大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

動乱にもみ消された命 長州藩士の涙 ~幕府の横暴 34 ~

2013年08月02日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 元治元(1864)年7月26日未明、幕府老中・出羽国山形藩主・水野和泉守忠精は、長州藩邸家老代理・波多野藤兵衛、留守居役・遠藤市太郎を召喚し藩邸没収を伝える。藩邸明け渡しにおいては、庄内藩、杵築藩の指示に従うことを厳命。
 7月27日、砲数十門、 幕兵二大隊、山家藩(やまがはん)、宇和島藩の兵が長州上屋敷桜田邸近隣の雲州藩邸に陣を敷く。孫藩である清末藩・藩主親子には謹慎が命ぜられたのを始め、長州支藩に当たる長府・徳山全てと吉川家江戸屋敷も没収されるなど、徹底した長州排除を行う。 
  この江戸藩邸没収時に、「回天史」では自殺者を含め、118名、 波多野藤兵衛の「解放願書」にでは116名、遠藤市太郎によると士格以上は178名、軽率100余名、婦女子3名の拘禁者数が挙げられるが、この時点での死者43名はこの数に含まれていない。このように、記録による人数のばらつきはあるものの、幕府側の徹底的な追い詰め作戦と、それにより逃げ場のない長州藩関係者の拘束の事実は拭われないのだ。
 ちょうど丸2年後の慶応2(1866)年、 長州藩士の拘束・監禁を一任されていた老中・小笠原長行に代わり、丹後国宮津藩主・本荘宗秀が着任する。記録から本荘により、長州藩主名代・宍戸備後助、並びに小田村素太郎が釈放されrた事実があり、この事から、拘束されていた長州藩士全員の釈放がなされたと考えられる。「回天史」によれば釈放後は、同年6月密かに波多野以下生存者全員を海路広島に護送し本藩に戻している。
 密かにという辺りが解せなくもないが、同「回天史」では、拘禁3年に渉り旧陸軍所に拘禁せられる者120名にして拘禁中並びに前後死亡するもの51名の多きに至り其の非命を悲しむと残している。
 一方で、幕府の記録では、同年5月18日、拘禁していた萩藩・同支藩・同支族の江戸藩邸吏員並びに家族を、広島に護送し、広島藩に命じて、彼らを本藩に引き渡すとある。
 「回天史」の時期は、ちょうど第二次長州征伐の頃である。将軍・家茂は大坂にあり、混乱の最中であり、再び朝敵となった長州へわざわざ送り返す事は考えられず、幕府の記録による5月が正しいと思われる。
 こうして多くの命を奪った監禁は終わりを告げるが、長州側の史料「毛利家乗長府毛利家編」に、送り返された者たちを、「慶応2年6月10日、江戸の囚人広島より帰る」と、囚人という言葉を使った、興味深い一説もある事を付け加えておこう。
 この一連の事件で命を落とした藩士たちの墓は、現松蔭神社(世田谷若林)にあるが、その死因については一切触れられていない。〈次回は、エリート幕臣の顛末・小栗忠順〉




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