大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 38 ~

2013年08月06日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 日本人で「桜田門外の変」を知らない人はいないと言っても過言ではない。むろん歴史の教科書で目にした文字でもある。勅許を得ずに日米修好通商条約を始めとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った近江彦根藩・第15代藩主、大老・井伊直弼を、江戸城の桜田門外にて水戸・薩摩藩の脱藩浪士が襲撃し暗殺した幕末における一大事件である。
 水戸藩士が井伊に遺恨を抱いたには、安政の大獄も含めた諸策に反対する者たちを弾圧した件での、藩主・徳川斉昭の永蟄居処分にある。
 襲撃側は一身を投げ打っての覚悟の上であり、信念を貫いたのだから武士の一分も立ったであろう。彼らのその後は知られているが、存外に知られていないのが、守備側の彦根藩士たちのその後である。
 事件が起きたのは安政7(1860)年3月3日早朝。江戸城へと出仕する井伊の駕篭を襲うといった前例のない企みであった。当日は季節外れの大雪で視界も悪く、護衛の供侍は雨合羽を羽織り、刀には鞘袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。事前に井伊の元には警告もあったが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、捨て置いた末の護衛の甘さにあったともされる。
 とは言え、彦根三十五万石の藩主が瞬時にして討たれたのは、衝撃であった。
 襲撃に驚いた士分ではない中間などは算を乱して遁走するも、供侍たちは、柄袋のよって抜刀出来ないまでも、鞘や素手にて抵抗をし、指や耳を切り落とされるなど惨憺たる状況ながらも戦っている。
 二刀流の使い手として名を馳せた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門、同じく二刀流の剣豪・永田太郎兵衛は、冷静に対峙し一矢報いるも闘死。
 井伊は銃弾によって腰部から太腿にかけて銃創を負い駕篭から動けなくなり、護る者のいなくなった駕籠には、次々に襲撃者の刀が突き立てられ、虫の息となったところを、髷を掴んで駕籠から引きずり出され斬首された(享年46歳)。襲撃開始からわずか数分の出来事であった。〈続く〉




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