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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 27 ~

2013年07月26日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 相馬主計(明治時代以降は主殿または肇)は、加入時期は不明だが、慶応3(1867)年12月の新撰組編成表に平隊士として名を連ねているので、その直前であろう。
 同年10月、副長・土方歳三が江戸で隊士を募った際に応募し上洛した説が最も濃厚である。
 新撰組としてはもはや晩年であり、衰退の一途を辿る中にあって、名も無き隊士として終わる筈であった。
 そんな相馬主計が歴史の表舞台に顔を現すのは、同年4月、下総流山で局長・近藤勇が新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭した後である。
 まずは相馬主計の略歴を振り返ろう。天保6(1835)年、常陸国笠間藩士・船橋平八郎の子として生まれる。笠間藩では、唯心一刀流剣術、示現流剣術が盛んであり、相馬もいずれかの流派であったと思われる。
 慶応4(1868)年1月・鳥羽伏見の戦いにおいては、入隊間もなくにも関わらず、隊長附50名の組頭を任じられている事から、上記・剣術の腕前の程を知る事が出来るというものだ。
 その頭角を現し始めたのが、甲州勝沼の戦いであり、ここで優れた軍事力を示し、副長・土方歳三の目に留る。
 そして同戦いに敗走後に陣を敷いた房州流山にて、4月3日捕縛された局長・近藤助命の為、幕府の軍事総裁・勝海舟、陸軍軍事方・松濤権之丞、新撰組副長・土方歳三(幕臣・内藤隼人)の書状を携え、隊士・野村利三郎と共に板橋の東山道軍本営(総督府)を訪れた際に、初めてその名を見る事ができる。
 だが
 総督府では、近藤との面会も許されず、先に捕えられた局長付・野村利三郎(近藤に同道)と同じ牢に入れられ、斬首刑が決まっていたが、近藤が、「(斬首は)わたしひとりで良かろう」と、彼らの助命をし、近藤の処刑後、笠間藩に預けられ謹慎生活を送る。
 近藤の処刑を強引に押し進めたのは、坂本龍馬暗殺を新撰組とする、土佐藩・谷干城とされているが、近藤はともかく、相馬や野村といった言わば新参の名も無き兵士の首を取ったところでどうなるのだと思うのだが…。
 実際に、龍馬暗殺時に彼らは新撰組には入隊もしていない。
 こういった新政府の勝ち驕った裁定が嫌でたまらないのだ。新政府軍の主力は下級武士。己の藩で虐げられた弱者の気持ちを分かっていた筈ではないか。
 そもそも維新のきっかけは尊王だ。攘夷だではなかったのか。尊王は天皇政権にしようと実行したのは良いとして、外国人を実力行使で排斥しようという思想の下の攘夷の筈が、外国から武器は買うなど接近し、明治になれば西欧文化を取り入れまくり。
 その辺りを薩長土に是非とも伺いたいものだ。〈続く〉




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脱藩藩主・林忠崇の戊辰戦争 ~もうひとつの会津戦争 第三章 26 ~

2013年07月25日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 林忠崇の請西藩は改易となったが、辛うじて甥の忠弘(明治2(1869)年・東京府士族(三百石)によって家名存続が認めらたものの、家禄は三十五石に減らされ、その後の秩禄処分によって困窮した生活を余儀なくされていく。
 林忠崇は如何に生きたのであろうか。もはや黙っていても領民が税を納めてくれる大名でもなければ録もない。己の身体で活計(たつき)など得た事のないお殿様である。甥の忠弘に、または親族に泣き付き、捨て扶持を宛てがわれて糊口を凌いだのか…。答えは否である。
 そもそも藩主でありながら前代未聞の脱藩をやらかしたお殿様は、自らの手で生きる道を選んだのだ。
 明治5(1872)年1月になり漸く赦免された忠崇は、士族には認められたものの、旧諸侯にもかかわらず、改易の事情から華族の礼遇が与えられる事もなく、長屋に住まい、鍬を手に開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など困窮した生活を送ったのである。
 最期まで抵抗した榎本武揚の放免もこの時期なので(同年1月6日の特赦出獄)、忠崇の放免も
特赦であると思われる。
 大名が百姓まで…。幾ら人は平等とはいえ、中々出来ない選択である。プライドや固定概念に捕われない、ある意味では最も新しい明治と言う時代に相応しい人物だったのではないだろうか。
 現存する彼の若かりし頃の写真は、あたかも歌舞伎役者のようでもあり、老いてからも面長に切れ長の眼差し、きりりと結んだ口元には品格が感じられる。
 明治26(1893)年になり、漸く旧藩士による尽力で、林家の家名復興の嘆願が認められ、忠弘は男爵を授けられて華族に列する事が出来、分家扱いだった忠崇も復籍して華族の一員となる事が出来たのである。
 そして翌年には従五位に叙され、その後は宮内省や日光東照宮などに勤め、明治・大正・昭和を生き抜いた忠崇は、昭和12(1937)年に旧広島藩主・浅野長勲の死去に伴い、生存する唯一の元大名となった。
 晩年は娘と同居しながら隠居の生活を送り、「最後の大名」として各取材を受けるなどし、昭和16(1941)年1月22日、二女・ミツの経営するアパートにて92歳の波乱の生涯を閉じた。
 死に際して、「明治元年にやった。今は無い」と答えた、明治元年の 辞世の句は、「真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」であった。
 タイトルの「もうひとつの会津戦争」とは、違ってはいるが、東北戦線で戦い抜いた事で、この章にて紹介させていただいた。
 林忠崇が戊辰戦争で取り上げられ語られる事はないが、こんな気概のある大名もいた事を知っておいて欲しい。
 一万石の小藩であっても大名家の若様として育ったひとりの男が、全てを投げ打ち、第一線での戦いを経て、罪人、農民、役人(政府の下級官吏)、商人…。正に波瀾万丈と呼ぶに相応しい人生を悔いなく生き抜いた武士(もののふ)であった。
 さて、この「もうひとつの会津戦争」を閉めるにあたりひと言。「慶喜さんよ。みんなこうして徳川のために全てを投げ打ったのに、お前さんは何してたんだい。安穏と、側室まで従えて静岡で写真撮ったり、狩りしたり、自転車走らせてたらしいじゃないかい」。
 激動の時代を乗り切るには、頭(将軍)が悪かった。〈次回は、新撰組最期の隊長 相馬主計〉





