きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

団体戦とかチーム戦が苦手~40年経っても

2022-01-16 16:00:08 | 別に除けておきたいこと
今日の気温は昨日より高かったが、日差しがない分、外に出るのを躊躇して又もいつもより一時間遅れで自転車道へ。
途中の周回区間5キロは19分05秒、19分05秒、20分00秒。風が出てきた分下りで稼げず、上りでも消耗した。途中まで昨日より良かったが、貯金を吐き出した感じで、結局昨日と同じぐらいでフィニッシュ。それでも最後の1キロは4分少々。気持ちを切らさなかったのは良し。

帰ってから、女子駅伝を見る。
繋ぐって本当に凄いこと。
儂は、運動ができん人だったから、個人より団体競技で結構しんどい思いをしてきた。
体育の授業のサッカーやソフトボール、バレー、バスケ。「お前のせいで負けた」と何度言われたか。
今でもはっきり覚えているのは、中学校のときのある年の運動会のリレー。
男子は確か17人いて、紅白それぞれで2チーム作るという結構大胆な方針で。当然出ないのは儂。本当にクラス1遅かったから。
ところが、ウチのチームの選手が一人骨折したので話がややこしくなる。ウチのチームはとりあえず1位狙いでリレーチームを組んでいて、その速い方に入っていたヤツが骨を折ったから結構ややこしくなる。
当然ウチのチームは、メンバー構成からリセットして考える。速いチーム遅いチームの構成を一回崩して、ということ。それを相手チームがクレームつける。まあ、中学生といえど当然、それぐらいの知恵はある。この辺りはせめぎあい。
担任の裁定で、結局、儂、速いチームで走らざるを得なくなる。もう、本当に学校に行くのが嫌だったこの時期。
案の定体育の授業での練習でも全然駄目で、一度うまくかわしたと思ったら、相手チームから「走路妨害」のクレームがつけられたりと(この辺り、本当にガチ)。本人その気は全くなくて必死に走っているだけなのに、そういわれて本当にきつかった。
当日の本番。
一番手の友達が「離すから心配するなと」と3走とアンカーの2人も「大丈夫心配するな。抜くから」と(この順番も結構作戦立てて当初の予定とはがらりと変わっていて、それを相手に公開するしないでも小競り合いがあった気がする)。
結果は、僅差で振り切って予定通りの1位。
もう、今思い出しても涙が出るわ。
何か、駅伝見ると、涙腺が緩むのは仕方がないなあと思う。
いろいろな想いを「背負う」以前に、迷惑かけずにつなぐということに一生懸命にならざるを得ない人は多いと思う。
勉強関係のことでそんなに思うことはない(団体戦ないし)が、運動関係で苦い思いをしたことは40年経っても思い出す。
気持ちがあっても速くなるわけではない。チームの連中の「大丈夫」というコトバでどれだけ助けられたか。
運動できん人間にとって、団体戦は辛い思いでしかないのだが。

このリレーのことだけは、40年経った今でも宝物のように大事にしている。

親として

2020-03-23 19:20:54 | 別に除けておきたいこと
ムスメの実印を買いに、ハンコ屋へ。

段差はあるし車椅子は入れないところがあるのは承知の上で、ムスコのときと同じ店にした。
「激安」みたいなとこで買うのは気が引けるという消費者心理をしっかり突かれて相応のを買った。
まあ、正直こういうの、値段は全然よく分からん。
こういうのは、買う側の気持ちが一番なので、そのしっかりした値段(でもそのハンコ屋では決して高い部類ではない)に、納得するというということではないかと。
自己満足、なんだろうな。
儂自身も、社会人になるときに、親から実印を貰った。新聞広告に乗っているような、ちょっと怪しい系のところで買ったやつ。
でも親は、印鑑の質より何より、買ってやったという事実で十分完結しているのかもと。
儂も同じ。

四月からしばらくの間だけになるかもしれないが、四人でまた過ごす。二人とも、予期せぬ形で自宅からの通勤ということになり、まあ、それはそれでいいかと思ったり。

4号のことを想う

2019-12-05 21:38:54 | 別に除けておきたいこと
4号が逝ってから49日経ってからも、まだあの海には行ってなくて、何かしら引っかかりを感じていた。車いすだといろいろなことも考えなければならず、なかなか決行できなかった。
先日、漸く行くことができた。やっとやれやれという気持ちになった。

