探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正直君の生涯・・・物語風10

2013-08-30 14:19:27 | 歴史

保科正直君の生涯・・・物語10

保科正直、高遠城奪還から多古城城主まで

この章は、保科正直が高遠城を奪還して以降、小田原の役の後、家康の関東移封に伴い、多古城の城主となるまでの、矛盾と辻褄を考えたいと思います。1582年から1590年までの8年間の出来事です。

まず、高遠城奪還以降を時系列に追って見て見ますと、

・天正十年(1582)家康が甲斐に進軍し北条と対峙する時、徳川に味方を、酒井忠次を通じて告げ、家康より感状を受け、伊那の半郡の二万五千石の御朱印で、高遠領主。
・・・・この時、多くの歴史書に、保科家が高遠城を奪還と記しています。過去に保科家が高遠城城主であった歴史は観ていませんが、何故か地元では違和感がありません。調べてみると、蕗原拾葉の古書に、”高遠一揆衆は、協議の上諏訪家より城主を迎えた”とあります。高遠頼継より3,4代前の頃の話です。これを信じると、高遠頼継の系譜は、借り物、飾り物と見ることも出来ます。この高遠一揆衆の筆頭は、保科家であったようです。

・その後、藤沢頼親が家康に反旗する時、頼親を滅ぼす。
・・・・天正十年(1582年)、藤沢頼親は、上洛して三好長慶に仕えたいたが、長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城としていた。武田氏、次いで織田信長が滅ぶと北条氏直翼下を企図するが、小笠原貞慶が松本を回復せんと三河国より伊那郡に入ったとき、これに従軍し、貞慶は松本城に入った。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。

高遠城を取り戻した保科正直は、まず焼け落ちて荒廃した城の再建を計ったと見て良い。同時に離散した保科家の家臣の呼び戻しに、注力したと考えるのも当然である。だが、ここの部分の記述を資料から見つけることはできない。城の再興と家臣団の再構築が、不完全ながらなる頃、正直は、家康から直参として三河への出仕を命じられる。また高遠城再構築の天正10-11年に、正直の妹の嫁ぎ先の大日向家より嫁を貰って、正重が生まれている。・・大日向源太右衛門女=法名光寿院。後に家康から正妻多古姫を娶ることになり、側女で一生を終わる。保科正重(1583?-1636)・・生年は不確実。

保科正直は、家康の命じられて、三河に出仕するわけだが、時期は天正十一年(1583)から天正十二年始めにかけての頃と思われる。出仕に伴い、屋敷と領地が与えられたと言われる。・・安城市山崎町大手(正法寺)。この時松平元康麾下にいた。
・・この頃の家康の動向を見てみると、天正十一年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いで、信長次男の信雄を擁立して、柴田勝家に勝利したが、やがて信雄と秀吉の関係は険悪化し、信雄は徳川家康と同盟を結んだ。これを機に、信雄と家康は秀吉と対立するようになり、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。これが小牧長久手の戦いと呼ばれる。
保科正直は、この小牧長久手の戦いの戦闘準備で呼ばれたと考えて良さそうだ。実際に小牧・長久手の戦いが起きると、家康は正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を秀吉側にいた木曾に派遣したが木曾攻めは充分な成果を上げれず、正直を抑えに残して撤退した。
・・天正十二年(1584)家康より多却姫を正室に迎える。多却姫は家康の妹。・正直は多却姫との間に二男四女をもうける。多却姫は正直より11歳年下。
・・・栄姫(大涼院)・1585年生まれ。黒田長政室。
・・・清元院。安倍信盛室。
・・正貞(1588-1635)。上総飯野家初代藩主。
・・・貞松院(1591-1664)。小出吉英室。
・・・高運院。加藤式部少輔室。
・・北条氏重(1595-1658)。北条氏勝の養子で後に相続。