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脱藩藩主・林忠崇の戊辰戦争 ~もうひとつの会津戦争 第三章 25 ~

2013年07月24日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 もうひとつの会津戦争とは異なるが、藩主自らが脱藩し、旧幕府軍に参加。奥州へと転戦した珍しい例として、ここに記する。
 上総国請西藩3代藩主・林忠崇がその人である。上総国請西藩の石高は一万石。城を持たない陣屋大名である。忠崇は、嘉永元(1848)年、請西藩初代主・林忠旭の五男として生まれているので、慶応3(1867)年の大政奉還戊辰戦争当時は、19歳。若き青年藩主・忠崇は文武両道で幕閣の覚えも目出たく、将来は閣老にもなろうかという器と評されていた。
 そんな英明な藩主を幕臣たちが放っておく筈もなく、大政奉還の報を受けた同藩が、洋式軍の調練を行なうなど有事に備える中、同年閏4月、対外防衛と国内体制維持を目的として創設された幕府の撤兵隊や、幕臣・伊庭八郎・人見勝太郎率いる遊撃隊など、旧幕府軍からの助力要請が後を絶たなかったのである。
 無論、藩内は恭順派と抗戦派に分かれて伯仲。こちらも小藩ならではの生き残りを掛けた苦悩があったのだ。
 だが、ここで忠崇が下した決断は、自らの脱藩という予想も着かないものであった。
 忠崇の思いとしては、己は徳川に忠義を示したいものの、藩を挙げての佐幕派となれば、負けた場合の責務が藩に降り掛かる。ならば脱藩すれば、藩は、御家は無事であろう。そんな思いだったと推測出来る。郡上藩のどちらが勝っても生き残る道。その為に藩士を犠牲にしたのとは真逆の、自らが犠牲になったと言えよう。
 脱藩した忠崇らは幕府海軍の協力を得て、館山・箱根・伊豆を転戦し、奥州戦線に参戦するも、徳川家存続の報を受け、大義名分が果たされたとして仙台にて新政府軍に降伏。江戸の唐津藩邸に幽閉される。
 藩士70名を伴い遊撃隊に参加した忠崇を、新政府は反逆と見なし、林家は改易処分となる。戊辰戦争の戦後処理として敗者17藩には減封・移封の処分等が下されるが、改易は請西藩のみである。〈続く〉



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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 24 ~

2013年07月23日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 ここで二本松少年隊について少し触れておこう。二本松少年隊すなわち、二本松藩の12~17歳の少年から成る兵部隊である。会津藩の白虎隊との違いは、発足から隊名があったのではなく、当時は少年部隊としてのみで、二本松少年隊と名付けられたのは戊辰戦没者50回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。
 そもそも、戦への出陣が12・13歳の子どもに適う筈もないのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年の制度があり、最少年齢の隊士の実年齢は12歳なのだが、先の制度により、14歳として出陣している。
 平均して白虎隊よりも4歳も年下となる訳だが、この年齢の4歳は大人とは違いかなりの開きのあるもので、武家の子息といえども、漸く武術に手を染め出した年頃。少年と言うよりも、子どもと呼ぶ方が相応しい。
 その出陣も軍服を整える刻もなく、どの家でも母親が前の晩に徹夜して、父や兄の着物を肩上げしたり、袴の裾を祭り上げたりといった急ごしらえな物であったと言う。
 親も子も、別れを惜しむ間もなくといった光景が目に浮かび、胸が痛くなる思いだ。
 家名に泥を塗ろうとも、奥羽越列藩同盟を裏切る形となり、卑怯者呼ばわりされようとも、戦いを回避する道もあったと思うのだが…。
 だが、家老始め重臣も自刃して城に火を放つといった最期を選んだ。この時、開城の後に、重臣らの命と共に戦闘を終わらせる仕儀もあったのではないだろうか。
 否である。仮に二本松藩が降伏・恭順を示した場合、会津・仙台両藩に挟まれる二本松藩は、真っ先に両藩から攻撃される事になる。二本松藩が敵に回れば、会津・仙台両藩の連絡の為に二本松を確保する必要性が生まれるからである。
 いずれにしても二本松藩には、滅びる運命が待ち受けていたのである。
 先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主・丹羽長国は無理矢理城から撤退させている。
 いずれにしても、城外にあった二本松少年隊は、新政府軍によって隔てられ城の動きを知る事が適わず、隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守が相次いで戦死し、指揮官不在の中、最前線に放置される事態に陥るのだった。
 指揮官もなく、戦場を彷徨うううちに離れ離れとなった彼らは、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、その幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあったと言う。
 中でも、西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎率いる25名少年たちが戦った、大壇口での戦いは戊辰戦争の悲劇を語る上では外せない傷ましいものであった。
 例えば、久保家においては、病弱な兄・鉄次郎(15歳)を置いて、弟・豊三郎(12歳)が出陣すると、「おめおめと寝ている訳にはいかない」と鉄次郎は、母親を振り切り出陣。戦いの最中、それぞれに負傷した2人は、称念寺に運ばれるも、お互いが近くに居る事を知らないままに、息を引き取る。
 また、戦いが終わり、倒れていたところを農民に助けられた三浦行蔵は、隊長も仲間も戦死したにも関わらず、生き残った自分を悔やみ、農民が目を離したすきにいなくなっていたという。
 二本松藩の死者は、家老以下18名の上級藩士を含む218名。17歳までの少年兵は18名(少年隊全62名中)であった。
 また、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、会津藩39名、仙台藩19名、新政府軍は17名の死者を数える。
 この戦いに小隊長として参戦していた薩摩藩士・野津道貫は、後に「戊辰戦争中第一の激戦」と語っている程である。
 二本松と会津の大きな違いは、戦いか否かを選択し、己の信念を貫いた会津藩に対し、攻める新政府側も守る二本松藩も戦いの理由がないままに、互いに武器を向け合わなくならざるを得ない状況に置かれたという点にある。
 未だ幼い二本松少年隊の隊士たちは、理由も分からず「殿のため」、「お家のため」と死んで逝ったに違いない。〈次回は、脱藩藩主 林忠崇〉