交通量は多いが最短距離を通ることにすると、まず、家から職場までのルートをトレースすることになる。この日のM大前は17度。水分が少し欲しい感じで、一口補給。

でも飲んだのはこれ1回だけで、かなり集中して漕いでいたように思う。マラソン練習者へのドリンク提供スポットを見つける。

職場を越えてもまだ半分にならない。本当はトンネルを抜けてから県道に入る予定だったがそのまま、バイパスの歩道を進む。マラソン練習の人が多い。

北条に入り、少しずつ海へ向かう。

道の駅近くまで来る。

道の駅を越える。後2キロもないぐらいか。

4号が我が家に来ることになったのは、本当にたまたま、というか縁だと思う。2号もそうだったといえばそうだったが、4号の方がたまたま感が強い。
当時、我が家は、迎えた3号が半年も経たないうちに原因不明で突然逝ってしまい結構辛い時間を過ごしていた。結果的には、その辛い穴を埋めるべく迎えた感じである。ブリーダーさんとこに犬を選びに行って迎え入れたというより、3号が亡くなった話をブリーダーさんにしていたら、じゃあ安くしとくからと、流れで迎え入れることになったのが4号である。
その帰りの車の中ですでに酔ってゲロゲロ吐いたこともあり、4号を連れて遠出はおろか実家に帰ったことすら数回しかない。これが1号2号とは違うところではある。
散歩も苦手で、外へ行きたがるが連れて行くとすぐに「歩けません」となる。
身体は決して丈夫ではなかった。よく失神して呼吸が止まった。突然来るから気が気ではない。気管支が狭いらしくて、年を取ってくるとその頻度も上がってきた。散歩の途中で失神したことがあったが多かったのは御飯のとき。
2号に乗っかったり、1号に喧嘩売ったり、またトイレも下手で、結構問題児だったかもしれない。でも、可愛い奴だった。
ツンデレ、ってやつだろうか。
時折、二人っきりになったときに、見せるめちゃくちゃ可愛い表情に癒されたことが何度も。

もうすぐ、の目印にしていた神社の前を通る。

その4号は家出をしたことがある。一瞬の隙に外へ出てしまい、すぐに探したが見つからなかった。1号も2号も帰ってくる力はあるのだが、4号5号は難しいようで(当たり前か)。
迷子犬のポスター作って近くのホームセンターとかスーパーとかに貼って貰った。
兎に角、事故にでも遭った可能性が高かったから、骨ぐらい拾ってやらんといかんと、毎日探した。
このブログにも記したが、結局2週間後か3週間後に、少し離れたところに住む老夫婦の家に厄介になっていた。
念入りに証拠を集め、散歩の時間を見計らって声を掛けた。
連れ戻すときに心が痛んだが、当の本人は、涼しい顔で。まあいいけど。

着いた。ふるさとの海。

儂の異変を察していたのも、彼女だけかもしれない。以前も記したが、突然脊髄がやられて(といってもその時は原因が分かっていない)家に帰ってから、何か訴えるように、膝に乗ってきたのが彼女。いつもはそんなことがないのに。その後4時間ぐらいで救急車で運ばれて、7か月帰ってこなかったわけだから、何か知っていたのかもしれないと。
「大丈夫か?」なのか「心配するな」なのか、それとも「頑張れ」なのか、どれなのか分からんけれど。
最後は、まだ生きられた気もするのが心残りではある。正直、お医者さんの対応に少し疑問符があった。悔しかった。ただ元々、気管が細いのか、ぜえぜえいったり失神したり、身体は丈夫な方ではなかったから、どうなんだろうか、という気もする。

キミが逝った日に、当然のように我が家は集まり、儀式に参加した。もう日付が変わるぐらいの頃。お葬式(というよりお通夜か)で、キミを待つ間の缶珈琲が浸みた。

そして、翌日、お墓に向かった。骨を納めて、仕事に行った。わざわざ仕事に行く必要もない青空の下、それでも仕事に行こうとしていた。よく分からんこの辺りは。でも、一日休むよりはよかったんかもと。
綺麗な空で、気持ちが落ち着いた。ありがとう。

正直、ムスメが大学出て帰ってくるのでは長生きして欲しかった。3号とともに、ムスメを守ってくれたような、そんな感じの存在だったから。

キミがウチに来る前に見たであろう海を見る。ウチに来て、さて、しっかり生き抜くことができたのだろうかと。

寂しいけれど、見送るのは務めだから、なあ。

まあ、そのうち会えるから、と思う。歳取ったなあ。

バス待ちで呑む。35キロで30000歩。まだまだ、何か落ち着かないが、区切りはついたのかなと。

何回も倒れて死にかけて、それでも自由奔放に10年生きた。短かったけれど、1号とは別の、しっかり駆け抜けた生き様だったようにも思う。
喧嘩っ早くて、誰にでも突っかかって、実は寂しがり。なんというか、自分を見ているようで。

