正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

随喜と五十展転の功徳(随喜功徳品第十八)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 「随喜」と「五十展転の功徳」は、『法華経』の「随喜功徳品第十八」(法華経464)に説かれます。「随喜」について、「分別功徳品第十七」でも説かれましたが、滅後の五品の随喜品において広く解釈しています。
 「随喜功徳品第十八」に、
「聞是法華経。随喜者。得幾所福。(是の法華経を聞きたてまつりて随喜せん者は、幾所の福をか得ん。)」(法華経464)
と説かれ、法華経を聞いて随喜し歓喜する人は、幸福を得ることが出来ると仰せです。
 「随喜」は、貪瞋癡の三毒や三惑の迷いを、菩提に転じる作用があります。随喜を失うところには、三毒が心に蓄積され気分を損ねていきます。つまり、不幸になる原因を知らず知らずに作り上げ、悪業へと結び付けていきます。随喜は薬であり、随喜が起こるところに功徳を得ていきます。それが「六根清浄」へと通じていき、次の「法師功徳品第十九」に釈尊が六根清浄の功徳を説きます。 
 「五十展転の功徳」は、随喜をもって正しい仏法を伝えることが大切になります。随喜とは歓喜であり、喜びを失ったところには信心がありません。幸せを得るには、喜びが必ず伴います。楽しく明るく喜びが絶えないところに、成仏の境界を作り上げることが出来ます。
 「五十展転」とは、滅後の五品中の初随喜品の功徳を説示したものです。『法華経』の「随喜功徳品第十八」には、寿量品を聴聞して随喜する功徳が甚大無量であることを、次のように明かしています。
 仏の滅後において、法華経の寿量品を聞いて随喜した人が他の人にその法を伝え、それを聞いて随喜した人が、さらに他の人にその法を伝え、展転して五十番目の人に至ります。その五十番目の人は、経文の一偈を聞いて随喜の心を起こしますが、先の四十九番目までの人と違って化他の功徳はありません。しかし、それでも五十番目の人の功徳は、八十年間にわたって一切衆生に多くのものを布施し、法を説いて阿羅漢果(小乗の悟り)に導いた人の功徳よりも、百千万億倍勝れ、その功徳は算数譬喩をもってしても知ることができないほど大きいのであります。これが「五十展転の功徳」です。
 日蓮大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「一念信解の功徳はに越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり」(御書297)
と説き、法華経を聞いて、随喜する功徳が大なることを御教示されています。
 まして、自行化他の功徳を具えた第一番目の人の功徳は、さらに甚大であることはいうまでもありません。
 『御義口伝』には、「随喜品二箇の大事」(御書1774)が説かれ「第一 妙法蓮華経随喜功徳の事」「第二 口気無臭穢優鉢華之香常従其口出の事」という二つの大事が説かれます。「第一 妙法蓮華経随喜功徳の事」には「随喜」について、
「御義口伝に云はく、随とは事理に随順するを云ふなり、喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百塵点の事顕本に随順するなり、理とは理顕本に随ふなり。所詮寿量品の内証に随順するを随とは云ふなり。然るに自他共に智慧と慈悲有るを喜とは云ふなり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、必ず無作三身の仏に成るを喜とは云ふなり。」(御書1774)
と仰せです。信心では「随喜」するところに即身成仏があるのです。