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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 23 ~

2013年07月22日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 二本松城へ向かう新政府軍は二隊に別れ、阿武隈川を挟んで至近に位置する小浜からは、長州藩・薩摩藩・備前藩が。板垣退助率いる主力の薩摩藩・土佐藩・彦根藩・佐土原藩は南から二本松へ7月29日午前6時に出陣する。
 迎え撃つ二本松藩は軍師・小川平助の指揮の元、本陣から南に離れた位置にある絶竣で知られる尼子平に突出する形で陣地を形成し、本宮からの板垣支隊への妨害を図るが、圧倒的に兵力の劣る二本松藩の望みは、後方の会津藩と仙台藩の援軍だったのだが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に新政府軍によって半壊の被害を受け撤退。郡山に布陣していた旧幕府軍も、本宮の戦闘後に夜間に仙台藩領へと撤退し、二本松藩を救援するには至らなかった。また、先に二本松城に入っていた仙台・会津の兵も城を脱出すると、二本松藩兵のみが残される結果となった。
 つまり、二本松は援軍への期待も出来ず、孤立した状態で、旧兵力と少ない兵士で戦わざるを得ない状態にありながらも、彼らは恭順するよりも義を立て滅びる道を選んだのである。
 そもそも会津藩が恭順を示しているにも関わらず、言い掛かり甚だしい奥羽越の戦闘である。単に新政府の力を示すため、個人的な遺恨、振り上げた拳の下し先を失った故の無意味な戦なのだ。
 幕臣は何をしていたのだ。もちろん、榎本武揚や伊庭八郎、鳳啓介など戦い抜いた幕臣は数知れず。ここで指す幕臣とは、勝安房守海舟のような重臣にある。更には徳川慶喜。自分だけ恭順の謹慎で難を逃れようというのは如何なる心境。
 越前福井藩主・松平春嶽、尾張徳川家・徳川慶勝辺りは、この戦をどう見ていたのだろう。仲立をしようとはしなかったのか。
 この大名らと会津藩との関わりは、そもそも京都守護職は松平春嶽が2度就任し、状況が拙くなったところで容保に2度とも引き渡したのだ。
 徳川慶勝は、容保の実兄である。そして、この慶勝こそが、いち早く幕府を見限ったと言っても過言ではない。何故に新政府軍が、西国に数多いる徳川譜代の大名たちと一戦も構えずに江戸まで進軍出来たのか。それは慶勝が、戦はまかり成らぬとの文書を送っていたためである。
 この辺りの話は、後の機会にするとして、このような経緯から始まった戦に、助っ人よろしく駆り出された二本松藩であったが、諸藩の寝返りが相次ぐ中、武士道を貫き通し、降伏・開城を良しとしなかったのだ。
 先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主・丹羽長国を水原に撤去させると、軍事総督の家老・丹羽一学は城に自ら火を放ち、重臣7名と共に自刃し、僅か半日の抗戦で二本松籠城は終わりを告げる。〈続く〉



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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 22 ~

2013年07月21日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 多くの藩が奥羽越列藩同盟の盟約を破棄し、新政府に恭順する中、信義を貫いた岩代国・二本松藩丹羽家の守信玉砕戦は、戊辰戦争でも類を見ない壮絶な戦いだった。
 二本松藩・十万七百石は、第11代藩主・丹羽長国の治世である元治元(1864)年4月から、慶応元(1865)年冬の間に2度に渡る京都警備の任に着いていた。元より尊王も攘夷もなく、領地が陸奥国でさえなければ、戊辰戦争に加わる事もなく、会津領の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要衝に位置ていなければ、会津戦争の要たる白河城の城郭預かっていなければ、多くの犠牲者を出す事もなかった筈である。
 藩としては、軍制、兵装、戦術の洋化の動きは鈍く、旧態依然の軍備で戊辰戦争に参加することになり、兵力も、農民兵、老兵、少年兵を動員してかろうじて2000を維持していた程度に軍事力は低いものだった。その軍事力に反し、会津藩同様に漢学が盛んであり、忠君愛国の教育が家臣団に深く根付いていた事が、最期まで戦い抜いた二本松魂と言えるだろう。
 慶応3(1868)年4月20日、会津藩兵が白河城に入り、23日には、仙台藩、棚倉藩の2300の軍勢が入ると、二本松藩兵は自領へと引き揚げるも、5月1日、新政府軍の攻撃により白河城が再び新政府側に落ちる。その奪還のため会津藩に援軍を求められた二本松藩は、8小隊と砲隊からなる主力を白河口に送ったのである。
 新政府軍の猛攻は続き、三春藩が新政府軍に帰順した翌日の7月27日、二本松藩の主力は仙台藩と共に三春藩の南西にある郡山に布陣していたのだ。この三春藩の裏切りにより領内を難なく通過出来た新政府軍は、三春と二本松藩の中間地点、本宮村に向けて兵を進める。
 二本松藩は、家老・丹羽一学による「死を賭して信義を守るは武士の本懐」の一言により抵抗の道を選んだ。
 そして、主力部隊不在の城下。それを守る戦力は老人隊、少年隊、農民兵を含んだ予備兵のみであった。
 そこに新政府軍は、二本松城を攻め落としに掛ったのである。〈続く〉




