大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り十一

2011年08月31日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「兄さん。た、大変です。直ぐに戻ってくだせえ」。
 「そんなに慌ててどうした佐平」。
 走って来たのだろう、息も絶え絶えの佐平。加助の弟弟子である。
 「親方がおかみさんを離縁するってえんで、もう大騒ぎなんでさ」。
 加助の眉根が動く。千吉も由造も先程までの気怠さが嘘の様に、事次第に驚くのだった。
 「また、おかみさんが近所の祝い事に書を差し上げたことで、ついに親方の堪忍袋の緒が切れたんでさ」。
 「またか」。
 加助は、立ち上がったままの姿勢で首をうな垂れた。
 加助の親方である大工の棟梁・平五郎の女房・志津は、どうにも人様からの貰い物は好きだが、送るのは絶対に嫌。袖から手を出すのも勘弁なのだ。これまでも、子が出来たといっては、己で書いた「安産祈願」。家が無事建ったといっては、「平穏安泰」。商人には、「商売繁盛」。ほかにも折りに付け、ただの和紙に墨で文字を書いて送っていた。
 そしてたちが悪い事に、お返しが無ければ自ら出向き催促をする。お礼をしたいと言われれば、料亭を指定する。所謂送られた側が大損をするといった迷惑な書なのである。
 それが大家の手による物や、寺社仏閣の有り難いお札なら話は別だが、志津は寺子屋で学んだ程度。お世辞にも達筆とは言い難い。
 「そういや、千屋を開いた折りにも、おかみさんから頂いたな」。
 千吉は、とうに襖の裏張りにしてしまった、一枚の紙切れを思い出していた。
 そんな外聞の悪さに、ついに親方が怒りを抑え切れずになったのだった。
 「ですから、兄さん。早く親方を止めてくだせえ」。
 「ああ、直ぐ行く」。
 加助は、そうとだけ言い残すと足早に去って行った。
 「しかしなあ、棟梁は良いお人なんだがな」。
 金治もたまらずに声を出す。
 「銭があっても、始末屋は始末屋ってことかい。だが、そんなで加助たちはちゃんと飯を食わせて貰っているのだろうか」。
 そんな不安を抱く千吉だが、どうやら志津は、貰い物が好きなだけで、万事において始末屋ではないらしく、弟子にはきちんと心配りはするらしい。
 「だがね、好き嫌いが激しいお人だから、嫌われたら最後だがね」。
 金治が力無く笑う。
 「やれやれ、またも始末屋のお陰で騒動がさね。迷惑な話だ」。
 千吉は、直に上方へと旅経つ由造に力無い笑い顔を向けるのだった。



 及ばぬ鯉の滝登り 完
  恋し合っているが、身分などが釣り合わず結ばれないこと。

 次回は
 厭と頭を縦に振る
 うわべの態度と、本当の気持ちがまるで違うというたとえ。
 思い違いの女心に振り回される、加助と由造の取った行動は。


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