鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.263『私に福音を伝えられた者は弁解の余地ないよ』(15章22節)

2009年08月01日 | ヨハネ伝解読
イエスはまたまた奥義に入っていきます。
本日の聖句はこれです。

BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)

                    
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=聖句=
「もしわたし(イエス)がこの世に来て、語ることがなかったら、
彼ら(ユダヤ人たち)に罪はなかったんだけどね。
だが今はその罪について弁解の余地はないんだよ。私を憎んでいる者は、
私の父をも憎んでいるんだ」(15章22~3節)
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 「イエスがこの世にきて語ることがなかったら、ユダヤ人たちに罪はなかった」
(22節)とは一体どういうことでしょうか。

 これを理解するには人間の認知能力に関する智恵が必要です。
 
たとえば、もし人の世が男だけで構成されていたら
(男が自分で子供を生産できるなど、状況は自由に考えていいでしょう)どうなるか。
男に自分は男だという認識は生じるか。生じないでしょう。
「自分は人間だ」という認識は生じますが、男としての特性を持ったものだという意識は生じません。

 けれども、そこに女という別の特性を持った人間が出現したらどうでしょうか。
彼らはそれと比較して「ああ俺は男なんだなあ」という自己認識をすることが可能になりますよね。

                    

<真の義は天の義>
 
 それを踏まえて、このヨハネ伝解読で繰り返し述べている聖書の鉄則
「天と世との絶対的対立関係」を想起してみましょう。
そこでは「この世は悪魔の支配下にあって、罪(不義)に満ちたところ」という思想です。

(世ではそれなりに正義を考えて行動しているけれど、それは純正な義ではない、
真の義は天の義であって、“体験”したらわかることだ、というのが聖書の思想です)

対して「天は創造主の完全支配する王国で、義に充ちたところ、罪のないところ」となっています。

 けれども、その天の性格を体験することが全くなくて、全身この世に浸っていたら人はどうなるでしょうか。
上記した「男だけの世界の男」と人の意識は同じになります。
つまり、全身が不義の世に浸っていると、これこれが不義(罪)だ、
と言うこともわからなくなってくる。

 「そうした状況では、創造主は人間を罪に定めて裁くことはない」とイエスはここでいっています。
認知できない状態でいる人間を裁くことはないのだ、と。

 「ところが今自分は天から真の義をもってこの世にきた。彼らに言葉でもってそれを示した。
それを聞いた者は、世の罪を認知したことになる。
だからもう『ちーとも「知りませんでした』などという弁解を、
最後の審判でしても通用しないのだよ」~イエスはこういっています。

さらに、23節では
「認知したから、この世に属している彼らは私を憎むことになる。
だが、私は父の言葉を持ってきているのだから、
それは、創造主なる父を憎んでいることにもなるんだ。
弁解の余地は全くないよ」といっています。


                    


~この聖句には、考えさせられますね。
これは、イエスに直接触れて福音の教えを聞いた者だけについてのことなのか。
あるいは、以後宣べ伝えられる福音全般についていえることなのか、と。

前者に限定して受け取っていくのだ妥当と思えますけれど・・・。
(これを議論すると、頭がよくなるのではないかという気がします)


                    


コメント (1)
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