畑倉山の忘備録

日々気ままに

絶望の裁判所

2017年06月03日 | 国内政治

日本の裁判所、裁判官の関心は、端的にいえば、「事件処理」ということに尽きている。とにかく、早く、そつなく、「事件」を「処理」しさえすればそれでよいのだ。

また、権力や政治家や大企業も、これをよしとしている。庶民のどうでもいいような事件、紛争などともかく早く終わらせるにこしたことはなく、冤罪事件などいくらかあっても別にどうということはなく、それよりも、全体としての秩序維持、社会防衛のほうが大切であり、また、司法が「大きな正義」などに深い関心を示すことは望ましくない、あるいは、そうなったら大変に都合が悪い。大国の権力や政治家や大企業は、おおむねそのように考えているに違いない。

そして、日本の裁判所は、そういう意味、つまり、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に、「模範的」な裁判所なのである。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)