大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 39 ~

2013年08月07日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 井伊直弼の首級を上げた薩摩藩士・有村次左衛門が勝鬨を挙げると、斬られて昏倒していた彦根藩士・小河原秀之丞が蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村にの後頭部に斬り付ける。この小河原の奮闘振りは、門の内側から目撃した人物の証言によれば、朦朧とひとりで立ち向かい、数名の浪士に斬られ尽くした有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。のだが、これは桜田門か、彦根藩上屋敷門か。いずれにしても中間だろうが、行けよ、助けに。と苦々しく思わなくもない。
 小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。
 が、この小河原の一撃により、有村も重傷を負って歩行困難となり、近江三上藩主、若年寄・遠藤胤統邸の門前で自決。
 これは長年の疑問なのだが、現在跡地をみると、江戸城桜田門と井伊家上屋敷は目と鼻の先。銃声で屋敷内の藩士が動かなかったのだろうかといった点である。
 だが、これは当方の認識不足であって、江戸時代の井伊家上屋敷は広大な敷地にあり、駆け付ける間もなく事は済んでいたと考えるのが妥当だろう。
 現に、彦根藩では、ただちに藩士を送るも、間に合わず、死傷者や駕籠、斬り落とされた指や耳たぶ、飛び散った鮮血により染まった雪まで徹底的に回収したそうである。
 そして遠藤邸に置かれていた井伊の首は、彦根藩側が、闘死した藩士・加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。最も幕閣である遠藤胤統が井伊の顔を知らない筈もなく、これこそ武士の情けとでも言おうか。
 襲撃後の現場には、尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通り、井伊暗殺はただちに江戸市中に知れ渡るが、井伊家からは、藩主の急病を理由に出仕を控え、急遽相続願いを提出。それが受理された後に直弼を病死として届け出ており、井伊家は御家断絶を逃れる事が出来た。 
 このような寛大な裁定が認められたのは、徳川譜代筆頭・井伊家への配慮と、家名を継続させる事で彦根藩の水戸藩への敵討ちを防ぐと共に、水戸藩自体の御家断絶を防ぐ目的もあった。
 井伊家の家督は二男・直憲が継ぐも、二十万石へ減封され、幕府との関係は険悪化する。〈続く〉




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