sibasenn気ままな旅日記&日常のつぶやき

東海道53次ウォークや気ままなバックパッカーの旅日記を写真もまじえて報告&日常のつぶやき

東海道53次第4弾(四日市から桑名入り口 18年10月31日)

2018-10-31 18:53:31 | 東海道旅日記
さて2日目がスタート。
9時前にホテルを出て歩き始める。

アーケード内に歓迎の横断幕。

すぐに京方入り口。

歩いていると、なが餅・笹井屋の宣伝があちこちの電柱に。
お店に入ってみる。創業は室町時代とか。
元々は日永と言う地名からとったもので、ひなが餅がなが餅になったという。
そういや昨日、采女とか杖衝坂とか歩いてきて、
四日市宿の手前に日永と言う地名もあったな。

やがて三滝川に。

なかなかの景色である。

続いて、海蔵川へ。
ここには三ツ谷一里塚がある。
犬の散歩をしているおじさんが声をかけてくれる。
「自分にはできないが」と、私たちのような旅を羨んでいた。

しばらく1号線に沿って歩くが、左に外れて旧東海道へ。
結構車の往来が激しい。

足は痛いし、またチャンスを逃すといつ食べれるかもわからないので
旧東海道を外れて、JR富田駅近くにあるイオンに入る。

いい休憩もできたし、あまいものでお腹も満たされたので、再び東海道ウォーク。

すぐに富田の一里塚。

田舎道をダラダラ歩く。
疲れてくるし、足も痛い。
どこかでゆっくり休めるところがないかと探していると、
四日市と朝日町の境界である朝明川の橋のたもとに絶好の場が。


朝日町に入ると桜並木や柿の木がいっぱい。
少しずつ色づき始めている。

2時を回り、今日のウォークもそろそろ終わりに近づいた。
どうしたことか、今日は本当に足が痛い。

朝日町にある縄生一里塚。

3時前にようやく桑名市に入る。


そして今日の終着点、桑名宿京方入り口に到着。


近くの近鉄益生駅から、約3時間かけて大阪に帰る。
本当は桑名・七里の渡しまで行きたかったが、それは次回に。

今日は、約13キロ、実際は17キロ、2万5千歩の旅であった。
東海道53次ウォーク第4弾、庄野宿から四日市宿を経て桑名宿京方入り口までで
約28キロ、実際は36キロ、5万2千歩。

この続きは来年になる。また読んでください。

東海道53次ウォーク第4弾(18年10月30日 庄野〜四日市)

2018-10-30 21:23:41 | 東海道旅日記
今朝7時前に地下鉄に乗り、関西線で天王寺から加茂まで。

車窓から眺めた木津川

ここで乗り継いで亀山へ。
小一時間の待ち時間があったので、駅前を散策。
喫茶店の代わりにこんなお店を見つけました。
ここで買ったお菓子といっしょに亀山茶をいただく。
一膳目は70度くらいのぬるいお茶。
美味しかったな。

さて今日の東海道53次ウォーク出発地点の庄野宿がある加佐登駅で下車。
いよいよ今日はここからスタート。
10時半過ぎ。
国道1号線の側道を歩くが、車がビュンビュン走って怖い。
1号線から外れて田んぼ道に。
しばらく歩くと石薬師の一里塚。
石薬師宿は佐佐木信綱の生誕の地であり記念館もある。
信綱かるた道にもなっていて、歌がいっぱい!
石薬師寺

そろそろお腹も空いたので探すがお店が見当たらない。
やっと見つけたそば屋さんもお休み。ガクッ!
石薬師宿を外れたところに、やっとラーメン屋さんを見つけ、腹ごしらえ。
1時過ぎに元気を取り戻してウォーク再開。