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故郷を失った男たち 凌霜隊 ~もうひとつの会津戦争 第一章 21 ~

2013年07月20日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 凌霜隊・最年少の隊長・朝比奈茂吉は、常に先頭に立って、隊士たちを叱咤激励し戦っていた記録が残され(隊士・矢野原与七著「心苦雑記」)、日光口から追撃してきた新政府軍との激戦を戦い抜いた中でも、大内峠に於いては狭隘した地形を利用し、スペンサー銃で薩軍を4時間以上釘付けにしたという。
 だが、会津若松開城後、彼らに郡上藩青山家から下された処分は過酷極まるものであった。生き残った者26名は、会津から群上へ護送されるが、戦犯首謀者・朝比奈茂吉なる罪人札を括り付けられた罪人籠にてである。これは、会津藩士の東京への護送よりも厳しい処遇。それも、これも郡上藩のどっち付かずの曖昧さが招いたにほか成らないのだ。
 罪人として国元に戻った彼らは、東殿山のふもと赤谷村の揚屋(牢獄)にて半年間の幽閉生活を余儀なくされるも、これもまた、劣悪な環境であり、戦いに生き残ったにも関わらず病死者を出す始末であった。
 そして明治2年5月、領内寺僧の嘆願により自宅謹慎を経て、翌年3月晴れて自由の身となるのだが、青山家が彼らに手を差し伸べることはなく、新政府の目を気にして、賊扱いの彼らに国許での居場所はなかったのである。
 いずれにしても、どちらにも良い顔をしておこうといった、実に日本人的かつ村社会の円滑さを図る田舎の小藩の浅智恵が招いた結果である。そして彼らは戊辰戦争屈指の被害者と言えるだろう。
 平穏時であれば、いや、藩命がなければ、家老家の嫡男として、家督を約束されていた朝比奈茂吉だったが、罪人として故郷を追われながらも、名も義彦と改め、父・藤兵衛の実家である近江国・彦根藩井伊家の重臣・椋原家の養子となれた事は幸運である。
 これは一重に、実家が家老職であったから出来た事で、ほかの隊士に関しては不遇の後半生を送った者もあっただろう。そして、そんな名もない者たちの記録は残されていないのが常であるが、名のなき者たちの屍の上に現代は成り立っているのだ。
 例えば、新撰組を例に挙げてみても、浪士組設立からの戦闘での死者は六番隊組長・井上源三郎のみである。副長・土方歳三は、戦死時には事実上旧幕府軍の指揮官となっていたのでカウントせず、十番隊組長・原田左之助も、同様に彰義隊として上野の戦にて戦死のため、こちらも無カウント。名もなき一兵卒が歴史を作り上げていると言っても過言ではないだろう。
 話が逸れたが、藩命により命を欠けて戦いながらも、罪人にされた無念の程は察して余ある。会津の悲劇は語り継がれても、会津とは何らしがらみもない美濃の小国の若者たちが流した血の涙を知る人は少ないであろう。
 維新後、椋原義彦(朝比奈茂吉)は、滋賀県犬上郡青波村の村長を務め、明治27年に急逝(享年43歳)。父と朝比奈家を継いだ弟・辰静の家族も呼び寄せ養ったと伝えられる。酒に酔うと隊を切り捨てた藩を痛烈に批判し、臨終に際しては、「凌霜隊、白虎隊」と呟いたと伝わる。〈次回は、会津の盾になった少年たち 二本松少年隊〉




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故郷を失った男たち 凌霜隊 ~もうひとつの会津戦争 第一章 20 ~

2013年07月19日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 奥州諸藩のほかに、会津のために戦った藩があったのをご存じだろうか。新撰組、靖兵隊、伝習隊…。旧幕臣が中心となり戊辰戦争を戦った隊名である。そんな中に、美濃国の小藩・郡上藩が会津へと派遣した隊があったのをご存じだろうか。
 郡上藩・四万八千石、最期の藩主は第7代・青山幸宜である。藩主・幸宜は、佐幕派であったが、藩内では佐幕派と尊王派が対立し、慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まると、国元ではわずかひと月後の2月11日に新政府に恭順を示す誓書を差し出した。
 このまま、新政府に組し維新を迎えていれば、何事もなく終わる筈であった。だが、そこが小藩の悲しさ。万が一、幕府が勝利した場合の藩存続へと思いを巡らした事が悲劇の幕開けであったのだ。藩の決定に不安を抱いた江戸家老・朝比奈藤兵衛ら強固な佐幕派が、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に、17歳の嫡男・茂吉を隊長とする藩士47名から成る凌霜隊を同行させるも、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分であった。
 同年4月10日、本所中の橋菊屋に集合し江戸湾を出航した凌霜隊は、大鳥圭介率いる伝習隊に合流し、下野国・小山、宇都宮から日光街道を経て塩原へと転戦。
 8月23日、若松の城下へと向かうも、城下には母成・滝沢峠を突破した西軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていた。凌霜隊は、辛うじて若松城の西口・河原町口郭門まで辿り着くが、そこから9月6日の入城までに約2週間を要し、白虎士中一番隊・二番隊の生存者で再編成された白虎隊士と共に西出丸の防衛に当たる。
 籠城戦に入った会津城への入城は困難を極め、山川大蔵の彼岸獅子に扮しての敵前突破は有名だが、一度閉まった城門は、各地での戦から戻った藩士たちにも中々開く事はなく、山川に至っては、「門兵を殺しででも入れ」と叫び、漸く重い門が開いたと言われている。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 19 ~

