探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

京都小笠原家 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-26 00:01:55 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  京都小笠原家  ・・様々なる小笠原支流 

 

京都小笠原家

小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であった(疑問もあり)。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。
京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。六代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。
なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、長高が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである。
なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。

京都小笠原家の系譜

小笠原宗長-貞長(京に住む・戦死)-長高(奉公衆・京都小笠原家)-氏長-満長-持長-持清-政清-尚清-稙盛-・
  ・秀清流・秀清(細川家家臣)-長元-長之-長英-長知-長軌(長衛)-長宗-長頭-長視-長供-長厚 ・家老
  ・元長流・元長(後北条家家臣)-允康-元続-康広-長房-長真-・

京都小笠原・宗長以前・・・小笠原氏は京の都にも足跡を残している。
・初代小笠原の長清は、元服後は京の六波羅に居て、当時権勢だった平家の平知盛に仕えていた。また後年清水坂の下に長清寺を建てた。・・現在京都では確認出来ない。小笠原家の祖の縁の長清寺は、飯田と小倉に現存する。
・嫡子・長経は六波羅で生まれ、六波羅探題の評定衆となった。その子長房は長清の養子となって阿波国守護となり、三好氏の祖となった。
・小笠原貞宗・・京に足跡が多い。貞宗は鎌倉滅亡から室町成立までの戦乱を足利尊氏とともに行動。その結果貞宗は“信濃守護”となり信濃の松尾や井川を居館とした。康永三年(1344)、家督を政長に譲った後は、隠居して京の四条高倉に住んだ。貞和三年(1347)没・・法名「開善寺入道泰山正宗大居士」。・・辞世の句・地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな・。家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」・(笠系)。墓、京都の建仁寺の塔頭“禅居庵”。
・・建仁寺・・京都五山第三位の建仁寺は、日本に臨済宗を開いた明庵栄西が建立した最初期の禅寺である。後に曹洞禅を伝えた道元もここで修行した。・・この両者によって鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、室町時代になって、禅僧が最新の知識人として公家に代わるブレーンとして将軍家をはじめとして武家と深くつながった。そのことにより、禅は礼法をはじめとする室町武家文化に決定的な影響を与える。・・政治的に公家と決別した側の糾法の宗家小笠原貞宗にとっても、禅は新しい時代の新しい発想をもたらしてくれた。 貞宗にとってその禅僧とは清拙正澄(大鑑禅師)である・・「禅と礼法」。そしてその禅師が住持を務めたのがここ建仁寺。
・・摩利支尊天堂・・その建仁寺の塔頭禅居庵は非公開だが、実際に墓があるのは禅居庵の中で公開されている摩利支(尊)天堂、入口が別で、参詣者の出入は自由。・・ここ摩利支天堂は、禅の修行場でなく民間信仰の場。・・実は貞宗も摩利支天を信仰していた。摩利支天とは、観音菩薩が人々救済で姿を変えた応化身の一つであるが、武家には武の神とされていた。貞宗は、鎌倉幕府滅亡・南北朝の動乱で活躍する武将の一人であり、その戦乱に参戦している。だから武の神の守護を期待していたのであろう。
・・小笠原家の礼書『仕付方萬聞書』・・「十月のいのこを祝ふ事…中略…猪は猛獣なり。摩利支天の使者と云。其上、子を繁昌するもの也。武家に祝うべきもの也」とあり、摩利支天より猪の方が信仰の対象だったかもしれない。・・小笠原氏の故郷の甲斐駒ケ岳は、その南面に「摩利支天」という怪峰がある。・・建仁寺に入った歴代渡来僧の最高格の清拙正澄(大鑑禅師)も、摩利支天を自身の守護神としていた。・・この摩利支天が貞宗と清拙正澄の縁を取り結んだのか。・・建仁寺禅居庵の摩利支尊天堂は、両者の結縁の場であり、貞宗が開基・清拙正澄が開山となっている。
・・貞宗の墓・・その摩利支尊天堂に貞宗が眠っているという。・・奥に石鳥居の立派な五輪塔が貞宗公の墓。・・貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓は、ここの開山の墓だという。清拙正澄(大鑑禅師)の墓でしょうか。・・貞宗が新たに武家礼法を構想できたきっかけは(弓法を知っていたからでもあるが)、禅の作法である清規を日本に伝えた清拙正澄の影響があったからだ。・・貞宗は建仁寺禅居庵に長清碑を建てたという・(未確認)。

