大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 35 ~

2013年08月03日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 小栗忠順は、文政10(1827)年、二千五百石の大身旗本・三河小栗氏第12代当主であり、幕末に勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した言わば徳川幕府のエトート官僚である。文久3(1863)年に上野介に遷任された事から、以後小栗上野介と称される。
 その非凡さは幼少時から発揮され、8歳で小栗家屋敷内の朱子学者・安積艮斎の私塾「見山楼」に入門。幕末の幕臣であり、明治初期の思想家・栗本鋤雲と席を同じくする。
 一方、幕末の三剣士と言われた、直心影流島田派・島田虎之助に剣術を師事し、後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。
 小栗の武術修行はこれだけに収まらず、砲術を田付主計、柔術を久保田助太郎にそれぞれ師事している。そして、砲術の同門であった結城啓之助の開国論に影響を受けたのが天保11(1840)年(1840年)前後。この事によって、鎖国、攘夷を唱える多くの者たちとの方向性の違いが生じ始めるのだ。
 今になって思えば、小栗や、会津藩家老・西郷頼母の考えに耳を傾けていたなら、と悔やまれるがそれこそ後の祭りであり、何時の世も、圧倒的多数派の前には無力なものである。
 17歳の天保14(1843)年に出仕し両御番となるも、率直な物言いを疎まれ、幾度か官職を変えられるが、やはり才腕を引き立てる者があり官職を戻されるを繰り返す。
 ここでも、かの鬼平こと、長谷川平蔵を思わせるものがある。正論であっても正義を貫こうとすれば、上から疎まれるのは今も昔も同じといったところであろう。
 そんな折り、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが浦賀に来航。嘉永6(1853)年であるから、小栗27歳の時である。当時小栗は、異国船に対処する詰警備役であったが、関船しか所持していない幕府では到底同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れざるを得なかったのである。
 外国船を目の当たりにし、その先進技術を取り入れようと、積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ち始めるのだった。
 そして安政7(1860)年には、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米。代表ではなかったが、外国人と交渉経験があり、落ち着いた物腰であった小栗が代表と勘違いされた程の器量を備えていた。〈続く〉



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