大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 37 ~

2013年08月05日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 慶応4(1868)年1月15日、老中・松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。何時の時代も、出る杭は打たれる。出過ぎた杭は抜かれるのだ。ひとつ所でキャリアを積み出世していけるのは、流される事の出来る人間。体制に意見を述べないイエスマンだけである。
 この例に洩れた小栗忠順は、同月28日に知行地である上野国群馬郡権田村への土着願書を提出する。この時に、旧知の三野村利左衛門(三井財閥の中興の祖)から千両を送られ米国亡命を勧められたが、これを丁重に断り、江戸に残す一族の女子の後見を頼んでいる。
 また、抗戦派の幕臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)から彰義隊隊長に推されるも、徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、大義名分のない戦はしないと拒絶するなど、ぶれる事ない信念を貫き、表舞台から下りる…下りた筈であった。
 権田村の東善寺に移り住んだ小栗は、近隣の水路を整備したり塾を開くなど、村の為に尽力しながら静かに余生を送っていたが、慶応4(1868)年閏4月3日、新政府軍に目を付けられたと知るや、権田村字亀沢村へと身を寄せ、養嗣子の婿養子の旗本・駒井朝温の二男・忠道(又一)を高崎藩へと申し開きに遣わすのだった。
 翌4日、養母・くに(邦子)、妻・道子、養女・鉞子(よきこ)ら婦女子を会津へと逃すと、東善寺へと引き返し、東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎(土佐藩)、副軍監・原保太郎(長州藩)に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵に捕縛される。
 小栗ひとりの捕縛に、何とも大掛かりであるが、新政府軍の嫌疑が農兵の訓練ということから、戦闘状態に入る事も予測してであろう。
 武装兵もおらず、嫌疑は冤罪であると一目瞭然かと思われたが、取り調べもされぬまま、2日後の6日朝4つ半(午前11時)、小栗は、烏川の水沼河原に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された(享年42歳)。無罪を主張する家臣に対し、未練を残すのはやめようと諭し、母と妻と息子の許婚を逃がしたが、これら婦女子にはぜひ寛典を願いたいと言い残したと伝えられている。
 四方や斬首といった処罰が下されるとは、小栗本人も予想だにしていなかったに違いない。なぜなら、忠道を高崎藩に向かわせる事もなかった筈である。その忠道も高崎にて斬首された。
 新政府の無慈悲は、改めて語るまでもないが、見方を変えれば、下野(げや)したものの、小栗への恐怖は一方ならぬものだったのだろう。こうした尊い命の上に明治政府は成り上がるのだ(敢えてこの言葉を使う)。
 忠道に関しても小栗家に養子に入ったばかりに…そう思うとやり切れない出来事である。
 唯一の救いは、会津藩江戸家老であった横山常守(山川大蔵血縁)を頼った妻・道子が、かの地で女児・国子を出産し、明治2(1869)年春に江戸へと戻り、三野村利左衛門に庇護された事である。
 そして明治18(1885)年に道子が没すると、国子は親族である大隈重信(佐賀藩)に引き取られ、矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興する。
 だが、失われた命は戻らない。悲しみは癒えるものではない。〈次回は、「桜田門外の変」のその後〉



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