初代小笠原の長清は、元服後は京の六波羅に居館を持ち活躍した。以後、小笠原家は、京の居館を拠点として活躍したと思われる。

貞宗公以降も小笠原氏と京都との関係は続く。・・貞宗の後では、明徳三年(1392)、長秀が義満の相国寺・落慶供養で、先陣隋兵の一番を勤めた。また長秀の兄長將の子持長は府中で惣領職を主張する前は、京で将軍の奉公衆だった。・・持長だけでなく小笠原氏には足利将軍の近習の家系がいた。信濃守護家の子弟は、幼年から青年まで幕府に仕えるものが多かった。

そのうち貞長が「京都小笠原家」を構えた。「京都小笠原氏」といい、貞宗の弟貞長が祖である。

 系譜・小笠原宗長-貞長(京に住む・戦死)・
 -長高(奉公衆・京都小笠原家)-氏長-満長-持長-持清-政清-尚清-稙盛-・

・・京都小笠原氏は貞長の子・長高を経て孫の氏長から備前守となる。
・満長を経て持長の時、永享二年(1430)将軍義教の"的始め"で剣を下賜された。
・持長は、京都小笠原家にもあり、同姓同名で混同されがち。
・その子持清は、嘉吉二年(1442)将軍義勝の弓術師範となる。“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという説もある。
・そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。
・乱後、幕府が衰微すると、元続は小田原北条氏に仕えるようになる。

・・・京都小笠原家の経済的基盤の所領は岡山にあった。・・備前国邑久郡鹿忍(岡山県牛窓町)・藤井庄(岡山県岡山市)を所領とする。
・・・室町幕府奉公衆京都小笠原氏の一門。京都小笠原氏は信濃守護小笠原氏の庶流家で、在京して将軍に仕えた。弓馬の実技・故実に精通し、伊勢氏と並ぶ武家故実の大家として名を得ている。嫡流家は代々民部少輔・備前守を称し、将軍の弓馬師範を務めた。備前国に地盤を得た一族は代々六郎・兵部少輔・播磨守を名乗り、戦国末期には関東の戦国大名後北条氏に仕えて名を残した。後北条氏滅亡後徳川家康に召し出され、旗本として近世を生き延びている

*小笠原元長 永享五年~文亀三年(1433~1503)。
六郎、兵部少輔、播磨守。入道して宗長を名乗る。実名「元長」。京都小笠原氏の宗家備前守持長の次男・・康富記。少年期より父や兄に従って幕閣周辺の犬追物に多数参加し、実技と作法(故実)を学んだ・・康富記・犬追物日記など。弓術を通じて諸国の国人と親交深く、陶弘護・小早川弘景・六角政綱・斎藤利綱らに弓馬故実を伝授。備前守護赤松政則の催した犬追物に審判として招聘されたこともある・・蔭凉軒日録。将軍の師範として幕府儀礼を主導した宗家と異なり、元長は地方武士への故実普及に大きな役割を果たした。鹿忍庄、藤井庄など備前国邑久郡沿海地域に所領を集積し、文明九年(1477)には藤井庄のことで幕府法廷に訴訟を提起している・・結番日記。幕府奉公衆として長享元年(1487)の足利義尚の第一次六角征伐、足利義材の第二次六角征伐ほかに参戦し、義材より備前国内で所領の加増を受けた・・長享番帳など。また、所領内に存在する大船山宝光寺(牛窓町)の大檀那として仁王門を寄進している・・宝光寺文書。文亀三年(1503)没。墓は宝光寺。七十一歳。法名は正見院殿久庵長公大居士


元長流・元長(後北条家家臣)-允康-元続-康広-長房-長真-・

その後北条氏だが、初代北条早雲(伊勢宗瑞)は小笠原元長(元続の祖父)の娘を妻に迎え、彼女は北条二代目氏綱の母となる。そして早雲は伊勢氏の出であり、京都で幕府の申継衆(取次役)をやっていて、妹を駿河の今川家にやり、自分も今川に仕えた。・・また今川義元の子氏真は、三代北条氏康の娘を妻にし、のち氏康を頼る。・・小笠原・伊勢・今川が当時の三大礼式家でり小田原北条氏はその三家の礼法を統合できる位置にあった。…司馬遼太郎も早雲を主人公にした『箱根の坂』で同様な事を述べている。

