大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 36 ~

2013年08月04日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 帰国後は、遣米使節の功により外国奉行に就任するも、文久元(1861)年、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、老中に対馬を直轄領に、この件の折衝は正式の外交形式で執り行い、解決出来なければ英国海軍の協力を得たい等を老中に提言するも、容れられず外国奉行を辞任する。
 また、文久2年(1862年)、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。駐日フランス公使レオン・ロッシュより、製鉄所についての具体的な提案を練り上げたのを手始めに、その後も、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所設立、陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化推進、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設、幕府陸軍をフランス軍人の指導を仰ぐために招聘し同時に大砲やシャスポー銃などの大量の兵器・装備品を購入。
 経済面でも株式会社「兵庫商社」の設立。日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設など、日本全国の商品流通の流れを念頭に事業を展開する。
 有能な人材の登用など、経済・軍事・政務と改革を押し進め、近代日本の基礎を築き上げていったのだった。小栗の手腕については倒幕派も大きく認めている。
 正に、幕府にあっても近代日本は気付かれると思われた矢先の慶応3(1867)年10月14日、将軍・徳川慶喜が朝廷に大政を奉還し、翌慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の幕が切って落とされる。
 この時、小栗の言動は意外であった。いや、幕臣としては当然ではあるのだが、これだけ世情を見極めたひとりの男にしてはという意味である。
 小栗は幕府海軍副総裁・榎本武揚、歩兵頭並・大鳥圭介、幕臣(各奉行職を歴任)・水野忠徳らと徹底抗戦を主張し、新政府軍を箱根で陸海から挟み撃ちにして、孤立させる策を提案している。これが実行されていたなら、徳川政権は奪回出来ていた勝算が大であったのだ。後に、当時の最高の兵学者とされる長州藩・大村益次郎がこの計画を知り、四方や実行されていたなら新政府軍は壊滅したと語った程である。だが、慶喜は耳を傾けずに恭順論を受け入れた。小栗はなおも抗戦を説く。
 辣腕振りを発揮しながらもこの後小栗忠順は、それに見合った評価を受ける事なく、坂道を転がるように失脚するのである。
 とにもかくにもこの徳川慶喜ってお人は、肝心な時に弱腰であるばかりか、逃げ腰とでも言おうか、鳥羽伏見からの前代未聞の逃走と言い、その後の責任回避と言い、戊辰戦争全ての敗因を作っておいて知らん顔である。〈続く〉


ランキングに参加しています。ご協力お願いします。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へにほんブログ村




最新の画像もっと見る

コメントを投稿