ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

山本周五郎の言葉

2009-12-28 | パパ
小説家山本周五郎の「泣き言はいわない」から、いくつか心に響いたものを紹介。

「にんげん生きているうちは、終わりということはないんだな」

「さむらいの生き方のきびしさは、きびしさが常のものになりきることだ、そうなってはじめて身命を捧げる一念が不動のものとなる。」

「武士が武士らしく生きるには、泰平ほどむずかしく困難なのだ」

「一身一命を捧げると口では易く云う。御しゅくんのため、藩国のためにはいつなんどきでも死ぬ覚悟だ、口では誰でもそう云うが、家常茶飯、事実のうえでその覚悟を活かすことはむずかしい。昨夜そこもとは身命を上に捧げたといった、その言葉に嘘はないだろう、覚悟もたしかなものに違いない。だが実際にはその覚悟を活かしていなかった、・・・他人に指摘されて、急いで始末をしなければならぬような物を、身のまわりに貯めて置いた、死後に発見されては身の恥になるような物をさえ始末もせず、ただ覚悟だけいつ死んでもよいと決めたところでから念仏にすぎない、そうではないか」

「毒草から薬を作りだしたように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない、人間は人間なんだ」

「自分が傷つかぬ限り、人間は他の痛みを感じない、自分が飢えるまでは、他人の飢えには無関心な人間が多いのです。」

「大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。その心さえたしかなら、結果の如何は問題でないと信じます」

「人間は条件に左右されてはならない」

「よくつきつめてみると、人間ってものはみんな、自分のゆく道を捜して、一生迷いあるく迷子なんじゃないだろうか」

「人間って悲しくなくても、ときどき泣かないとからだにわるいんじゃないでしょうか」

「人間がけんめいになってやる事の九割までは無意味なものだ」

「人間は弱い。あやまちを犯し失敗を繰返す。傷つき泥まみれになる。然しその血を拭い泥を払って、幾たびでも強く立直るちからを持っている」

「みんなが重い荷を負っている。逆境や性格によって差はあるが、人間はみなそれぞれなにかしら重荷を負っている、生きていくということはそういうものなのだ、そして道は遠い・・・自分の荷を軽くすることは、それだけ他人の荷を重くすることになるだろう。道は遠く、生きることは苦しい、自分だけの苦しみや悲しみに溺れていてはならない」

「ここにいる女たちだって、自分の好きでやっている者もなくはないだろうが、多くの者は親兄弟か身内を生かすために稼いでいる、なかには病んでいる良人や子供のある者もいるという。みんな生きるためなのだ。これが汚れた世界だとすれば、こんな世界の存在を余儀なくさせる世界もまた汚らわしい筈だ。」

「人間おちめになったら、とことんまでおちるほうがいい。中途半端がいちばんわるいのだ。」

「温床でならどんな芽も育つ。氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、しんじつ生きがいがあるのではないか」

「悩みのみが正しい意味で人間を謙遜にする」

「どんなに真実な愛でも、そのために誰かを不幸にしたり、他から恨まれたりするようでは、本当でもなし幸福でもない。」

「おれは悪評されだしてからだいぶ成長した。これまで褒められてばかりいたし、江木にも古武士の風格があるなどと云われて、自分では気づかずにいいつもりでいた。だが、悪く云われだしてから初めて、そのいいつもりでいた自分に気がついた。それだけでも成長だし、これからも成長するだろう、悪評の続く限り俺は成長してみせるよ」

ほかにもたくさん考えさせられる言葉がありますが、このへんで。
小説の中に現われるこれらの言葉が前後の文脈と相俟って強いメッセージ性を生み出すように思いますので、ぜひ一度小説を読んでみてください。歴史小説なので最初は抵抗を感じる人もいますが、僕もそのようなひとりだったので、安心してください。

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