2013年07月18日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 会津を舞台にしたドラマや映画などで、柴兄弟が取り上げられる事は稀であるが、彼らの著書は戊辰戦争の真実を世に知ら示した貴重な資料であると共に、その生き方は、真の会津魂を伝えていると言えるだろう。
 戦により、その半生に大きな傷を負いながらも、己の行き場所を見出した兄弟は、時は明治へと移り、政界、軍部、文筆と、それぞれに名を残す飛躍的な活躍を示したのであった。

 長兄・太一郎
 文久2(1862)年、藩主・松平容保が京都守護職となると、先発隊として上洛し、朝廷や諸藩などとの折衝などに当たる。
 明治元(1868)年から始まった戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦から北越戦争へと転戦。若松城籠城戦で奮戦するも怪我の為、戦線離脱。降伏後は謹慎の身となるが、赦免後、弟五郎らとともに会津藩の移封先奥州斗南に移住。
 だが、斗南藩の米購入代金の横領事件に巻き込まれ逮捕され、明治10(1877)年4月の釈放まで7年あまりの間、東京で保釈と拘束を繰り返された。※川崎尚之助に連座。
 釈放後は新政府に出仕し鹿児島県に務め、同年の西南戦争にも出陣。後に会津に戻って南会津郡長などを務め、明治30(1897)年に退職。大正12(1923)年死去。

 次兄・謙助
 山川大蔵指揮下の大砲士中一番日向隊にて日光口の戦いに出陣。慶応4(1868)年4月6日、下野・家中村にて、偵察中、農民に虐殺される。(享年25歳)。

 三兄・五三郎
 藩主・松平容保が京都守護職の任に着くと、上洛し、禁門の変に参戦。戦後は、会津戦争時の貴重な資料ともなる「辰のまぼろし」を記し、ベストセラーとなるも、帰郷し父・柴佐多蔵(榮由道)の面倒をみながら静かに暮らす。

 四兄・四朗(東海散士)
 戊辰戦争時は、白虎白虎士中合同隊に参加。その後、別働隊として西南戦争に参戦。米国留学後、小説「佳人之奇遇」を発表、ベストセラーとなる。
 明治25(1892)年、福島県選出の衆議院議員初当選後、以降8回当選し、農商務次官や外務省参政官などを歴任。〈次回は、藩命により反逆者に 朝比奈茂吉〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 18 ~

2013年07月17日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 二十四万石の大大名家が、いきなりの三万石。移封の斗南は、しかも実質は一万石にも満たない、森林や牛馬の放牧を主とした未開墾の草野であった。米はひと粒も実らず稗、栗、豆などが穫れる程度。人家も僅か450戸という、いうなれば寒村の地である。加えて冬の厳しさは会津の非ではない。
 家という家には残らず割り当られて、元より財産など持たず、誰もが無一文である。日用器物夜具などまで家主より借用すると云う有様だった。移封当初こそ、当主交代で歓迎もされたが、次第に村の厄介者として旧会津藩士は見られていくようになる。
 五郎は、父・佐多蔵(榮由道)、長兄・太一郎、三兄・五三郎と共にここに暮らす。喰うや喰わずの中でも、家族で暮らせた事は幸いだったのではないだろうか。四兄・四郎は、謹慎後、東京に残り勉学に励む道を選んでいるが、こちらも資金難から、あちこちを転々とする暮らし振りであった。
 女子どもの一族自刃といった不幸はあっても、戦場に出た男子5名のうち、4名までもが帰還出来たのは、会津でも珍しい。
 借家が足りない為に、急遽設えられた住まいは、六畳に二畳位の掘立小屋で、畳もなく、米俵の薦や、蓆を敷いての住居。五郎の家族は借家住まいだったので、それよりも幾分増しでは合ったが、それでも障子を貼る金がなく、米俵の薦や叺の蓆を結び付けて漸く風を防いでいた。
 その生活は、日に玄米三合と銭二百文の支給のみで、玄米三合の御渡米を粥にして飢を凌ぎながらも、それを食べ残して現金に代えるなど、困窮を極めた。野草や海藻は言うの及ばず、時には犬の死骸を見付け、それを分け合って食した事もあったと言う。
 そのような劣悪な環境下、1年が過ぎた明治4(1872)年の暮れに、五郎は、青森に県庁が新設され、給仕として森寅之助と出仕する。
 その後の五郎の飛躍は凄まじく、明治6(1873)年に上京し、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校・陸軍士官学校を卒業後、陸軍で順調に出世を遂げ、明治27(1894)年、大本営参謀として日清戦争を迎える。
 そして、その名を世界中に知ら示した明治33(1900)年の義和団事変(北清事変)の際には、駐在武官として清国公使館にあり、暴徒に包囲された北京城に約2カ月籠城し、防衛に成功。その適切で勇敢な行動は、世界各国から高い称賛を受けた。欧米及びキリスト教徒中国人に深く信頼を寄せられ、北京が連合国によって制圧されて後に開かれた、第1回列国指揮官会議の席上で、籠城した防衛軍の指揮を委ねられていたイギリス公使マクドナルドが「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵(五郎)に帰すべきものである」と賞賛している。
 さらに、解放後に占領した北京では、略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも努めているのは、戊辰戦争下の会津での暴挙を目の当たりにした幼い記憶の為であろう。
 その後、大正8(1919)年、61歳で会津藩出身者としては初めて陸軍大将になり、その4年後に退役。既に65歳の高齢であり、苦難の前半生を取り戻すべく、穏やかな日々を過ごすかに思われたが、太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送を聞いたひと月後の昭和20(1945)年9月15日、身辺を整理すると自決を計る。この時は辛くも一命を取り留めたものの、その傷が元で12月13日に、85歳で息を引き取った。
 その訳は明らかではないが、太平洋戦争の敗戦責任を感じての事とも伝えられている。とすれば、最期まで会津の武士(もののふ)魂を胸に抱き続けた柴五郎。これ程までに、己を戒めた人生を賞賛せず何とする。
 戊辰戦争に始まり、人生の大半を戦いに費やした柴五郎。五郎著「ある明治人の記録」によれば、会津の戦況下の会津、そして斗南での過酷を極めた暮らしの中で、餓死を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びる父からきつく武士の戒めを解かれた事による。〈続く〉



