探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

二十日天下の中先代政権  <相模次郎物語>

2015-01-23 23:40:18 | 歴史

3:二十日天下の中先代政権  <相模次郎物語>

中先代の乱・なかせんだいのらん
建武二年(1335) 七月、北条高時の遺子時行が,信濃の諏訪頼重らの援助で鎌倉幕府再興を企て,足利直義を破って鎌倉を占拠したが,八月足利尊氏に鎮圧された事件。
中先代というのは,先代 (北条得宗家) と当代 (足利氏時代) との中間の代の意で,時行の鎌倉占拠の期間をさし,また時行自身のこという。

北条泰家
北条泰家は第十四代執権・北条高時の弟。泰家は幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を諏訪盛高に頼み、逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びています。泰家の妻と亀寿丸の母が安達氏で、また陸奥国北部一帯の地頭を、北条得宗家一族が独占しており、当地には地頭代として、多くの家臣集団がいて、得宗家が代々「蝦夷管領」であり、内紛で衰えたとはいえ、その代官・安藤一族が蝦夷集団の頂点にいました。記録によると、泰家は陸奥国に長居せず、直ぐ京に上り、西園寺公宗の元に隠れ、後醍醐政権への反撃を企てたようですが、事前に露見し公宗は捕縛、泰家は信濃へ逃げます。・・時行の中先代の乱の一年後、泰家は、麻績御厨で蜂起し、小笠原貞宗や村上一族と戦ったことが記録に残っています。その後の記録がないことから、逃亡中に、夜盗に殺されたのではないかと・・確かな証拠はありません。

鎌倉幕府滅亡後の各地の北条残党の蜂起

規矩(北条)高政と糸田貞義
建武元年(1334)春、金沢流北条氏の出自・規矩(北条)高政と糸田貞義がそれぞれ豊前国帆柱山と筑後三池郡で挙兵。高政は肥後守として九州へ赴任していました。高政は翌年に豊前国田川郡糸田庄(田川郡糸田町)を領する甥の北条一門・糸田貞義とともに九州で挙兵し、家領の豊前国帆柱山城(北九州市八幡西区)で北条氏残党を集めて抵抗するも鎮圧されます。・・・規矩・糸田の乱。

本間・渋谷一党
建武元年(1334)3月、本間・渋谷一党が相模で挙兵。本間氏は大仏流北条氏の被官でした。  『比志島文書』によれば、鎌倉幕府が滅びると、佐渡六ヶ郷が足利尊氏領に、羽持郡・吉岡が直義領になります。いずれも北条氏の旧領地です。建武の新政の発足により佐渡支配が再編成され、本間氏もこの激動の時代に一族の存続を掛けて反抗します。

赤橋重時
伊予風早郡の恵良山で赤橋重時が兵を挙げます。重時は長門探題北条時直に気脈を通じますが、長門探題も激しい攻撃を受けます。股肱の臣の豊田種藤・種長父子が離反し、探題館を攻撃した為、北条時直は探題館を放棄して逐電します。九州探題を頼ろうするが、九州探題北条英時も自刃した為、少弐氏・島津氏に降伏します。・・結局、赤橋重時軍は孤立無援となり、重時は捕らわれて斬られます。

名越時兼
名越時兼が北陸において再起の旗を揚げ、京都と鎌倉の奪回を謀るというものでした。時兼は、北条一門で越中守護。元弘の戦乱で滅ぼされた名越時有の遺児。

前掲の建武二年の出来事の「常岩弥六」、「深志介らの反乱」、「保科・四宮勢の蜂起」は重複のため割愛、「越後左近将監入道・上野四郎入道等挙兵」は「本間・渋谷一党」のこと、「駿河太郎重時」は、相模・高座渋谷の渋谷一族のこと、「讃岐での反乱」は不明。

足利直義追撃と足利尊氏の反撃

鎌倉を陥れた「時行軍」は、逃げる足利直義を追撃する。小競り合いはあるものの、駿河遠江を逃げた直義は、三河国矢作に拠点を構えて、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。

この頃の年譜
8.2  西園寺公宗、日野氏光誅される。足利尊氏、京を出発。
8.7  尊氏、三河宿で直義と合流。
8.9  遠江橋本の合戦。時行軍、これより8月19日まで負けつづける。
8.12 遠江小夜中山の合戦。
8.14 駿河国府合戦。
8.17 箱根合戦、蘆川の戦い。
8.18 相模川の合戦。
8.19 片瀬川の合戦。足利軍、鎌倉へ突入。諏訪頼重・時継ら自刃。
     8 足利尊氏東下し、鎌倉を奪回
8~9? 信濃惣大将村上信貞、坂木北条城を攻め落とす。
9.3  安曇・筑摩・諏訪・有坂の中先代与党の城、攻め落とされる。
10  小笠原四郎、横河城を攻める。
10.3/9 尊氏、相模三浦、長沢、馬入で北条残党を討伐。
11 後醍醐天皇、尊氏討伐のため新田義貞を出陣させる。
12 足利軍、新田義貞を破り西上。
義良親王・北畠顕家、尊氏追討の命を受け奥州出発

関東の敗戦が京都に伝えられると、足利尊氏はすぐ後醍醐天皇に討伐軍の派遣を奏聞します。当時尊氏の勢力に、後醍醐天皇は危惧を感じ、意識して足利尊氏を除外していました。尊氏は東下の勅許、征夷大将軍・総追捕使の官を奏請しますが、後醍醐天皇は許可しません。そこで、尊氏は、強引に軍を編成し出立します。後日、進発した尊氏に「征東将軍」の官が与えられます。後醍醐天皇は、朝廷の権力維持のため、征夷大将軍には成良親王を固執したのです。
そんなこんなで、後醍醐天皇が武家社会から急速に支持を失っていき、統治能力のない公家に、露骨に侮蔑され、尊氏を新たな武家の棟梁とする輿望が高まっていきます。
尊氏進発の報に数千騎が従います。三河の矢作で、足利尊氏率いる討伐軍は、敗走してきた直義軍と合流し、同族の吉良氏、細川氏らの援軍を得て、追走してきた北条軍と大井川で激突するころには、総数一万騎にも達する勢いでした。