采女一里塚が国道1号線沿いに。
少し離れた場所に説明板がある。
そして向こうに見えるのは四日市市街。

ここを過ぎると、急な下り坂が待っている。

杖衝坂(つえつきざか)である。


そろそろ3時ごろ。
少し肌寒くなってきた。
10月の終わりであり、秋も深まっている。
ここからはほぼ平坦な道である。

日永の追分にさしかかる。

東海道と伊勢路とに分かれるところである。

日永の見事な一本松

日永一里塚


夕暮れ始めた。


もうすぐ四日市市の中心街。
国道1号線に並行して走る旧東海道だが、
車がビュンビュン飛ばしていくのには参ったな。

そうこうしながら6時前にホテルにチェックイン。

今日は15キロ、実際は19キロ、2万7千歩の旅であった。
雨が降らずに晴天に恵まれたのが何より。
明日は桑名をめざす。

つづく




今後についての予告

2018-10-29 21:04:02 | 日記
チェルノブイリ原発事故、福島原発事故に関連する報告は終わりました。
お読みいただきありがとうございました。

さて明日(10月30日、31日)から1泊2日で、
東海道53次ウォーク四日市、桑名まで歩いてきます。
その内容はまた報告します。
年内の東海道53次ウォークはこれにて終わります。
来年になったらまた再開します。

それまでの間、2016年11月20日からの東欧旅行を報告します。
モスクワからバルト3国、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリアなどを
バックパッカーの旅でまわったようすを報告します。
興味のある方、また読んでみてください。

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 番外編

2018-10-28 17:04:39 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さて、チェルノブイリ原発事故から30年目の実相・番外編として、
是非とも福島原発事故にもふれなければなりません。

私は2014年4月に福島原発のようすをこの目で確かめようと、
いわき市からレンタカーで国道6号線を北上しました。

ところが富岡町を過ぎたあたりで、これ以上の北上を止められました。
仕方なく引き返そうと車を走らせると、
あるお店の駐車場に、見事な桜が咲いていました。
しかしだれからも愛でられることはありません。

車は富岡町の中を走りました。




時間は2時半ごろでした。町内放送が流れました。
「まもなく3時です。すみやかに退去してください」
初めは意味がわかりませんでした。
そういえば、だれにも会っていないな。
サイレンを鳴らしたパトカーと除染作業員を乗せた大型バスは何台も見たけど。
そうなんだ、ここは帰還困難区域だったんだ。

次の日、石巻に行きました。
実は2011年3月末で定年退職した私は、
5月のGWにボランティア活動で石巻に行きました。
あれから3年経ってどのように変わっているのか、
いや変わっていないのかも確かめたくて行ったのです。

日和山から太平洋側を見渡す景色。
手前に見えるのは大きなお寺です。3年前もありました。
と言うよりは、お寺以外は全て津波に飲み込まれてしまったのです。
ガランとした平地に見えますか?お寺の横にあるあたらしいお墓。
お墓以外、ここは何も変わっていませんでした。

でも駅前はきれいになっていました。あたらしいお家も建っていました。

福島と石巻。いずれも地震や津波被害に襲われました。
ただ違うのは福島には原発事故が起こったということ。
その福島も、帰還困難区域がどんどん狭まり、
住民は帰還しても大丈夫と言われれている。
本当に大丈夫なの?

ここにチェルノブイリと福島に大きな違いがある。

そう思いながら、私は反原発の声を上げている。




これからも命ある限り、原発がなくなるまで声を上げ続ける。

おわり


チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その10

2018-10-27 16:24:45 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さてチェルノブイリ原発事故跡地巡りツアー報告も最後です。
誰も利用されることのなかった遊園地です。
開園予定は、1986年5月。
でも4月26日に起こった原発事故により、結局開園できなかったのです。
あれから30年が経っています。
ゴーカートかな?
ブランコ?
回転する二人乗りブランコ?
遊具はどれも錆びついていました。
誰も訪れることのない寂しい光景です。
家族連れや恋人たちが楽しみに開園を待っていたのに。
冬ということもあって、いっそう冷たさ、悲しみ、哀れさなどを感じました。

次に案内されたのは警察署です。
留置場でしょうか?

ここプリピャチの街には、昨日まで普通に暮らしがあったのです。
賑やかな笑い声もあったのです。
それが原発事故により、一瞬にしてきえてしまったのです。
原発というものの怖さを改めて実感しました。

来るときにパスポート審査を受けた場所(30キロ制限区域)の、
道路を隔てた反対側に放射線測定ゲートがあります。
ここを無事通過したのは4時過ぎでした。
バスはキエフの街へ。
市内に入って混んでいたので、7時ごろにバスから降りました。
とても長い1日でした。

以上でチェルノブイリ原発事故跡地巡りの報告は終わります。
ただ2011年3月11日に起こった福島原発事故に触れないわけにはいきません。
実際に私は3年後の2014年4月に福島にもいきました。
その時のことも番外編として報告しますので、もう少しおつきあいください。

つづく