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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 17 ~

2013年07月16日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 このような環境下にあり、次第に監視も揺るやぐと、各謹慎所間の連絡を取り、会津の善後策などを政府当局との交渉に当っていた山川大蔵(浩)の収容されていた飯田町火消屋敷に収容されている山川大蔵(浩)に呼び寄せられ、太一郎は医者に変装し名を変え、五郎を伴い移り住む。
 ここでは、山川自らが若い者たちに学問を教えたりと、随分と待遇は違っていたが、それでも一人前米4合、銭200文の宛てがいの中で食を賄うので、随分とひもじく、犬や猫が屋敷内に迷い込むと総掛かりで追い廻して屠っていた。この米4合、銭200文が何日分なのかの記載がないのだが、平均でひとり1日米5合を食していた時代であり、また、幕末からのインフラで物価は高騰し3~4倍へとなっていたので、1日分だったとしても屈強な男子の食事としては足りなかったと予想される。
 明治2(1870)年秋、会津藩の処遇も決まり、松平容大(容保の実子)に御家継承が許され、南部斗南に三万石の領地を賜り、あたらし橋門内に屋敷を与えられたので、火消屋敷の必要がなくなり、そこに居た者たちは講武所の謹慎所に移される。
 広大な土地に西洋館、各種武芸の道場、練習寄宿所様の多くの建物がある中に、1000人を超える旧会津藩士が収容され、ここでも一人前米4合、銭200文(もしくは150文)の宛てがいで、自炊形式での賄いが行われていた。
 この頃五郎は、真田邸の謹慎所に足を運んだ事があるらしいが、これまで五郎が転々とした謹慎所と違い、「大名屋敷ですから皆相当な部屋に居ったようです」。と興味深い言葉も残している。
 また、旧幕府の落武者などが、会津藩士の身代わりとして謹慎所に入り、東京に着くと間もなく脱走するなど、脱走者も後を絶たなかったと言う。五郎自身も長兄・太一郎の骨折りで、沼津の林庄十郎氏の元へ脱走する運びとなっていたが、その前日にほかの者が脱走した為、監視が厳しくなり成し遂げられなかった経緯を持つ。
 だが、同年歳末の晩に、太一郎に連られて到頭講武所を脱出し、土佐藩邸に逃げ込む。土佐藩士と太一郎の繋がりは不明であるが、一度は刃を交えた相手の懐に飛び込んだ経緯は興味深い。
 そして明治3(1871)年の夏頃までを土州藩邸にで過ごしていたが、芝・増上寺にいた兄(五三郎か四郎かは不明)を頼りそちらへと移る。
 この時には、既に謹慎所ではなくなり、斗南の新領地に送られるまでの仮住居となっていた為、比較的に自由が許されるようになっていた。
 松平家御宿坊の徳永院に仮学校が設けられ、英語の授業も行われてはいたが、食事は朝夕共に粥食に胡麻塩だけの、衣食共に不自由な生活ではあった。
 米も南京米であり、また、増上寺溝や池の、鯉や鮒やスッポン、蟇(ひきがえる)などを捕り、粥に混ぜて食べた事もあった程困窮し、寒い日には単衣の上から蚊帳を被ている人や破れ座布団を背中に袈裟の様に掛ける人などもあった。それでも、次第に人々は戊辰戦争当時や、世間の悪しき風潮や社会の不正 などを意気盛んに語らう程に生きる気力を取り戻していった。
 その夏、高田藩預けと会津に残って居た藩士の家族は越後の新潟から、東京に居った者は品川から雇い外国汽船にて、新領地・斗南へと出立する。
 船は700~800トンあるかないかの川蒸気のような外輪の船で、東京より6日以上の船旅の末、五郎たちは野辺地へと到着。
ほかにも船は、田名部近くの安渡(今の大港)、八戸附近に上陸。
 東京に着いたのが明治2年7月中旬(6月に会津を発ち)であるので、約1年に渡る謹慎生活がここに終わる。だが、謹慎を遥かに上回る辛酸極まる生活がこれより始まるのだった。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 16 ~