『梅松論』は・・・
「今当所を立て関東に御下向有べき処に。先代方の勢遠江の橋本を要害に搆て相支る間。先陣の軍士阿保丹後守入海を渡して合戦を致し。敵を追ちらして其身疵を蒙る間。御感の余に其賞として家督阿保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。当所の合戦を初として。同国佐夜の中山。駿河の高橋縄手。筥根山。相模川。片瀬川より鎌倉に到るまで敵に足をとめさせず。七ヶ度の戦に討勝て八月十九日鎌倉へ攻入たまふとき。諏方の祝父子自害す。相残輩或降参し或攻め落さる。去程に七月の末より八月十九日に到迄廿日余。彼相模次郎ふたゝび父祖の旧里に立帰るといへども。いく程もなくして没落しけるぞあはれなる。鎌倉に打入輩の中に曾て扶佐する古老の仁なし。大将と号せし相模次郎も幼稚なり。大仏。極楽寺。名越の子孫共。寺々にをいて僧喝食になりて適身命を助りたる輩。俄に還俗すといへ共。それとしれたる人なければ。烏合梟悪の類其功をなさゞりし事。誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも廿日先代とも申也。」・・・
・・・ 直ちに、出立して関東に下向するつもりが、北条方の軍勢が遠江の橋本に要害を構えて道を塞いだため、先陣の軍士の阿保丹後守入海が攻撃します。阿保は敵を追い散らしますが、その身は傷をこうむると、尊氏は、その恩賞として阿保左衛門入道道潭 の家督を拝領させます。これを見た人々は、命を失うことも忘れて勇み戦います。 この合戦を初めとして、同国佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、勢いのある足利軍は敵に留まる余裕を与えず、七度の戦いに勝利して、8月19日に鎌倉に攻め入ります。その間、金刺頼秀も戦死しています。・・・

箱根峠での両軍の戦いは二日間に亘りましたが、足利軍有利とみた地方豪族の離散により、諏訪軍と僅かな北条軍は、ついに鎌倉へと敗走。諏訪頼重は、「北条軍破れる」と聞いて、諏訪神家党を主力としてみずから出馬します。北条軍は怒涛の敵軍に一気に呑み込まれます。

北条時行は逃走。諏訪頼重・時継父子以下は自害。この時、諏訪頼重以下四十三名の諏訪武士は、時行を無事に逃がすと、その再挙を願い、ここ鎌倉の大御堂・勝長寿院(鎌倉市雪ノ下4丁目、現存なし) で、”時行も同時に死んだ”と偽装するため、顔を潰し見分けが出来ないようにして自害します。

北条再興の夢は、25日間の鎌倉支配で消えました。
時行は、北条氏の旧領・伊豆に逃れます。その潜伏中、後醍醐天皇が尊氏と決裂すると、後醍醐方として伊豆で挙兵します。

鎌倉期の領国のこと ・・・車山レアメモリーより
・・・「謀反人の遺領は、鎮圧者に与えられる」
これが中世社会の基本律です。鎌倉幕府草創期の頼朝は、平家追討の賞として、五百ヶ所にも及ぶ平家領荘園の本所、領家を引き継ぐ。鎌倉時代、最大の荘園領主は鎌倉幕府でした。将軍家が本所、領家であった荘園は、既に女院領や摂関家の荘園群を上回る規模でした。鎌倉幕府が荘務権を行使する幕府領荘園は関東御領と呼ばれ、特に相模武蔵駿河越後四ヶ国を知行国として支配していました。これを関東御分国といい、特に相模武蔵駿河、の三ヶ国は、国衙領、荘園共に関東御家人の本領で埋め尽くされていて、朝廷の介入の余地はなかった。またこの三ヶ国の荘園は地頭請がほとんどで、地頭が現地を支配し、荘園領主はそれに介入できず年貢を受け取るのみでした。関東御分国の国務は、相模国が政所、越後国が正村流北条氏が携わり、そして武蔵駿河両国は、泰時、時頼、時宗と北条得宗家当主の事実上の分国でした。
 信濃国は文治元年(1185)には、既に頼朝が直轄する知行地となっていました。それを北条氏が受け継ぎ、その守護職を六波羅探題や連署をつとめた義時の三男・北条重時とその子孫が歴任します。守護は国内の要衝地の地頭を何ヶ所か兼ねるのが通常です。特に国衙周辺や他国との境界領域の奥郡などです。筑摩郡浅間郷、埴科郡船山郷などが守護地頭地でした。また国内の大荘園の殆どは、北条氏一族が地頭でした。信濃国内の諏訪氏をはじめとする武士団の多くは、その現地荘官として、或いは北条氏地頭代として地方領主的権威を得ていたのです。
 諏訪上社・下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。毎年社頭で催される流鏑馬は信濃国内の地頭御家人がこぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴四年(1329)の御射山祭の記録には、十四・五番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず「鎌倉中;鎌倉内に在住を許された幕府草創以来の名族御家人」の有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。・・・

時行の「中先代の乱」が失敗に終わると、後醍醐天皇・足利尊氏の「建武の政権」内に亀裂が起こり、権力構造が変化していきます。 ・・そんな時、時行はどうしたのでしょうか?
これが、次回のテーマです。


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