといえば、ボクが(失礼ながら)割り込んでいるからだ。答えは秘密だが。すでにこの作品を既読した方なら即答可能だろう。ヒントは「脊椎動物」だ。
 きっと鳥類さんの眼には無機質で透明な水晶玉が嵌め込まれている。それも輪郭のない透明な水晶玉だろう。たぶんそれは水晶でできたコンタクトレンズかもしれない。それに対してボクの眼は「汚れっちまった」ガラス玉だ。垢まみれがひどくてにっちもさっちもいかない。それはいいとし、もう少し遊ばせていただこう。

トキ「古来この色を「朱鷺(とき)」色と呼んだ.」
恐竜は夕方のものだ。迫力の山々、迫力があるネギ

野鳩「野生のハト」
ヤナーチェクの指揮がうまい。クリスマスはサンタが橇で山を降る降る ヒヨドリ
ミヤコドリ「海岸の干潟などでおもに貝類を食べる」
ムクドリが柿を食べる、オレンジ色のクチバシが、知らないペリカン


 もうお見通しのことと思われるが、鳥類さんを敢えて例えるなら、無垢なる鳥の眼だ。なぜそう思うかといえば、動物は、コンテキストを組めないからだ。言い換えると、記憶をたどって人間模様たっぷりの劇場型ストーリーを作れない、と。むしろ見たそのままをあたりまえに投げ出す。ただ謎のシグナルだけを送る。つまり人間様にわかってしまう紋切型か価値的に斬新な表現は避け、無垢なる眼や耳にだけ通じるように。たとえば「カンガルーからワカサギまで象」「金属とイルカと畳」などの名詞句がそうだ。人間的カテゴリーの破壊といってもいいだろう。

 さて、ちょっと、いや大幅に横道に逸れて連想が飛躍してしまうボクの直観、というかあくまでも一つの仮説なのだが、これはかつてヴァレリーの青年期に起こった既成の価値観の変更を促すような脳内現象(ジェノヴァの危機)に少し似ている、とボクは勝手に思っている。だが音楽性の面は別としてもヴァレリーの精神は、鳥類さんには似合わないだろう。なぜならヴァレリーさんには、知的上昇志向が強い面があったし、外部セカイを別次元で認識するために既成の観念的形而上学的世界とは違った、あるいは批判的とも取れる地中海的個性の局(極)限化といってもいいパースペクテイヴがあったから。それに加え表象意識に濃淡をつける知性も働いていた。つまり既成の概念や偶像として崇められた権威を認めない態度だ。彼が崇敬したダ・ヴィンチのようにだ。しかもヴァレリーは個性の精神活動として自我の能動性を極限まで追い詰め、受動的感性を更新する知性の無限運動に拘泥し、いわゆる人口に膾炙した「詩が言葉に人智が及ぶ限りの工夫を凝らすこと」(吉田健一)のマエストロでもあった。
 一方鳥類さんの思考にはむしろ知性的な意味の挙動や現世的な統制、あるいは詩の修辞的現在を無化しようとさえするメタ知性が働いている。マラルメがコトバの音楽性を志向し現実的対象を隠蔽した曖昧性ともいえそうなのだが、平明な難解さと笑いが際立っている、とボクは思う。変な言い方になったが、とまれ両者に共通しているのは物事を知覚する上での世界の現れ方・現象に対する認識の「革命的転換」を秘かに狙っているということだ。停滞した固定観念やマスメデイアによって誘導されがちな現実意識を異化するコトバを紡いだ先達、鳥類さんの敬愛する吉岡実がちょっと頭を掠めてもくる。    
 話を元に戻そう。おわかりの通り鳥類さんのコトバは人間の認識とはズレた鳥の眼を通して幻覚する鳥類という主体の反映なのだ。鳥レンズを通して脳内に写像された外部世界はいったん人間の言葉に翻訳されるが、アウトプットの際には鳥語の断片的なアナーキー状態のまま非人間的笑劇に変換されるのだ。だから表出されたコトバの波なりに、メタファーの類似的関係性をさぐっても無駄だと思う。というのも極私的な換喩に頼りながら暗喩的な知力の強制を免れているからだ。コトバはアウトプットされたとたん独立した小宇宙のように前後左右とは無関係に浮遊し始める、そのままそこにありつついつのまにか逃げ去っているだけなのだ、なんの因果もなく。(ゲンジツニオビエテノコトカモシレナイガ)。これがひとつ詩の極私的感性を担保していると思う。レトリカルな抒情や叙事性を一切拒んだ詩の境地だ、とも言えようか。とはいえ、読み手の側に作品を見て味わう受容基準なるものがあるとすれば、どのような解釈を試みようがそれは個人的に自由だし、また自足的に味わい寛げるのであれば他言は要しないだろう。そのように詩は開かれている。
 どうやらボクが割り込ませていただいたコトバの断片にはなんらかの意図(下心)が働いてしまっているのだ。思いついた通り放り出しているつもりでいても、センテンス間に連辞的なひねりを加味してもいる。それに対して鳥類さんの詩句は図鑑類をデータベースとしながらその図鑑的な説明文は肩越しに躱し、たぶんこれは憶測の閾を出ないのだが、生き物の種をシュルレアリスムの自動筆記風に実践していると思わせる気配もある。出たとこ勝負ってところか。それはワンショットワンショットの積み重ねであり、眼に一瞬映ったイメージ(ユーレイ)や鳥類さん固有の連想的な外部セカイは、無意識のイメージである鳥(動物等)の環世界(フォン・ユクキュル)に変換され、そのままの知覚印象(幻覚)を日本語に投企しているのだ。あたかも幽霊のように。だからこそ鳥の眼なのだが。覚醒的な思考を停止させているといってもいいだろう。前言の答えになっていないかもしれないが。このスピリットの穏やかさ、それに偶さか現れる突飛な幽霊のような飛来物が
 鳥でもありウキウキさせる詩の壺でもある。
 竟に多元的な世界の多様性をじぶんの内部セカイにそっと浮かべ、個性を追い詰め極度な純粋化を志向する霊魂のようなコトバたちがピン止めされている。自己を旧秩序(流行りの詩作手法のパラダイム)から守る内的な島に住まわせながら、それは小さなものたちを抱きいれる。類や種に束ねられない動物たちのそれぞれの個性に眼差しを向ける。ヴァレリーのように俗のヒューマニズムを排したイメージに転換させる新鮮な感覚の方法、と同時的に物事を等価に見るコトバの無差別性の観点を主軸とした詩法である、またあるいは詩の修辞的な価値を解体し、「鳥類」というフィクショナルな発話主体から呟かれる動物化したうねりのコンテキストに、自律的な生き物たちを乗せることでそれは、室内楽が奏でられるように生成されるのだ。もちろん偶さかぷすっと弾ける泡のような呟きが詩人の生声とも取れる「鳥になってテーブル思う」などの述部が詩人主体を微妙に露呈させ、それが吐息として透かしみえてくることからも、詩は詩の潜在性(シニフィアンとして現前していないポエージーの裏声)として対話的に活性化される。というのは、どこからか脳髄に過る他者の虚構的な声を形象化させることをプロソポペイアだとするなら、詩の静謐な躍動を鼓舞する一般的な修辞的文彩とそれを無意識下で対立させることで、この動物等に託したプロソポペイアとしての比喩形象を生成変化させ鳥類節を実現させている。だからこそ、詩は純粋な意識の流れ(他者存在を想定した内言)を目指し、直観的に水晶のようで清澄なのだ、と言ってしまってもよいのだろうか。