ありがとう。檸檬。

はんこ

2018-03-19 07:18:37 | 別に除けておきたいこと
一区切り付く家人のために、印鑑を買いに行く。
行った店は、名前は知っていたが行くのは初めて。店は綺麗だったが、段差がばんばんあってバリアの高い店。
しかも、価格はネットの3~5倍ぐらいした。こちらも高い。
それでも、今回の印鑑はネットで買うのはちょっと気が引けたので、こうして店に行ったわけだが。
とりあえず、車椅子では駄目で、病院から借りてきた固定型歩行器で入店した。

高いのをわざわざ買う必要はないにしても、安いのを捜すというのもどうかというのがこういう場合の心理状態。で、はんこ屋さんというのはそういう顧客の側面もうまく付いているのかもしれない。

つげとかうしとか、ワシントン条約で希少価値か高くなったぞうとか、まあ、きちんと種類はあった。後、見たかったのが儂の時代にはなかった石とかチタン。しかし、0が1つ多い。絶句する。

で、当人は、こちらがいろいろ考えている割には、モノも値段も「現実的」なものを選択。儂にとってはそこそこ良い値段だが、この店ならそんなに選択肢のない価格帯で決めさせる結果になったので、少々気が引けたものの、模様にはこだわって決めていたので、まあこちらとしてはほっとした。

人から頼まれたりしてもよく考えてやたらと判子は押さないようにとこれも親から言われたことを申し添えた。
親として最低限のことは整えたつもりだから、後は自分で切り開いて欲しいという気持ちだった。
久々に良い仕事した感があった。

関川まで(再想)

2017-12-17 08:00:00 | 別に除けておきたいこと
朝起きて、とりあえず行っておきたいと思って走り始める。午前6時過ぎだったか。時は12月の23日。1号が亡くなってから1週間経っていない。

川を越える。本当に行くのかというか行けるのか。まあ、恐らく60キロぐらいで時間制限があるわけではないから大丈夫だろうとぼんやりとそんなことを考える。
ただ淡々と前を見て脚を交互に動かす。

雨というか雹みたいなのが降ってくる。あまり気にはならない。ずっと続くという予報ではなかったのと、そんなに気にするような気分ではなかったから。ただ、走りきらないと気分が悪い。何のためか。自分のためか1号のためか。それすら曖昧。でも走りきらないと気分が悪いのは確か。

お墓参りを済ませる。まだこの時は骨は入っていなかったか。その直後空が晴れてくる。虹が出る。1号ありがとうという気分。
国道を更に東に向かう。

30キロ手前のセブンで補給。12月だが極寒ではない。それが救い。

さらに10キロ余り進んで加茂川を通過する。写真、少ないな。多分撮ることとか考えずにひたすら走っていたのだろう。君のことを想いながら。

1号は、もうずっとウチにいたから、特別な存在というより普通に家族みたいなもんで。
15年と11ヶ月。自分の中で一つの時代が終わった気さえする。
君を見たのは大洲から宇和に向かうトンネルの手前のペットショップ。3回ぐらい通ったんかな。雪が降って、凄い道路状態になった日にも行った。で、3月の末か、ヨメさんが見た瞬間に決定、という感じ。儂が車止めてペットショップに入ったら、もうヨメさんがだっこしてお金払っていたから。
犬小屋を実家のオヤジが作っていてくれたが、結局使わないことになった。
「まだ小さいから家の中で」が「ずっと家の中で」に。我が家の犬たちが、家の中で暮らせるようになったのは、君の器量の良さと愛らしさのおかげ。すべてにおいて完璧。
ムスコもムスメも幼稚園児で、それはそれは毎日が楽しかった筈。君と2号が一番いろいろなところに行っているが、君の場合、しまなみとかも1回多く行っているし、そういやあ泊まりがけで鞄の中に入って宇和島とかにも行っているし。2号と2匹一緒でなら、四万十のキャンプ場とか鳥取砂丘とか、そういうところまでお供したな。兎に角いろんなところに行った。
そして、1回「結婚」しました。赤ちゃんには恵まれませんでしたが。3日ほど四国中央のブリーダーさんの家に預けなければならなかったが、その時、儂は寂しくて寂しくて、もう。
で、今日は君に縁があるところまでということで、その街まで走ってみようかと。

