大晦日 2009-12-31 | ママ 今年最後の日。 母と一日台所で過ごした日。 渉くんは頭に大きなたんこぶをつくっての年越し。 ごめんね。。。 みなさん、今年も一年お世話になりました。 明日からもどうぞよろしくお願いします。
買出し 2009-12-30 | ママ 本日今年最後の買出し隊。 母と山陽町の青空市場へ。 最近は年中開いているお店が多く、季節が感じられなくなっているが、 やっぱり正月はこたつにはいってお雑煮を食べてゆっくりしたい。 実家に帰っての買出しも毎年恒例になっている。 来ている人達もどこかせわしなく両手は野菜であふれている。 外に並んだ花達も葉牡丹、水仙、千両と正月をおもわせる。 何の装いもせずそのままで奈並んでいる野菜たちは頼もしい。 生産者の名前入りで値段もかなり安い。 もちろん味も美味しい。 渉くんは、 足元にもいっぱいの野菜たちに興奮気味。 しゃがんではひっぱり出すのでちょっとお外にでようね。 明日はお料理三昧 そろそろ母の味を覚えるころかな。
光と影 2009-12-29 | パパ 以前、家族で食事をしていたとき、突然、渉一がなにかに背後から声をかけられたかのように大きく後ろを覗き込んだ。不思議に思いつつ、ふと上を見ると太陽の反射光で照らされた天井が、いままさに影で覆われようとしているところであった。影が、生き物のように部屋の中に入り込んできて、渉一の頭の上を乗り越えて天井の光を飲み込もうとしているような光景に思えた。彼は、天井の光の強弱に反応したのではなく、影がもつ気配のようなものに反応したのかもしれない。いや、影は雲の動きと連動して変化するのだから、雲の気配に気づいたのかもしれない。そのとき、何故かふと川端康成の小説「日向」を思い出した。 恋してまもない頃の二人が海辺の宿で会っている。主人公の男がいう「やっぱり顔を見るかね。」何故か、この主人公は、変な癖をもっていて、傍らにいる人間の顔をじっとみてしまう。この日も、娘からそのことを柔らかく指摘されたのである。彼は、この癖がなぜ身についてしまったのかをずっと悩んで生きている。そして、娘を見まいとして眼をやっていた砂浜の日向が、彼に埋もれていた祖父の記憶を呼び覚ます。そういうなんともない短い話ですが、不思議と心に残る小説です。 太陽が作り出す光と影は、我々に遠い昔に忘れてしまった何かを気づかせるのではないか。なぜなら、いつの時代の人間も同じ太陽を見て生きてきたのだから。
ヘルシーおやつ 2009-12-29 | こどものおやつ 今朝母が作ってくれた朝食。 じゃがいもパンケーキ。 最近朝ご飯をあまり食べない渉くんだが、 今日は自分で握ってぱくぱく。 ほんのり甘くてやさしい味。 子供のおやつとしてもつくってあげたいメニュー。 男爵 1個(半分は千切りに、残りはすりおろす) 小麦粉 1カップ ベーキングパウダー 小さじ2 甜菜糖 大さじ2 豆乳 3分の2カップ 白練り胡麻 小さじ1 山戸家の野菜ごはんより 材料を混ぜ合わせて冷蔵庫で30分。 熱したフライパンできつねいろになるくらい。 大人用には少しメープルシロップがほしい。
逆光 2009-12-29 | パパ ものには表面と空間から切り取られた輪郭とが共存している。表面は装飾へ、輪郭は形態への欲望をかきたてる。 ガウディのサクラダ・ファミリアの壁面は、各所を多様な彫刻や植物模様が覆い、陶製のタイルやモザイクが隙間なく埋め尽くす。 一方でミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルは、金属格子とガラスで構成されたシンプルな直方体により、形態が明解にあらわれている。 僕はあまり装飾が好きじゃないので、後者の立場を支持している。 特にミニマルアートの作家ドナルド・ジャッドの作品は、純粋な幾何学形態を簡潔に規則的にただ配列するだけの作品である。見るものは一瞬にして全体を把握することができるが、それ以上そこに意味を見出そうとする行為を中断される。しかし「意味の抑制」「作家の表現性の排除」を突き詰めることで、逆に作品に何か緊張感が生まれる。このような作品はそのものが置かれる空間に強く影響されるが、一方で空間の存在を強く意識させる装置にもなっている。だから、彼の作品は場所を求めてテキサスへとむかった。 街を眺めると、ものの表面が看板や装飾で覆われ、形態が融解しているように思える。しかし、逆光は我々の視覚を表面から輪郭へと反転させてくれる。逆光は影をつくり、美しいものだけを浮かび上がらせる。