後北条家の小笠原氏・・・

小笠原允康
元長の子。六郎、兵部少輔を称す。実名「允康」は「備前本蓮寺文書」にみえる。長享元年(1487)足利義尚による近江守護六角氏征伐の際、父元長と共に参戦・・長享番帳。元長没後、家督と備前国内の所領を継承。永正七年(1510)、知行の備前国鹿忍庄で、代官職をめぐる浦上助秀と馬場長真の争いが発生している・・備前本蓮寺文書。永正八年(1511)に義澄が没すると、子の足利義晴に従って、播磨・備前・美作の赤松義村を頼った。

小笠原元続
允康の子。六郎、兵部少輔を名乗る。実名「元続」。幕府の衰退に加え、備前国での地盤だ不安定のことから、関東に下向。北条氏綱に弓馬師範として保護され、相模国飯泉郷(小田原市)を在宿料所として給与された・・北条五代記。以後、後北条氏のもとにあって伊勢貞辰と共に幕府とのパイプ役を務めた・・『大館常興日記』他。天文八年(1539)、将軍足利義晴が北条氏綱に大鷹を贈った。義晴は小笠原元続にも御内書を与え、元続から氏綱に幕府の意を伝えるよう命じている・・室町家御内書案。

小笠原康広 享禄四年~慶長二年(1531~1597)。
元続の子。六郎、兵部少輔、播磨入道を名乗る。実名「康広」。有名な『小田原衆所領役帳』・・永禄二年成立・・にみえる「小笠原六郎殿」は康広のである。。北条氏康に仕え、偏諱を与えられただけでなく、氏康の娘と結婚するなど準一門の待遇を受け、武者奉行を務めた。天正二年(1574)、子・長房に家督を譲渡したが、以後も活動。天正十一年(1583)徳川家康の娘督姫が北条氏直に嫁いだ際は、北条側の使者として徳川氏と応対。天正十八年(1590)の小田原開城後、北条氏直に随行して高野山に入った。氏直没後、加々爪政尚を介して徳川家康の臣下となる。

永禄の変の後、京都小笠原家の一部は、細川家に仕える者もいた。

・秀清流・秀清(細川家家臣)-長元-長之-長英-長知-長軌(長衛)-長宗-長頭-長視-長供-長厚 ・家老

子孫・・キリシタンの系譜

秀清の子息らは、細川忠興の近親などと縁戚を結び、家老職を歴任した。
・嫡男長元(長貞)には、忠興の姪で吉田兼治息女たまが嫁した。子孫は知行六千石。藩主一門と婚姻を重ね、備頭・家老などの要職に就いた。
・三男長良(宮内)には、藤孝息女で長岡孝以室であった千が再嫁した。キリシタンであったが棄教した。
・次男長定には、細川家重臣の加賀山隼人正興良の息女みやが嫁した。興良はキリシタンで、元和五年(1619)10月15日小倉で殉教。
・一族の玄也一家もキリシタンであり棄教を迫られ続けたものの、その後も長らく秘匿されていた。細川家の移封に従い熊本に移るが、長崎奉行への密告があって幕府に露見したため、寛永十二年12月22日(1636)、熊本禅定寺において家族・従者と共に殉教した。
・少斎が介錯したガラシャの嫡孫にあたる長岡忠春の正室には、少斎孫にあたる長之の娘三が選ばれた。
・第六代当主・小笠原長軌は、細川宣紀の娘・津與姫を妻に迎えている。

逸話・・・

小笠原秀清は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・故実家。室町幕府幕臣・細川氏家臣。一般には小笠原少斎の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。・・関ヶ原の戦い以前・・・16世紀中期、小笠原稙盛(稙清)の子として出生。生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に信濃小笠原宗家から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父の稙盛は足利義輝の近習であったが、永禄八年(1565)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した。秀清は変の後に浪人となったが、後年丹後国で細川藤孝の客分となり、500石を給された。後に剃髪して少斎と号した。・・慶長五年(1600)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、河喜多、石見一成、稲富祐直らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興正室・玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上重ねて要求のあったときには自害すると決定した。翌17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、河喜多らと共に自害した。稲富は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。

 



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