西条から新居浜へ。もう半分は過ぎた。

国道をひたすら行く。見慣れた道で退屈なはずだが、それでもそんなに苦ではない。何かを見ながら走るという気分でもなかったから。

それでもまあ、と新居浜に入ってから少し旧道に行く。気分転換。

コンビニで入手しておいたチョコを補給。

川を渡る。

新居浜を過ぎる。ややバテてきたか。

池田池公園は、過去にはマラソン大会が行われていたこともあるそうで。
儂が3年前、朝ラン中に原付に追突されて眼窩骨折したときに、執刀してくれた先生は、ここから呼び戻されたと言っていた。

そういえば、1号とは一緒に走ったな。若かりし頃。最高で15キロ。今5号も同じぐらい走れそうだが、危なっかしくてまだ3キロぐらい。そのうち走ってみようかとは思っているが、興奮しすぎになるのが一寸酷すぎて無理かもしれん。兎に角興奮しやすくて危なくて。それを考えれば一緒に走れるというのは凄いこと凄いこと。

新居浜から土居までの長い長い(長く長く感じる)国道を抜けて漸く四国中央市。

やっと来た。来れた。

明石山系、に遠くまで来た、来れたなという実感が沸く。君の「結婚先」ははっきりとは分からないが、この街の手前の方で間違いないので、近くの駅を目指す。

天気は快晴ではなく、もの想うによい案配だった。

10月に2号が逝ってから、寂しくなったんかな、とそれは思った。ただ、それもあるのだろうが、紆余曲折のあった(本当に!)ムスコやムスメが、無事に大学生になって家を出て、やれやれって思って力が抜けてしまったんかなと。
どちらかといえば、君はそうやっていつも家族のことを考えていたような、そんな立ち振る舞いをいつもしていたと思う。
その日も。
最近少ししんどそうだなと思ってはいたけど、それほど気にする感じではなくて、その日も、30分前まで普通に庭に降りて、とことこ歩いて。で、一瞬に倒れたけど、何事もなかったかのようにリビングに帰って、でその後力を使い果たしたかのように倒れて。本当にあっという間だった。慌てて近所の病院に駆け込んだが、もう心臓は動いてなかった。
因みに、その日は僕しか家にいなかった。ヨメさんも翌日の夜まで帰る予定ではなかったし。まさかそういうのも計算に入れていたのではないかというぐらい。
その夜は、君の身体が傷まないように暖房とか付けずにリビングで寝て。4号が寄ってきたのが何ともまあ、わかっとんかなみたいな感じで。
ムスコもムスメも次の日に帰ってきて、ヨメさんも予定早めて帰ってきて。

お葬式をしてみんなで送った。儂はその日の夜はそのまま泊まり勤務。辛かった。

その翌朝、泊まり勤務のところからお葬式をした方を見る。綺麗な青。そして夕刻の空。
あんなギリギリのタイミング選んでよく決心したね。
君は、最後までみんなに迷惑をかけないで旅立とうとしていた。凄いです。ここしかない、というタイミングだった。
でも。
最期を看取る、という程何もしていないが、最期までずっと儂は君を見ていたし、君は儂を見ていたし。そんな風にして送ることができた、ということも凄いことなのかもしれないし。
でも。
儂はそれよりももう少し一緒に居たかった。

3日後、一人で君を想いながら呑んだ。
君は縁あってウチに来て、16年近く過ごして、さあどうだろう、いい人生だったのかなどうなんかなと今でも思う。儂は君なしでは考えられない16年だった。感謝の気持ちしかない。
昔家人に「1号は生まれ変わったらおとーさんと結婚すると思う」と言われたことがある。来世とかあまり信じんけど、せめてまた夢ででも逢いたいね、とそう思う。

駅を漸く見つける。

汽車の時間には何とか間に合う。

電車に乗り、靴を脱ぐ、そこそこ靴は濡れていた。

新居浜からバスで家に戻る。何でセブンのにしたんか覚えてないんだが。

国道ひたすら走るなんて、多分1号のことを考えなかったらやろうとは思わない。

ただ想いつつ。走れて良かった。

有り難う。

就職試験を受けに行ったときの話

2017-11-05 14:14:15 | 別に除けておきたいこと
およそ9ヶ月前。

この頃、仕事の手詰まり感がどうしても拭えないと感じていた頃、某研究所の研究員の公募をたまたま(本当にたまたま)見つける。今の仕事にやり甲斐はある。しかし、このまま残り10年か続くかなみたいなそういう感じがずっと引っかかっていてあまり良い感じではなく。
で、ダメ元でこれまでの少ない研究実績と仕事の実績まとめて書類送ったら、面接においでと言われる。
想定外と言えば想定外で、一次の書類選考通るだけで十分で、面接に行くことなんて考えてなかったが。

