みなさん、2017年が平和の内にあけて、おめでとうございます。
新年の最初の記事でもありますので、本日は、量子物理学の知識を取り入れた、大量の情報をおとどけします。
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量子論は、量子(根底は波動である素粒子)には、双子のように対をなす量子を造ることが出来ることも明かしています。
これなど、ホントに空想科学物語(サイエンスフィクション)のような話ですけど、量子という物質においては、実際に起きることが実証されています。
たとえば、光子という素粒子に「対の(ペアーの)」光子を造ることができるという。
そして、各々を別の島などの非常に離れたところに置きます。
そうしておいて一方を認識する。
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すると、認識された光子は、認識の波動を受けて変質しますがそれだけではない。
遠く離れた島に置いたもう一つの対の光子をみると、それもまた対応するかのように変化していた、というのです。
対をなす量子のこのような状況を「この二つは“量子もつれ”の関係にある」と量子論ではいっています。
「もつれ」の英語は、「エンタングルメント」です。
要するに、繋がりあい、絡み合っているのですね。
<ペテロよ、君に天国の鍵を与える>
量子のこの性質は、イエスが弟子ペテロに投げかけた次の言葉を、鹿嶋に始めて物理学的に理解させてくれました。
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「わたしはあなたに天の御国のかぎを与えます。
何でもあなたが地上でつなぐならそれは天においてもつながれています。
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」
(マタイによる福音書、16章19節)
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これは「(あなたは)生ける神の御子キリストです」といった
ペテロの言葉を聞いてイエスが投げかけた言葉です。
鹿嶋には長い間この聖句の意味が漠然とわからないままできました。
しかし、量子物理学がペアー量子の存在を明かしたことを知って、ついに理解できるようになりました。
<罪を許す権威の鍵>
ここで天国の鍵とは、天国に人間を入れることが出来る権威をいっていて、それすなわち「罪を許す権威」です。
罪が許されないと、天国には入れませんからね。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/02/f2c35e7bfdbd8e4ed47c923cbab04
(クリックすると拡大します)
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それはペテロのペアー量子についても同じです。
イエスはペテロのペアー量子(群)を、創造神の権威でもってこの時点で「罪なき者」としたのです。
そういう権威を創造神の子は持っているのです。
これはイエスが「わたしは安息日の主だ」といった状況と同じです。
「安息日を守れ」という律法以上の権威を、それを制定した創造神(の子)は持っている、とイエスはそこでいっているのです。
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が、とにかくそうやってペテロのペアー量子を、天の創造神王国(天国)におられるようにイエスはしました。
(もう一方は、地上にいます)
~量子物理学のおかげで、上記の聖句をこのように解読できるようになりました。
<天国が地上世界に君臨するという世界風景>
この聖句はまた、聖書の持つ世界風景をも、図らずも示唆してくれています。
それは~、
天の創造主王国(天国)が地上世界の絶対的上位にあって、
一見不思議なしるしや力は、その権威によってごくごく当然なこととして現れている、
~という基本構図です。
天(霊界)のことがらは、物質界である地上のものより上位の権威を持っているのです。
だから、天国のペテロ量子が許すものは、地上でもごく自然に許されることになるのです。
この聖句では、イエスは、この上位、下位の関係までは述べていません。
一度に沢山のことを言うと弟子たちはわからなくなるから、でしょう。
それ故か、両者の対応関係だけを、示している。
だが、実際には「(上位である)天国で権威を受けるのが先」というのが聖書の鉄則であります。
イエスがここで、地上のペテロ量子を先に口に出している理由も、同じでしょう。
わかりやすくするためです。
実際には「まず天のペテロ量子がゆるし、その権威が地上に降りてきて地上のペテロ量子が許し」ます。
すると「地上でペテロに対面している人間も、許され」ます。
これが地上でしるしと不思議があらわれる、つまり、力が働く仕組みなのです。
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けれども、この時点で弟子たちにわかりやすくするために、イエスは地上のものを先に口に出しているのでしょう。
<アクセプトすればみなペテロと同種の権威をもてる>
量子物理学を用いた「ペテロの天国の鍵」の聖句解読は、さらに意味深い解読をもたらしてくれます。
量子物理学によって我々は、誰にもペアー量子(群)があるとの確証を与えられますよね。
ならば、もしもその一方を「天の創造神王国」にもっていかれたら、どうなるでしょうか。
誰でもペテロと同じ権威を持てるのが道理となるでしょう。
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もちろんそれには、そのペアー粒子の罪が許されてなければなりません。
だが、それはイエスの十字架死でもって、相殺されます。
そして、イエスはまもなく、その死を成し遂げます。
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するとそれ以後は、ペテロでなくとも、イエスのその技をアクセプトする(信じる)ものには、その相殺は実現することになる!
