ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

成長日記

2010-08-27 | ママ
最近めきめきと成長をとげている渉くん。
ついにママが言えるようになり、言葉も少しづつ増えてきた。
ふとした瞬間に、驚き感心させられることも多々ある。

実家にて。
家の中でミニカー遊びに集中していた渉くん。
急に右手を横にふりふり。
ん?何かな?と母と顔を見合わせて考えていると、外よりギコギコと父の木を切る音が。
あの音を聞いて同じように、手をギコギコ動かしていたのだ。
渉くん、木を切るところ、見たことあったっけ??

山道を散歩中。
せみの鳴き声が激しい中、急に立ち止まって右手を上げた渉くん。
耳を澄ませると、遠くのほうでかすかに飛行機の飛ぶ音。
はは~ん、飛行機のマネだな。
ぶ~ん!と満足そうな顔。

絵本タイム。
大好きな消防車が出てくると、むくっと立ち上がり、隣の部屋にダッシュ。
手に消防車をもって嬉しそうに立っている。
一緒だね~と喜ぶと、他の絵本にのっている消防車の絵を探してこれもこれも!
うわ~すごいね~!!

あるものに集中しているかと思うと、ふいに気を奪われ、立ち止まることがよくある。
一つのものを見ているようで、感じている世界はかなり広い。
日々発見の子供たちには、いつもと一緒ということがまだないのだろう。
社会性がほとんどない分、感性が鋭いのかもしれない。

話していることもどんどんわかってきている様子。
いろんなお手伝いもできるようになってきたね~。
自分で出来ることが増えると、本人も嬉しいし、ママも嬉しい。
毎日あの笑顔を見れるなんて幸せだなぁ。



ちょっといいもの

2010-08-20 | ママ


実家の近くになにやら気になるお店を発見。
渉くんがお昼寝中に自転車走らせて、しばし休息タイム。
昭和の時代のレトロな家具や食器類がところ狭しと倉庫に並んでいる。
これはなんだろう。。。
白い陶器でできたタイルがとてもきれい。
持ってみるとずっしり重い。
よし、壁に飾ってみよう。




淡い紫色をしたガラスのイヤリングとこっくり白いお皿。
ペーパーウェイトにしているのは、昔の照明のソケット部分。
緑色の文字がかわいい。





壁掛け用針金のバスケットにはキッチンクロスをいれようかな。
大きな木のカトラリーはママ用。
持ち手の太っちょさんのスプーンは渉くん用。
織りの敷物の微妙な色使いも素敵。






大きな持ち手のバスケット。
あるようでなかなかないこの形。
何をいれようかな。。

あ~いいものが見つかった。
またお部屋の模様替えをしなくっちゃ。

日本の未来

2010-08-18 | パパ
オーストリアの詩人リルケは「マルテの手記」の冒頭で次のように書いている。

「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」




詩人の鋭い感性がとらえた都市の印象だ。それは孤独だったのではないか?

人は人を求めて都市に集う。そこに都市の魅力がある。しかし、一方で人は集団となることで匿名となり孤立化していくのも事実だ。

今、日本では都市の砂漠化が進んでいる。毎年増え続ける自殺者の数、幼児虐待や行方不明老人の問題など弱者が孤独の中で、都市に消えていく。
本当の砂漠が食料の欠乏という状態で目に見えるのに対して、都市の砂漠化は人々の無意識の生活の中に水面下で広がっていく。砂漠が限りなく無に近い孤独であるとするなら、都市は密集した人と人の間に生じる無関心による見えない孤独であると言い換えてもいい。

戦後の経済成長によって、家族という共同体は、個人の自由と引き換えに機能を縮小しながら大都市に点在していった。自由は快適な反面、共同体がもつ相互扶助という強い絆を断ち切ってしまった。その断ち切れた絆を補うかのように人は都市をさまよい、その途中で社会の片隅に消えていく。それは、誰もが無関心でも快適でさえあれば生きていけると信じきってしまったせいかもしれない。
ニーチェは言う。

「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだと。お前たちと俺が!」

日本の現在の状況は、まさに神なき時代なのかもしれない。

世界はグローバル化の波で、ますます膨れあがり、社会の孤立化がますます進んでいくのだとすれば、我々を繋ぎとめる神を今こそこの手に掴み取らなければならないのではないか。国家によるセーフティネットの強化も大事であるが、前提として我々が殺してしまった「神」とは何であったのかを問いなおす必要があるのではないでしょうか。


「何のために生きるのかと言う確固たる意識がなければ、そのまわりにたとえパンの山を積まれても、人間は…この地上にとどまるよりは、むしろ自殺の道を選ぶに違いない。」
        フョードル・ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」


大事なこと

2010-08-18 | パパ
世界的な数学者であった岡潔は学ぶ行為について次のように書いている。

「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は情緒が中心になっているといいたい。」






高度に抽象化された記号で概念を構築していく数学の世界に一生を捧げた人間は、頭だけでは、数学の美は見えてこないことを強く感じとったのかもしれない。

では情緒とはどのようにして育まれるのだろうか?
情緒という言葉について辞書を紐解けば
「事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起こさせる特殊な雰囲気。」
とある。

つまり情緒とは、人間の内面と人間の外部に存在する環境とが出会う過程で生まれる微妙な空間ということになる。

環境の整備だけでも内面のケアだけでもだめで、内部と外部が同時に成熟する中で出会い反応する場が情緒を育むのである。

親には、家族を通して子供に内面の環境を整える努力と社会という外部へと突き放す勇気が、そして社会にはそれを受け止める精神的な余裕が必要だと思う。
それなくして、次の時代を担う子供というものは育っていかないだろう。







島根旅行5 二日目:植田正治写真美術館

2010-08-17 | 子供と行こう



この旅最後の場所は鳥取にある植田正治写真美術館。
彼の写真は森山大道のような日常の断面を切り出して異化するのではなく、彼自身が頭で考えた構図を目の前に作った上で写真として表象する芸術手法のように思えた。
森山大道が以前鑑賞したロト・チェンコの流れだとすると、植田正治はマン・レイに与する者かもしれない。
建物は建築家高松伸氏によるもの。
彼には珍しく機械的なイメージは外観からは見えないが、手すりや階段、椅子などに彼らしいデザイン処理がなされているように思えた。
雄大な景色の向こうにうっすらと浮かぶ大山に対面して建つ建築は古代の遺跡のように静かにそこに存在しているようだ。
館内には、3次元に無限に広がる空間を囲み限定し、大山を一枚の写真へと変換する場が設けられている。そこは、憩いの場にもなっている。
ルイス・カーンが言うように「建築は働きかけるものでなければならない。」のだ。
この旅でいろいろな建築を訪れて感じたのは、建築空間には憩いの場が必ず必要であり、建築家の思いはそのような空間に強く現れるのだということであった。
広場に一本の大きな木が立っている風景を思い出してみればそのことが良くわかる。







出雲で靴までぬらした渉くんは、やや不満ながらも、不思議な空間に誘われてすたすたすた。
ママはここに座ってと椅子をばしばししながら、ちゃっかり横にちゃんこ。
渉くん、きれいな景色だね~!





ちょっと疲れたかな。



ママ見てみて、えへへの笑顔。






渉くん、いろんなところに行ったね~。
これで今回の旅はおしまい。
この景色ともお別れ、ばいば~い。





鳥取県西伯郡伯耆町須村353−3
9時~17時
火曜休