でもまて、行かずに止めるというのはどうなんだろう、と。
募集の記事を見つけたのが1ヶ月前に亡くなっていた1号の誕生日だったというのは。偶然ではないような気がして。

行くと仕事に穴を空けるというのも充分分かっていた。とりあえずできるところまでやった上でバトンを渡した。
家族の同意は得られていないまま。

期間は一週間なかったが、急いでANAの宿泊パック取って。

仕事を終えてそのまま横浜のビジネスホテルへ。

あっという間に当日の朝。面接は午後だが落ち着かないので出る。

街を歩く。

蕎麦を喰う。

駅に着く。早すぎる。

で少し走る。

駅で着替え、バスで指定された時刻を狙って。バスは狭い路地を走る。研修でここに来たときは乗ったことがなかったな。

そして、面接へ。昼ご飯は食べていない。いつものこと。それより近くに店がないことで、遠くに来た感があった。

待ち時間2時間の面接時間30分。プラス理事長面接まであった。気分はふわふわしたままだった。待ち時間の間に、久里浜の海がきらきらしていて、でこの建物の異様な静けさと心地よさと圧迫感とが同時に押し寄せてきて、何とも云えない感じのまま、面接官や理事長と話をした。普段通りの気持ちで話をしているようで、結構相手のペースにかき回された(そりゃ当たり前か)。威圧感があって、こりゃ全然太刀打ちできんわと。真剣と新聞紙で作った模造刀ぐらい開きがあった。

帰り道は、バスを選択せずに歩いて帰る。西日一歩手前。寒くはない。歩きながら仕事のこととか生活のこととかいろいろ考えた。本気だったがどこか人ごとのようにも感じていた。それが面接の受け応えには出ていた気がする。新聞紙でぽんと頭を叩くぐらいの受け応えぐらいしたかったが、全然無理。甘い。

経験するまで分からないというのはどう考えても阿呆だが、来たから分かった気がついたということはたくさんあった。仕事場に迷惑かけてまで来た甲斐はあった。
この翌日もいろいろ飛び回り、ハードな2月の一週間だった。

で、不採用通知貰う前に自分から取り下げの電話をした。納得できなかったらまだ燻っていたと思う。だから、行って良かった。今考えると恥ずかしいレベルだったが。
でも、研究所の図書館から見た久里浜の海のきらきらと駅までのわんこと会ったくねくねと細い住宅街の道でいろいろなことを考えることができた。

もう一つ思うのは、万が一(?)4月からここの研究員になっていたら、9月に倒れた時に、多分この世にいなかったか今よりも酷い後遺症抱えていたと思う。それは確信している。

今、そんなことを思う。

六甲守山95キロ

2017-10-05 13:05:00 | 別に除けておきたいこと
まだ入院中で、今後のこと何も見通しが立っていないのですが、今日は特別な日なので(かなり前に綴ったものです)。

2号はその昔ネットオークションでキャンセルが出てウチに来ることになった。そのペットショップは六甲アイランドにあって、彼はそこから飛行機に乗って松山にやってきた。
で、生まれは奈良だと聞いていたように思っていのだが、彼が亡くなってからしばらくして血統書見たら「MORIYAMA」って書いてあった。奈良にそんなとこあったかと調べたら、やっぱり奈良ではなくて滋賀のらしい。もともと六甲から奈良まで行ってみようかと準備をしていたのだが、滋賀まで行くとなると約100キロ。どう最短をとっても100キロで奈良の倍。
ふーん100キロ、と人ごとのように思いながら頭の中で計算を始める。六甲から奈良を走ろうと決めていたのに、六甲から守山になった途端止めるというのも収まりが悪い。とんでもない距離だが行くしかない。でもどういう形で現地に行って、どれぐらいに出発して時間がどれぐらい掛かって、走った後戻るまでにどれぐらい時間が必要で、とそういう計算を何パターンかやって。

で決行。時は10月半ばの頃。儂の誕生日過ぎたぐらいだったか。

数時間後に走るのに、麦なしで長い時間待つのは苦痛でしかないので、空港での晩御飯は一口呑む。

関空からは私鉄を乗り継ぎ、六甲へ。

乗換駅で栄養補給。流石に麦は止める。これから100キロ。

日付が変わった辺りでスタート。地図はあらかじめ見たが、車だけしか通れなかったり、道がクロスしてなかったりして、島を出るのに一苦労。とりあえず、橋へ。

橋を降りて、またそこから神戸の国道に行くまでに、うろうろと走り回る。夜なので勝手が分からん。漸く向こう岸に渡る階段を見つける。これは地図では確認できん。国道に入るまでの不安と、それほど時間的な余裕はないのとでペースは早め。

