sibasenn気ままな旅日記&日常のつぶやき

東海道53次ウォークや気ままなバックパッカーの旅日記を写真もまじえて報告&日常のつぶやき

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 番外編

2018-10-28 17:04:39 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さて、チェルノブイリ原発事故から30年目の実相・番外編として、
是非とも福島原発事故にもふれなければなりません。

私は2014年4月に福島原発のようすをこの目で確かめようと、
いわき市からレンタカーで国道6号線を北上しました。

ところが富岡町を過ぎたあたりで、これ以上の北上を止められました。
仕方なく引き返そうと車を走らせると、
あるお店の駐車場に、見事な桜が咲いていました。
しかしだれからも愛でられることはありません。

車は富岡町の中を走りました。




時間は2時半ごろでした。町内放送が流れました。
「まもなく3時です。すみやかに退去してください」
初めは意味がわかりませんでした。
そういえば、だれにも会っていないな。
サイレンを鳴らしたパトカーと除染作業員を乗せた大型バスは何台も見たけど。
そうなんだ、ここは帰還困難区域だったんだ。

次の日、石巻に行きました。
実は2011年3月末で定年退職した私は、
5月のGWにボランティア活動で石巻に行きました。
あれから3年経ってどのように変わっているのか、
いや変わっていないのかも確かめたくて行ったのです。

日和山から太平洋側を見渡す景色。
手前に見えるのは大きなお寺です。3年前もありました。
と言うよりは、お寺以外は全て津波に飲み込まれてしまったのです。
ガランとした平地に見えますか?お寺の横にあるあたらしいお墓。
お墓以外、ここは何も変わっていませんでした。

でも駅前はきれいになっていました。あたらしいお家も建っていました。

福島と石巻。いずれも地震や津波被害に襲われました。
ただ違うのは福島には原発事故が起こったということ。
その福島も、帰還困難区域がどんどん狭まり、
住民は帰還しても大丈夫と言われれている。
本当に大丈夫なの?

ここにチェルノブイリと福島に大きな違いがある。

そう思いながら、私は反原発の声を上げている。




これからも命ある限り、原発がなくなるまで声を上げ続ける。

おわり


チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その10

2018-10-27 16:24:45 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さてチェルノブイリ原発事故跡地巡りツアー報告も最後です。
誰も利用されることのなかった遊園地です。
開園予定は、1986年5月。
でも4月26日に起こった原発事故により、結局開園できなかったのです。
あれから30年が経っています。
ゴーカートかな?
ブランコ?
回転する二人乗りブランコ?
遊具はどれも錆びついていました。
誰も訪れることのない寂しい光景です。
家族連れや恋人たちが楽しみに開園を待っていたのに。
冬ということもあって、いっそう冷たさ、悲しみ、哀れさなどを感じました。

次に案内されたのは警察署です。
留置場でしょうか?

ここプリピャチの街には、昨日まで普通に暮らしがあったのです。
賑やかな笑い声もあったのです。
それが原発事故により、一瞬にしてきえてしまったのです。
原発というものの怖さを改めて実感しました。

来るときにパスポート審査を受けた場所(30キロ制限区域)の、
道路を隔てた反対側に放射線測定ゲートがあります。
ここを無事通過したのは4時過ぎでした。
バスはキエフの街へ。
市内に入って混んでいたので、7時ごろにバスから降りました。
とても長い1日でした。

以上でチェルノブイリ原発事故跡地巡りの報告は終わります。
ただ2011年3月11日に起こった福島原発事故に触れないわけにはいきません。
実際に私は3年後の2014年4月に福島にもいきました。
その時のことも番外編として報告しますので、もう少しおつきあいください。

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その9

2018-10-26 15:30:25 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
チェルノブイリ原発に従事する街として、1970年頃からつくられた、
5キロ圏内にあるプリピャチに入る。

もちろん誰も住んでいないゴーストタウン化した街、
木々がのび放題の中に高層団地がたくさんたっていた。

なんとそこに現れたのは野生のキツネ
愛くるしくツアーバスに近づいてきたところをパチリ!
こうした小動物の住処になっているようだ。

バスはレストハウスの前で止まった。
中に入ってみて驚く。いやここではもうあたりまえの光景である。

外には湖があり、ボートの船着場もありました。
きっとお休みの日には、家族連れや恋人たちが
ボートを漕いで楽しんでいたのでしょう。
この湖、実は人造湖なんですよ。4号炉近くを流れていた川もそうです。
わかりますよね。原発を冷やすために水が必要だったのです。