2013年07月15日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 戊辰戦争終結後、旧会津藩士たちがどれほどの苦杯を舐め、恥辱に耐えて生きなければならなかったのか。後に三男・五三郎、四男・四郎、五男・五郎が記し出版しているのだが、正に猛悪凶徒と化した新政府軍の陵辱・略奪などを伺い知る事が出来る。そのような生き地獄を見た少年。会津戦争での無念を胸に秘めつつ、更なる試練に立ち向かわなくてはならないのだった。
 戊辰戦争終結から約60年後の「会津温故会」に於て、五郎自身が語った「会津戦争後談」から、謹慎生活や斗南移封後の暮らしを知る事が出来る。
 城内に居た藩士・2000余人は猪苗代に集められた後、東京に送られ、越後方面や日光口などから戻った城外に在った藩士や家族・1800人は、塩川浜崎地方に集められて後、越後の高田藩にお預けとなる。
 東京にての会津藩士の謹慎所は、音羽・護国寺、小石川・講武所、現在の三崎町全体、麻布台町・真田邸、芝・増上寺等数カ所あったが、傷病兵として城下の南・小田山の麓の御山村に新設された病院に収容されて後に護送になった太一郎と五郎は、一ツ橋門内、御搗屋と称する元幕府の糧食倉庫へと収容される。
 護送時期が遅くなったので、2000余名を収容する場がもはやなくなっていたのだろう。ならば、会津の寺社ではいけなかったのだろか。もしくは近隣の藩でも良さそうなものであるが、新政府の考えは計り知れない。
 そして宛てがわれた建物は、障子も窓もない木造2階建の土間造りであり、元は漬物置場だったらしく沢庵漬の香り満ち、風通しも悪く湿気に満ちていた。
 2階の上まで土足で往来しそこに荒畳を布き1畳にひとりの割りでスペースが宛てがわれる。着いた当初は、盛夏の最中だが、蚊帳もなく(後に配布される)布団はひとり1枚。賄は箱飯といい、仕切りのある小さな四角箱に飯と菜とを入れて、汁や湯は大きな手桶に杓を付けて所々に置いてあるといった風であった。
 まさに囚人扱いである。
 この時11歳だった五郎は、本来ならば謹慎所に入らなくても済んだのだが、ただひとり会津に残される五郎を哀れんだ太一郎が、従者ひとりを許される身分であったため、弟としてではなく氏名を偽り従者として伴ったのだ。
 だが、このような不自由な生活の中、次第に生き別れとなっていた父・佐多蔵(榮由道)は講武所に、五三郎、四郎は護国寺と真田邸に無事だという消息が知れる。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 15 ~

2013年07月14日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 慶応4(1868)年8月21日、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を撃破すると、そのまま進路を会津へと向ける。新政府軍が城下に迫ったとの知らせを受けた柴家では、父・佐多蔵は既に城に入り、四兄・四朗は熱病にて臥床中であり、歩行も困難であったが、母・ふじに叱咤され、城に追いやられていた。
 そして、唯一残された男子の五郎だったが、母・ふじの強い勧めで、城下の南二里に位置する郊外の沢(門田町面川)の寮(別荘)の知人宅へ松茸狩りに行かされるのだ。それも、泊まってくるようにと強く勧められている。
 この年、藩校・日新館に入学したばかりの五郎だったが、既に休校となっていた事から、五郎は母の勧めに従った。
 既に戦況は捗々しくなく、間もなく城下も戦場になろうかといった時ではあるが、僅か8歳の少年にそのような事情が分かろう筈もない。また、この母・ふじの言動から、実際に新政府軍が傾れ込むまでは、兵士以外は比較的緩やかに過ごしていたことも伺えよう。
 そして、急進した新政府軍が若松城下に突入した23日。柴家では、9名が一家(一族)自刃を果たす。
 祖母     ツネ(つね子?)  80歳
 母      ふじ(ふじ子?)  50歳
 四女     素衣(そゑ子?/土屋敬治に嫁す) 19歳
 五女     サツ(さつ子?)   7 歳
 太一郎妻   トク(とく子?)  ? 歳 
 柴太助の母  シヲ         46歳
 同妻     ヒサ         19歳
 同妹     ツネ  2歳
 同叔父    柴兵部        30歳
 ※柴太助とは佐多蔵(榮由道)の弟か? 百五十石取り藩士であり、戊辰戦争時は朱雀士中二番田中隊に所属し出陣。8月29日若松名子屋町にて戦死(24歳)。
  
 同日五郎は、屋敷に戻ろうにも、紅蓮の炎に包まれた城下に戻れずにいたところを、叔父の柴清助により、家族の自刃の知らせを耳にする。彼はふじに請われ、家族の自刃に立ち会い、介錯の後屋敷に火を放つといった辛い役目を果たしていた。並びに五郎の養育も頼まれていた。そして城下に戻れないまま、9月半ばに、大川畔の一の堰、飯寺辺にて負傷した長兄・太一郎が担がれて来たので、兄と共に山の奥に隠れて傷の療治しているうちに、会津が開城になったのだ。
 五郎が後にこの時の事をこう語っている。
 「この日までひそかに相語らいて、男子ひとりなりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたづらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざること約しありしなり。わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし」。
 女子どもは籠城しても食料を無駄に消費させるだけで、足手まといになると、以前から話し合いの末自刃に至ったのだが、男子全てを戦場に送り出し、その生死も定かではない今、五郎のみが柴家の家督を継ぐべき者として、敢えて松茸狩りと偽り屋敷から出したのだ。
 このような惨い知らせを8歳で受け止めなければならなかった五郎の心中は、懐剣を持って自害の時を待っていた7歳の妹を思いやり、そして、幾ら己が幼かったとはいえ、何も知らされなかったとは今思い起こしても苦しいだけだの一文から痛い程伝わってくる。
 加えて、木村家に嫁した長姉・かよも、戦で負傷して動けなかった夫共々、一家9名が自刃している。
 何故に、一族皆で沢(門田町面川)の寮(別荘)の知人宅に身を寄せなかったのか。これも人に迷惑をかけられないといった事からだろう。
 打ち揃っての自刃は、筆頭家老・西郷頼母一族(21名)が有名だが、城下ではこのような家族が数多あったのである。
 若松城開城後、柴家では、父・佐多蔵(榮由道)、長男・太一郎、三男・五三郎、四男・四郎、五男・五郎の男子5名と、望月家に嫁ぎ寡婦となっていた二女・つまも3人の子と生き延びている。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 14 ~