地図に出ていた道に入り、阪神高速の傍をしばらく走る。人が少ない。当たり前か。

突然階段が出てきたりはするが、とりあえず、場所が分かる表示があると安心する。

戎の文字を確認し177号に入る。漸く安心する。

結構な幹線道路だが、交通量はそれほどでもない。まあ真夜中だからな。

基本的には国道を行けば大丈夫なのだが、時々、高架になって脇道を走ることもある。で、深夜にもかかわらず駅の周りでは若いのがうろうろしていたり、店にはおっさんおばさんが賑やかにやっていたりするのを見る。

ドンキが見えた辺りのコンビニで初回の補給。先が長いので少しずつ摂取できるタイプのレッドブルを。安くはない。

兵庫県から大阪府へ。



ファミマで今度は甘いモノを。その後それとは別にもう一度40キロ付近のセブンに入った記憶はある。トイレを借りた気がするが何か補給した記憶はない。

阪急京都線の文字を確認した辺りで空がだんだん白くなる。最初のヤマ場を越えた気がする。

県境を越える手前のファミマで水分補給。その直後京都府へ。

道が広くて高架の傍を走ったこの辺り、測道がないところも多かった。ずっと見守るように付いてきてくれていた月を見上げる。2号かと思う。

13年近く、君と一緒に過ごしたことになる。ビッダーズのオークションで、どうみても買い手が付かない売れ残りで、ウチに来たのは生まれて半年過ぎていた。しかも、最高落札した人がキャンセルして、ウチに来ることになった。何かの縁なのだろう。後にも先にも、ウチの犬で飛行機に乗ったのは君だけ。
3歳年上の1号とは、本当に仲が良かった。犬同士が仲がいいのは当たり前のことではなかったのだと後になって理解した。凄いことなんだと。
一度、家から居なくなって、慌てて探していたら、散歩コースの川の向こうを優雅に散歩していた君が、こちらを見て慌てたように歩みを早めて橋を回って戻ってきたこともあった。あれは未だに謎。
チワワという愛玩犬でありながら、実は山が大好きで、夏の風穴に行ったときのあの走りは逞しかったな。奥ゆかしい君だったけど、御飯のアピールは凄くはっきりしていた。いつもごろごろと、寝てばかりで、でも御飯のときは、すごく存在感があって。
2年前の生存率五分五分の大病では「川」を渡っていた君を連れ戻した。一方で、病気の重さ、後遺症の具合を考えると良かったのか悪かったのか、と逡巡した。でも歩けないもう寝たきりと覚悟していたのに、2ヶ月ぐらいたってからまた立ち上がり、歩けるようになった。
それから2年は、もっと大事に大事に時間を過ごしたように思う。散歩の回数こそ減ったけど。
そして、今年の5月、再び調子を悪くし、夏も今ひとつの体調で。でも4号の方が調子が悪かったので、気にならなかった、ということは今想えばある。
逝く前日から調子が悪くなっていたようですね。でも庭に降り、ご飯も食べて。そして、次の日。
連絡を受けて帰宅後、君の顔を見ました。朝はいつも通り見送ってくれたなと思いつつ。
これまでの生きるか死ぬかの闘いの時のしんどそうな表情ではなく、どちらかといえば穏やかな感じがした。
前日は僕が泊まり勤務だったし、大学生の二人も、どちらも帰れなかったと。次の日、なら大丈夫だというのは、どうして分かったのだろうか。
君を葬儀場に連れて行く時、台風でフェリーが出ず、最終のバスで帰るというムスコとムスメを家から車で1時間かかるしまなみ海道の玄関口の駅に迎えに行ったら、示し合わせたように、お互いに1分の待ち時間もなく、ターミナルで会うことができた。何かの力を感じた。
そういえば、しまなみ海道に行ったときに取材に逢い、君を含めた家族4人が地元紙のトップページに載ったね(この時1号は足下にいたから写ってないんですが)。
家でお別れができなかったのはちょっと残念だったけど、葬儀場までの1時間、後部座席の二人の膝に代わる代わる乗って過ごしてもらうことができた。花粉症かいな、というぐらいティッシュが何枚もなくなっているようだった。
葬儀場に着き、そして待つこと1時間。深夜1時、山奥にある火葬場で君の骨を拾いました。
星がきれいに瞬いていました。
そして、次の日は何日かぶりの抜けるような青空でした。
2年前と違って、5月に調子を崩したときから覚悟はしていた。
決して長生きではなかったのかもしれない。でも、みんなで、しっかりと君を見送ることができた。
朝起きると、いつも君が居たところに君が居ないというのは妙な感じで。君のことを、まだまだ繰り返し思い出しながら過ごす日々が続きそうです。ありがとう。

