畑倉山の忘備録

日々気ままに

戦後憲法と9条

2016年05月09日 | 国内政治
れんだいこは、近代憲法の由来を評価する。それは、ルネサンス的息吹からもたらされた市民革命の産物であり、キリスト教的政教一致体制からの政教分離思想と市民的権利の保障を特質とする。人民大衆の臣民的在り方からの解放であり、市民の自由自主自律的規律によりもたらされる社会を理想としている。これには異存ない。

戦後憲法の成立史と9条的反戦平和条項の由来は、精力的に検証されてしかるべきであろう。れんだいこ史観は、戦後憲法も9条もその精神に於いてキリスト教的理想主義に裏打ちされていることを重視したい。その限りで「押し付け」であることはその通りである。但し、そのようにしてもたらされた戦後憲法はプレ社会主義的な内実を伴っており、為に人民大衆がこれを受け入れ享受することになった。

その憲法と9条が改変されようとしているのはなぜか。これを本質的に見れば、キリスト教的理想主義憲法からユダヤ教パリサイ派的独裁主義憲法への転換が画策されていると読むべきではないか。これを理解するには、キリスト教的とユダヤ教精神を知らねばならず、その根深い対立をも知らねばならない。この方面の知識が極端に痩せている日本人の多くは、このことを理解できない。

戦後憲法と9条が規定された裏事情は次のように理解できる。戦後直後には第一次第二次世界大戦を反省とする反戦平和的時代気分が漲っており、これを受け止める形で日本の戦後憲法に反映されたのではなかろうか。その他人民的諸権利の網羅は、それをアメリカ陣営がもたらすことにより、戦後日本をソ連陣営に引き込みさせない戦略戦術として使われたのではなかろうか。れんだいこは、そのように推定している。

その後冷戦社会となり、日本は軽武装経済大国の道をひた走り始めた。この間、表面的な帝国主義間対立を装いながら、その裏で国際金融資本帝国ロスチャイルド派即ち現代パリサイ派が実権を強め、金融と軍事と原子力を握る彼らは、戦後日本を再捕捉する為に様々な狡知で攻略し始めた。戦後憲法の改憲はこの流れで生み出されているものである。してみれば、改憲運動の正体は国粋主義によるものではなく、現代パリサイ派の国際的指令に基づくものであると見立てたい。

現代パリサイ派は何ゆえに改憲を急ぐのか。それは、日本の自衛隊を中東へ派兵し、アジア人とアラブ人を戦わせる傭兵国家にせんが為である。歯止めなき軍事防衛費注ぎ込みの道を敷き、軍事産業を支える軍費支出大国日本にせんが為である。更には、原子力費支出大国日本にせんが為である。金融奴隷国家日本にせんが為である。れんだいこはそう見立てる。

戦後憲法の制定過程論の真の問題は、「GHQ案=マッカーサー草案」が下敷きにした「原案」を探し出すところにある。GHQが僅か二週間で作成したという巷間説に従う限り真相が見えてこない。その原案を捜し出し、誰がどういう意思と目的で草案化したのかを知ることが大事であろう。現在、このような議論が皆目為されておらず、群盲象を撫でる感がある。

いずれにせよ、現下の改憲論は押し付け憲法を自主憲法化するという口実で、新たな押し付け憲法化されようとしているところに問題がある。それも、キリスト教的精神からユダヤ教的精神のものへと転換されようとしている。ユダヤ教的精神に汚染されると国家及び人民は病み永遠に立ち直れなくされる。これは歴史が教えるところである。

9条改定論は、戦争及び軍事費抑止力としての9条を改定することにより、軍事防衛費の垂れ流しと好戦国家へ誘い込むために画策されている。彼らは、国家を守るという名目でこの道へ誘うが、これほど危険な誘いは無かろう。我々は断固として拒否するべきである。

最後に。現下憲法論のれんだいこの知る限り論者の殆どが言及していない重要点について触れておく。戦後憲法は財政健全主義を掲げている。これにより国債の発行を禁止している。予算の国会承認もその現れである。憲法9条の非武装平和主義は、軍事が最大の金食い虫であることを踏まえてこの方面の費用支出を拒否する宣言とも受け取ることが出来る。今や、この精神が全く無視されているが、今からでも良いこの原理原則を再興すべきではなかろうか。

2007.6.20日 れんだいこ拝

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/9jyotushin/kuratariron.htm