2013年07月13日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 兵士のみならず、多くの非戦闘員もの命を奪った戊辰戦争において、明暗を分けた一族があった。
 後にイギリスのビクトリア女王を始め、各国政府から勲章を授与され、「ロンドン・タイムス」はその社説で「籠城中(北京・紫禁城)の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない」。と称された柴五郎である。
 新政府では、軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る華々しい後半生の陰には、会津で流した計り知れない涙があった。
 五郎は、その名の示すとおり、会津藩御物頭・二百八十石の柴佐多蔵(榮由道)の五男として、万延元(1860)年5月3日、会津城下に生まれるも、物心付いた時には、会津藩は国を揺るがす政変の渦中にあり、数えで9歳の年である慶応4(1868)年に、ついに会津は戦場となった。

 当時の柴家の構成は下記のとおり(五郎からみた続柄・年齢は慶応4年時)。
 父      佐多蔵(榮由道)  ? 歳 会津藩御物頭・二百八十石
 祖母     ツネ(つね子?)  80歳
 母      ふじ(ふじ子?)  50歳
 嫡男     太一郎       29歳 京に赴任・公用方、戊辰戦争時=軍事奉行添役
 二男     謙助(謙介?)   25歳 京に赴任、戊辰戦争時=大砲士中一番日向隊
 三男     五三郎       ? 歳 京に赴任、戊辰戦争時=?
 四男     四郎        15歳
 五男     五郎         8 歳
 長女     かよ(木村家に嫁す)? 歳
 二女     つま(望月家に嫁す)26歳
 三女     志ゅん(夭折)
 四女     素衣(そゑ子?/土屋敬治に嫁す) 19歳
 五女     サツ(さつ子?)   7 歳
 太一郎妻   トク(とく子?)  ? 歳 
 
 五男五女の五男だった五郎は、非常に大人しい少年で、母・ふじからは、近年珍しい大人しさであると「近年五郎」と呼ばれ、可愛がられていた。
 藩主・松平容保が京都守護職に任に就くと、長兄・太一郎、次兄・謙助、三兄・五三郎は揃って上洛。会津には、年齢からみて隠居し家督を太一郎に譲ったであろう父・佐多蔵と、藩校・日新館に通う四兄・四郎、そして同じく日新館に通う五郎が残っていた。
 そして時は慶応4年。戊辰戦争が始まると、柴家にも渦中に巻き込まれていくのだった。
 まずは、1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおいて、素衣の夫である土屋敬治が戦死。続いて、4月6日、山川大蔵指揮下の大砲士中一番日向隊に属していた、次兄・謙助が、日光宇都宮方面に出撃し、偵察に出て行方不明となるも、後に農民に虐殺されたことが判明する。
 長兄・太一郎はは軍事奉行として越後方面へ出陣し、三兄・五三郎は佐川官兵衛隊に属し出陣。後に、農民隊長として越後戦線へ向かう。そして四兄・四郎は、白虎隊へ入隊する。
 白虎隊名簿に柴四郎の名が見当たらないのだが、本来16~17歳とされていた規定から、当初は幼少組に所属し、白虎隊の欠員補充の形で、山川健次郎(大蔵の実弟)らと共に、白虎士中合同隊(士中一番隊・二番隊合併)に組み込まれたと思われる。
 降伏直後の9月末、山川大蔵・水島純ら首脳陣に命じられ、猪苗代謹慎所を抜け出し本営に行き、「藩主を案ずる余り、自分たちだけの了見で尋ねて来たもので、参謀に合わせて貰いたい」と願い出た4名の少年の中に四郎の名もあり、ほか3名、山川健次郎、高木盛之輔、原鋧三郎は白虎士中合同隊に名を連ねているからである。〈続く〉



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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第四章 川崎尚之助 13 ~

2013年07月12日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 また一方では、明治3(1871)年に制定された戸籍に、川崎尚之助は山本八重の名前を書いておらず、裁判で負けた時に八重が負債を背負うことになるのを避けるためであるとも言われているが、それも一理あるとは思えるものの、やはり確実に過去の婚姻が無となった事への証しとも受け止められる。
 また、会津藩の斗南に移住しなかった人々の出稼戸籍簿・御近習分限帳には、山本家欄に尚之助の名があり、覚馬の先妻・うらの名もあるも、彼女は既に覚馬に小田時恵の存在を知り、離縁を求め京へは同行していない。
 よって御近習分限帳は、藩内の古い資料で作成された物ではなかったのだろうか。
 これまで新政府軍の非情さを書いてきたが、時は明治。旧会津藩士たちもて東京にて新政府に出仕し、暮らしは安定している者も多かった筈。にも関わらず、誰ひとりとして手を差し伸べないとは…。
 現代の縮図のような、利用する時だけ利用し、風向きが変われば知らん顔。こういった仕打ちに一番悔しい思いをしたのは、会津藩ではなかったのか。
 情けは人の為ならずは、明治時代に死後となった。
 困窮で食べる事もままならない日々、川崎尚之助はどんな思いを抱いていたのだろう。彼の心中を察するには余ある。
 時代は明治に変わろうとも、最期まで会津の幕引きをしたのは、川崎尚之助だったのではないだろうか。〈次回は、義に殉じた会津藩士たち 第五章 柴五郎〉



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