そして、そのペア量子は天国に上って、創造神の子として、創造神と一体化して、ペテロと同じ権威をもって地上の被造物に臨めるようになるのです!
<アクセプトする誰もが罪を許せば、その人の罪は許される>
そのことが、復活して弟子の前に現れたイエスの次の言葉で示されています。
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「あなた方が誰かの罪を許すなら、その人の罪は許され、
誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」
(ヨハネによる福音書、20章23節)
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わあ~っ、すごいなぁ~。
このとき、イエスはすでに十字架死という御わざを終えています。
だから、罪を許す権威が天のペアー量子に与えられるのは、もうペテロだけではない。
イエスをアクセプトする全ての人に対して与えられることになる。
これが筋の通ったことになるのです。
(凄い論理ですね。ちなみにこれは「マルコ伝」の最終、16章15~18節の夢のような聖句にも繋がっています。
これなど、量子論の知識が無かったら、面食らうしかない聖句です)
この論理はあまりにすごく、我々にとってあまりに喜ばしいです。
だから、ここはもう少し詳細にみておきましょう。
<記録は残ってるよ・・・>
たとえば、こんなこともおきえます。
知恵の極みである悪魔はここで「罪の記憶」を使って妨害してくるようなことが~。
「罪は相殺されたかもしれないが、あなたの、その罪の記録は残っているよ」
「だから、ほら、記憶に浮かんでくるでしょう」・・・とささやくわけです。
これに誘導されると、罪の意識は残っていきます。
すると自分のペアー量子を、天国の父なる創造神の前に持って行くことが、怖くて出来なくなります。
<一見謙虚だが実は御わざへの「冒涜」>
その姿勢は一見、謙虚なようにも見えます。
だが実はそれは、イエスの十字架死の功労を不完全にしか信じていない状況になるのです。
つまり、完全にアクセプタンスしていない、状況だ。
それはイエスの功労への冒涜になってしまっています。
だが、人はそうなりがちなのです。
<血潮の洗浄力>
ここで、イエスが十字架死するときに流した血潮が効いてきます。
この血潮(いのちエネルギーの液状体)は、この記録、記憶を洗い流すことが出来るのです。
そこで、まず、イマジネーション(イメージ、思い)の中で、ペアー量子にイエスの血潮(の波動)をシャワーのように浴びせます。
そして、記録も記憶も洗い流し、思いの中でも「全きもの」とされて、天の王国に入り、父なる創造神の懐に入ります。
一体化し、親密な親子関係をもちます。
その天の権威をもって地上の被造界に臨みます。
すると地上のペア量子にも、天の力が現れることになるわけです。
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また、このようにして「天」の力を現す具体的な方法は大きく言って二つあります。
「ヨハネによる福音書」で著者ヨハネは、それに関するイエスの言葉を記録しています。
<父には求めて賜り物をもらえ>
一つは「父なる創造神から賜り物(プレゼント)を受ける方法」です。
(それには、肉体組織の新創造プレゼント~脳、心臓、肺、肝臓、腎臓などの臓器や関節などの~も含まれています)
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「諸君が父(父なる創造神)に求めることは何でも、父は私の名によってそれを諸君にお与えになります」
(ヨハネによる福音書、16章23節)
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~が、その聖句です。
<御子イエスには、被造物に命じて働いてもらう>
もう一つは、「御子イエスに働いてもらう方法」です。
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「わたしは、諸君が私の名によって求めることは何でもそれをしましょう」
(ヨハネによる福音書、14章13節)
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この「求める」(英語は通常 ask となっている)は原典のギリシャ語ではむしろ「命ずる」(英語ではcommand)のニュアンスが強いそうです。
それは文脈としてもそうなるべきであって、「イエスの名で求めるものを賜る方法」は、上記の「父に求めることによって」実現することになっています。
なのにそれを「イエスにも求めてしてもらう」というのでは、賜り物を受ける方法に重なったところが生じてしまいます。
すると同じ賜り物でも、父に求めるべきか、御子イエスに求めるべきか、弟子たちはどっちをどうしたらいいかわからなくなってしまうででょう。
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ここは、「イエスの名で弟子たちが(被造物に)命じる(悪霊よ去れ、とか、足萎えよ歩け、とかのように)ものは、何でも「イエスが弟子になり代わって」それをする、とむしろ解すべきでしょう。
つまり、もう一つの方法は、イエスの名で「命じる」ことなのです。
「イエス様お願い・・・」などと言ってなくていい。