いつか綴ったキミへの手紙を反芻する。

京都市へ。ほう、京都競馬場。で、ここを過ぎて市内の南をこのままずっと走れればそれほど面倒ではなかったがこれが歩行者通行禁止で。

少し脇道に入り、エスケイプルートを探す。

でここは失敗して、来た道を戻る。何十分かのロス。


それでも、古い京都らしい街に出会うことができて、それはそれでお得感あり。この日は平日で通勤通学の人が行き交う。
一番距離が短いはずの商店街を抜ける。

で、この神社の傍を通り。

で、この神社の傍を通り。

漸くさっきの道へ。方向も現在も分からず、スマホの地図で確認して漸く無事と判断する。

エナジー系珍しいのをいくつか見たが、結局タイミングが合わず、以前呑んだヤツを。安いが何故かカフェインを気にしつつ。

でそれほど時間が経っていないのに、今度は甘いのを。安かった。

外環状を走っていたつもりだったが、微妙に一本道を間違えていたらしい。最短距離になる県道のショートカットルートをとることができなかったが、何とか国道1号線へ。

1号線に入ってから普通に測道を走りたいのだが、これが何ともわかりにくい。再度自販機で補給。こういうときも糖分を気にする。時間的な余裕は相変わらずない。

すれ違う徒歩の人に、どの辺りでこのまま県境を越えられるのかを尋ねようとするが、無視される。それでも駅の場所とかで確認し何とかなるだろうと進む。ここに来ての時間のロスは避けたい。ルートが分かれば何とか進むことはできる。上り坂をゆっくりゆっくり進む。

大津市に入る。文字通り峠を越える。

琵琶湖。結構感動。

ここからが最後の勝負。かなりペースが落ちている。コンビニで補給。いつもの。

気温は24度。でも暑い。

守山着。キミのふるさと。

JRの駅へ。六甲守山間完走。で補給。駅前の西友で珍しいのがあった。しみじみと。

この毛は5号のかもしれないが、2号のかもしれない。手に取りそっと離す。

30分ぐらいの滞在。ホームに行く。呑んだだけやな。

約13時間と30分で95キロ。

大会でもないのにこんな距離もう走らんと思う。
とりあえず、95キロ走れた寝てなかったけど。走ったではなく走れた。追悼ランか。とりあえずキミを想いながら走った。

想いは力になるのだと思う。
走れたのはキミの力だと思う。
ありがとう。

見届ける見送る

2017-03-17 17:00:00 | 別に除けておきたいこと
もう3ヶ月か。

朝、ごはんも食べてトイレも行けて。庭にも降りて、30分前までは普通だった。
荒かった息がすうっと静かになった。

その日はリビングで一緒に寝た。傷みがあまり出ないように暖房を付けずに重ね着をして寄り添った。
いつものように寝ているようで、何か本当に起きてきそうだった。綺麗な顔だった。

お葬式は家人が揃った翌日の夕方に済ませた。家から彼女を抱いて出るときがきつかった。
その後職場へ行きそのまま泊まり勤務。きつかった。

我が家で16年近く一緒だったから、ウチの歴史の大部分を占めていて、いろいろなところに一緒に行ったしいろいろな楽しいいい想いもさせてもらったし。
時間が経ったというか、変な言い方だが経ってしまったのだと思った。

きついし寂しい2号が逝ってからまだ間がない。相棒が先に逝ったから1号寂しかったんかな。
寂しい。ただ寂しい。

四十九日明けたときは、落ち着いたと思ったら急に寂しくなってその繰り返しでまだ全然気持ちが安定してこなかった。
今はどうだろうか。やはり、まだまだか。
先月、マラソン走ったり就職試験を受けたりと、日常と非日常を行ったり来たりしながら、少しずつその揺れは小さくなっている。

毎度のことながら、見送られることに躊躇いはないが見送るのはきついなと思う。
だからこそ1号もそして2号にしても、見送る儂たちのことを考えたタイミングで逝ったのかもしれないと思う。
最後まで賢いというか律儀というか。