この辺りでガイガーカウンタを取り出すと

この近くには、レストランやショッピングセンター

それに劇場や映画館もありました。
当時の指導者らしい人物の肖像画も乱雑に放置されていました。

きっと多くの人たちで賑わっていたのでしょう。
でもその跡形もなく、今はゴーストタウン化したプリピャチの街。

この後、観覧車のある遊園地に案内されました。

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その8

2018-10-25 17:24:44 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さていよいよ原発事故のあった4号炉に向かう。

とその前に、消防士の慰霊モニュメント
原発事故直後、消火活動を行い被曝等により亡くなった消防士は30名を超える。

4号炉に近づいた頃にバスが止まる。
当日は雪もちらついていたので、シェルターに覆われた4号炉がぼやけて見える。

ここでガイガーカウンタをチェックすると

0.96μです。約10倍ですね。
この時突然4号炉あたりから大きな爆音が。
びっくりしましたが、事故ではなかったようです。
ツアー客はお互い顔を見合わせ、ほっとする。

バスに乗って近づく。車窓からの写真です。



4号炉前の広場でバスから降りました。

何も知らない私は、モニュメントに興味を示し近づこうと、
階段を上ろうとすると、大きな笛が鳴りました。制止されました。
これ以上4号炉に近づくことはできませんでした。


さてこの4号炉のシェルターの件について
1986年4月26日に原発事故を起こした4号炉、
放射能の飛散を封じるために石棺建設が始まる。
その年の6月から11月までの約半年で建設、80万人が動員された。
耐用年数は30年。

あれから30年が経ち老朽化がすすみ、新たな施設が必要になりました。
今度は石棺含む原発施設を覆うシェルターを建設しました。
最終的に2016年11月に完成しました。
だから私たちが行った日、12月9日にはもう完成済みでした。
シェルターは、幅275メートル、長さ162メートル、高さ108メートル
総重量は3万6000トンに及ぶ巨大な構造物で、耐用年数は100年。
こんなことが数万年も繰り返されて、ようやく人体に影響がなくなるのです。
気が遠くなる話です。

では福島原発事故後の処理はどうなっているのでしょうか?
汚染水が海に流れ出している?ことも含めて
もっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

そしてバスは原発従事者の街、プリピャチに向かいます。

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その7

2018-10-24 16:49:45 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
今回は幼稚園です。
チェルノブイリ原発事故関連の映像では必ずといっていいくらい登場しますね。
大きく伸びている木々、ここにホットスポットがありますが、それは最後に。

まずはぬいぐるみやクリスマスツリーがさみしく出迎えてくれました。

外観は頑丈そうに見えるけれど、中に入ってびっくり!
子どもたちの作品が乱雑に放置されていました。
私たちのようなツアー客に、なんども踏みつけられたのでしょうか。
そうなんです。事故が起きたのは4月26日になったばかりの真夜中。
それから36時間後の4月27日正午にラジオ放送で市民は知ったようです。
とりあえず3日分の食料や着替えを持ってバスに乗せられ、
わけもわからないまま避難させられたのです。3日後には戻れるものと思って。
だから取るものもとりあえずという感じで、片づける間もなかったのでしょう。
でも2度と戻ることはありませんでした。

ベッドがありました。
子どもたちのお昼寝の場所でしょうか。


あまりの無残さに言葉を失いました。
同時に、この光景を何とか伝えようと、写真に収めました。

さて、ガイガーカウンタのことはほとんど忘れていました。
ガイドが幼稚園入り口にある木の根っこあたりにガイガーカウンタを近づけると、
ものすごい音が鳴り出し、数値が一気に跳ね上がっていったのです。
写真では4.69μですが、その場所で私が実際に目にしたのは6μでした。
みなさんは覚えていますか?
キエフ市内でも、ツアーバスの中でも0.1μでしたから、
実に50〜60倍にはねあがったのです。
こうしたホットスポットがまだいろんなところにあるそうです。

事故から30年経った今でも、チェルノブイリにはこうした現実があるのです。
じゃあ福島はどうなんだろう?
こんなことを考えながら幼稚園を後にしました。
次は、いよいよ原発事故のあった4号炉に向かいます。

つづく