ただ、(イエスの名で)命ぜよ、と御子イエスは言っている、と解します。
実際、「使徒行伝」にも、弟子たちがいきなり「イエスの名で命じたこと」が数多く記録されています。
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ややこしいですね。
でも、詳細に見ると、もうひとつややこしいことがあります。
「ヨハネ伝」でヨハネは、ここでイエスは上記の言葉に続いて、
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「諸君が私の名によって何かを私に求めるなら、わたしはそれをしましょう」
(ヨハネによる福音書、14章13節)
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~というイエスの言葉も追加記しています。
これを見ると「・・・なーんだ。父に求めるのと同じようなことではないか・・・」と思えてきます。
この追加記録は、解読を紛らわしくします。
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だがここはこう解したらいいでしょう~。
「イエスの名で命じて,イエスに働いてもらう」というのは、広い意味では、「イエスに求めて」してもらう(結果を出してもらう)、ことに含めることが出来ます。
だからイエスは、最後にザックリとそういう広い意味で言い換えたのでしょう。
まずは弟子が、概略をわかるためにそうしたのでしょう。
<御名の栄誉に割り込まない>
いろいろ細部に入って、紛らわしかったですね。
要するに、賜り物は「父に」お願いし、被造物に命じることは「イエスに」してもらう。
~この二つの方法が、上記の二つの聖句に明示されている、ことになります。
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ただしここで留意しておきましょう。
どちらも、(父かイエスに)「してもらう」べきとなっていること、がそれです。
つまり~、
人間はそのためにパーフォーマンス(端的に言えば「奮闘努力」)をする必要は全くないのです。
「イエスの名を公言して」して、やってもらうのですから、その名の栄誉のために、ただ「してもらう」のが正解なのです。
自分も奮闘してしまうのは、創造神の栄誉を一部横取りすることになりますからね。
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イエスの言葉を深く感謝してアクセプトしているだけで、自らは克己勉励しない。
これが、しるしと不思議を現す奥義だと聖書は解せます。
<吟味事項は残るが>
いや~、新年最初の回では、沢山のことを書きました。
細微にわたったとことも多く、複雑で、ややこしかったでしょう。
だが、読み返してください。
だんだん、すっきりわかるところが増えてきます。
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とはいえ、ややこしいことがらはまだあります。
実はこのテーマには、他にも吟味すべきことが含まれています。
たとえば、ヨハネ伝、3:13に~、
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「誰も天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。 すなわち人の子です」
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~というイエスの言葉があります。
これと、ペテロのペアー量子が天で鍵を行使している、ということとはどういう関係にあるか。
これも吟味すべき一つです。
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こう考えるのも一案でしょう。
すなわち、この時点はまだニコデモと話している時点である。
つまり、ペテロのペアー量子に「天国の鍵を与える」と語っている時点よりまえである、~と。
これも一つの解読になるかも知れませんが、鹿嶋にはもう少し考えていいことのような気もします。
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「イエスの名」は御子だけの名であるのか、あるいは、父の名でもあるのか、というのも一つです。
さらに「イエスの名とはいかなる内容を持っているか」も吟味すべきことです。
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まだあります。
「イエスの名によって」と邦訳されている英語は、in the name of Jesus です。
直訳すれば「イエスの名の中で」です。
これは当面、日本では「イエスの名によって」とか「イエスの名で」などと訳されています。
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だがこれは英語の意味からずれていますよね。
おそらく英語で言っていることの意味がよくわからないからでしょう、
この意味もまた、吟味すべき課題です。
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これらはみな、吟味随想したいところですが、今回は、触れないで終えましょう。
(随想14. ペア量子とペテロに授与した大権威 完)