自分も、できればそうありたいと最近思っている。

もうすぐはる。

DNSは避けたいが、なあ

2017-02-02 21:21:37 | 別に除けておきたいこと
明日で1号の四十九日という今日、通知が来る。

公募の要項を見つけたのが彼女の十六歳の誕生日になる筈だった日である。運命めいたものを感じて書類を送った結果、である。小論文なんて2時間で書いた。それでも、である。とりあえず、会うよ、といってもらえたというそれだけで正直嬉しい。これまでやってきたことが何らかの形で評価されたということだから。
しかし。

面接受けるとなると、まずは当面の仕事のこと、その上で今後のことをいろいろ考える必要がある。覚悟がいる。実際面接受けるだけで、周りを相当振り回すことになるしかなり迷惑がかかる。当然上司にも書類送ったことは言っていない(職場の方も見ていてくださる人がいるので、あまりここに記すのはどうなんだと思いつつ、悩む)。

この通知が来る前、墓に立ち寄っていた。何か感じたかどうなんだか。なあ。

どうするかねえ、みんな。多分与えられた最初で最後のチャンスなんだろうが。おとーさん真剣に悩んどる。
そして。

キミは背中を押してくれているのだろうか、と思う。

君を想いつつ60キロ

2016-12-23 17:27:00 | 別に除けておきたいこと
君を想いつつ走ろうと思い立ったのは今朝。

折角だから縁のあるところまでと思い、家を出て約8時間後に着く。強い西風のサポートを得てではある。おはかまいりもする。君のお骨は正月にみんなで納めに来る予定。

ここは君が、一度だけ「お見合い」した街。残念ながら赤ちゃんは産まれなかったけど。

ずっと雨降っていて(この辺りは霰じゃなくて霙だった、のような感じ)ずぶ濡れもいいとこで体温かなり奪われて、それでも走り続けられたのは、行かなければならない、と勝手に決めていたから。

正直辿り着けてホッとしています。GT-2000最後のご奉公。怪我無く運んでくれて有り難う。

声を詰まらせる

2015-12-22 20:23:34 | 別に除けておきたいこと
犬好きが家を建てるという話が昨日の「タイゾー」氏の後であった。
内容はこちらの方が良かった。

「五番目」に声を詰まらせる坂上忍に、こちらも「三番目」のことを思い出しながら画面を凝視した。

数日前、ホームレスと犬の話をネットで見た。

君等は。


声を詰まらせる。いろんな想いだけがある。
なーんも、云えん。やっぱ。

冬至。ここから後は少しずつ少しずつ。頑張ろう。
みんな。

三木24耐(第8回三木総合防災公園マラソン)の簡易速報

2015-09-14 20:49:00 | 別に除けておきたいこと
1日遅れで速報もあったもんじゃない、ですが結果。
3回目の24時間シングル(100キロはまだ2回のみなのに)の部(27名出走相変わらず少ない)。

記録は169.4キロ(100マイルの目標達成)。
順位は2位(昨年なら6位、まあとったもん勝ちですから)。

自分の想定を超えてました。よく走れたと。走力じゃなく気持ちでしょう。よく切らさずに走れました。順位はおまけですが正直ラッキーでした(人に喋るときには距離より順位の方がネタになりますから)。
ただ距離は何人参加でも嘘をつきませんから。この点、本当によく走れたなと。これは嬉しい。

基本、結果は二の次過程が大事、だが現金なもので結果が出ると今までやってきた事が少なくとも間違いではない、という形で認められた感じがしてほっとします。また、走り続けて行く上で、さいさんが走るのは仕方がない(少々のことは大目に見よう)と、少なくとも周りに認めてもらう為にも必要なことが改めて分かります(勿論呑む方も)。

確かにSTの国家資格取った時にそれは思いましたもん。職場でその資格が有益か必要かいろいろと議論はあるかもしれないけど、そんなんいろいろいうより、結局はとったもん勝ちって。

話がずれましたか。

イタイトコロいっぱいあります。病院とか接骨院にまでは行かなくてもと思うが。カラダは疲れてはないです走ってないから。以前は無理矢理にでも走ろうとしてましたが。

回顧録のカテゴリーには、近いうちに上げます。いつもの旅ランと違ったものを感じたので忘れないうちに。

確かに矛盾していますが

2015-09-13 15:15:00 | 別に除けておきたいこと
結果どうこういわないとか、感謝とか自分に向き合うとか偉そうなこと云っていた割に。

自己ベストて2位。本当にぶったまげる。競技中は一度も順位表見なかった。道理でいろんな人が声掛けて来る訳で。

応援というよりサポートに来てくれた感じになった神戸M君、本当にありがとう。