ここまでで、なにが不思議で矛盾し、なにが語られていないか見えてきます。三河の郷土史家も、高遠の郷土史家も語っていません。勿論筆者が知らないだけかも、の危惧はありますが、
・正直が三河に出仕の間、誰が高遠城を守っていたか。
・多却姫は、安城市山崎町に住んだ後、どこに住んだか。高遠には来た形跡がありません。
・多却姫と正直の子らもどこに住んでいたのか。
・正直の側女になってしまった大日向源太右衛門女と正重は、どうなっているのか。

資料が見つからないのであれば、想像でこの部分を繋いでいきます。
・正直の出仕中、高遠城は引退していた父の正俊と、子の正光が城を守ります。壮健の保科家臣団は、当然正直に付き添い随行していたと思われます。小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が鉾持除の戦いで退けたことを考えると、その可能性はあるように思います。正光は、小田原北条征伐には、父とともに参陣していますから、それまでは高遠にいたと思われます。
・多却姫は、高遠城にも多古城にも、いた形跡が残されていません。三河安城に住めなくなっていたので、正直江戸屋敷に、子供と一緒に住んでいたと思われます。
・大日向源太右衛門女と正重は、高遠・多古・高遠と保科家及び家臣団とともに行動していたと思われます。正重の室は、正俊の子の正勝の娘です。大日向の家系の系譜が、保科家から抹消されるのは、保科正光が、将軍の子の正之を養子に迎えてからのことです。嫡子の痕跡を消すことをされますが、経済的に放り出された訳では無いようです。正貞の場合と少し違う様です。
・・・・・この項は、想像をもとに組み立てています。

十三年(1585)上田の真田昌幸を攻めるが落とせず退却。
・真田昌幸は、家康と後北条の講和で、真田領の沼田を、家康が勝手に後北条側へ渡すことを約定し、家康側から離反して反旗を翻します。家康は、これに懲らしめの出陣です。保科正直は家康に従って出陣しますが、仲間で親戚の真田への攻撃は、かなり複雑だったと思います。この上田戦役は、多勢に無勢の、少数派の真田が頑強に抵抗し、家康は兵を引きます。

この年十二月三日、小笠原貞慶が高遠城を攻める。*軍役で留守をしていた正直に替わり、隠居していた正俊が無勢ながら防戦して打ち破った。鉾持除けの戦い。
・石川数正が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が12月3日に高遠城に攻撃をかけるが、父保科正俊が鉾持除の戦いで退けた。

天正十七年(1589)に豊臣秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を努めた。

と、ここまでが本項の主旨ですが、関連があるので高遠城帰還まで簡略に記します。

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天正十八年(1590)小田原の陣。
・真田の沼田領を巡っては、真田と家康との間に不和を生じ、更に後北条からの圧力があったため、真田は秀吉に訴えて、秀吉が調停した後、さらに後北条が、真田の沼田領を押領しようとしたため、秀吉は小田原攻めに踏み切ったという。保科正光はこの時参陣したという。

同年(1590)家康の関東入部。
保科正直、家康に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた。

天正十九年(1591)九戸の一揆に参陣する。

文禄元年(1592)、文禄の役(朝鮮出兵)九州へ出兵。この時正光(当時32歳)も同行。
この時正直は体調を崩して、正光に家督を譲り決意をし、井伊直政に相談し、家康から相続を許される。

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦。保科正光参戦。
同年、保科正光、旧領の高遠城主で帰還。25000石の徳川大名になる。

慶長六年(1601)保科正直高遠で逝く。享年六十六歳。高遠建福寺で眠る。

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不思議なのは、保科正俊が、鉾持除けの戦い以降、歴史資料から忽然と消えます。保科正直とともに、多古城にいった資料はありません。行ったとも思えません。戒名も無ければ墓もありません。会津藩の資料に、正俊と正則の死亡の期日がありますが、年齢を推定して考査すると資料の偽造の可能性が感じられます。このことを”フレイムワーク”と言いますが、何のための”フレイムワーク”なのか見当もつきません。

それとともに、保科家に翻弄された、安曇野の大日方家の人達が、頭の隅に強く焼き付いています。

これで、高遠城奪還から、家康関東移封に伴った多古城主までの、保科正直の空白は、少し埋まったのではないかと思っています。


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