探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

2014-10-30 00:40:53 | 歴史

研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

武田信虎と工藤虎豊

工藤虎豊(くどう とらとよ)
 ・・・子:工藤昌祐、子:内藤昌豊(昌秀とも)

略歴
・1490年(延徳二年)、武田氏家臣・工藤祐包(すけかね)の子として生まれる。
・1507年(永正四年)、甲斐武田氏当主武田信縄が労咳で病死すると嫡子信直(後の信虎)と叔父油川信恵との間で家督争いが起き、虎豊は小山田弥太郎と共に油川方に与した。
・1508年(永正五年)、信虎が信恵を奇襲で討ち取ると降伏して帰参を許されている。以降信虎に仕え、その一字を賜り虎豊を名乗る。
・1536年(天文五年)、駿河で今川氏親が病死し、嫡子栴岳承芳(後の今川義元)と庶子玄広恵探との間で家督争い(花倉の乱)が起き、敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。
・虎豊の死後、嫡子昌祐は一族を率いて甲斐から脱して一時工藤家は断絶。次子祐長(後の内藤昌豊)が甲斐に戻るまで諸国を流浪したという。 …上記wikipediaによる

 ・・天文五年(1536)、この年は、甲斐武田家にとって激震が走った年である。
 ・・・海ノ口城攻略戦(1536年). 武田軍 (兵数 8,000). 総大将を武田信虎として、武田晴信. 海ノ口城 (兵数 3,000)を攻撃する。海ノ口城は総大将を平賀源心として向討つ。 戦況は、信濃国侵略を狙う武田信虎は、 天文四年(1535)に諏訪氏と同盟を結んだ上で、 天文五年(1536)11月、怒涛の勢いで海ノ口城を攻撃する。しかし、海ノ口城は城塞が強固の上、平賀源心が剛の者で、無勢ながらよく戦い、膠着状態に陥った。季節は冬にさしかかり、雪が舞い始め、野営の遠征軍には悲惨な状況になったという。年の瀬と正月を間近に控える時期なると、両軍ともに厭戦気分が蔓延し始める。どちらかと言えば、甲斐武田軍の方が、戦意が無くなっていたと見える。ここで、信虎は、撤退を決意して退却をすることになった。
 ・・・この時、初陣が信虎の子・晴信(=信玄)であった。武功を望んだ晴信は、信虎に、執拗に殿を申し出て、根負けした信虎は、晴信にを300与えて殿軍をまかせた。
 ・・・この撤退の様子を確認した海ノ口城の平賀源心以下の佐久軍もまた厭戦が漂っていた。援軍もまた遠征してきていた。正月を自分の居城で過ごしたいのは、甲斐軍と同じである。援軍の主力部隊は、須坂の井上一族である。井上軍は、甲斐武田軍の撤退退却を見届けると、須坂へ帰っていった。残ったのは、平賀軍の500、半ば祝勝気分で宴会し、戦意は薄れてしまった。
 ・・・この弛緩してしまった海ノ口城の平賀軍へ、晴信の殿軍が、踵をかえて襲いかかったのである。こうして勝利した甲斐・武田軍は、次期嫡子・晴信が初陣を飾り、武田軍の中で次期頭領としての信頼を太くしていったのである。
 ・・・この時、逆に、海ノ口城・平賀軍と佐久軍が、なぜ追撃しなかったのか?追撃していれば、戦局は大きく変わっていたように思う。武将としての資質の問題はあるが、戦局としては、500対300の局地戦であり、戦況に大きく響く問題ではない。
 ・・・しかし、ここで武田信玄の偶像が生まれる大きな切っ掛けになっていった。甲斐・武田家として見ると、象徴的な出来事だったわけである。

花倉の乱(今川家の内乱)
 ・・乱の発端は天文五年3月に今川氏輝が24歳の若さで急死したことに始まる。さらに同じ日に氏輝の兄弟である彦五郎も死去。2人の兄弟が同時に亡くなったことで今川氏の家督をめぐって危機的な状況が生じました。
 ・・・氏輝には子がなく、家督候補として2人の弟が挙がる。
一人は今川義元で、母親は氏親の正室。彼には養育・補佐役として臨済宗の僧であり軍師としても名高い太原崇孚雪斎が付いており、正室の子である義元が家督継承者としてもっともふさわしい存在。
その義元と争ったのが異母兄の今川良真です。母親は今川氏重臣である福島氏の娘。当時、良真は遍照光寺の住持で、「花蔵殿」・「花蔵」と表記されています。
2人の後継者候補と双方を推す2分した家臣たちによる駿河国内の勢力争いが花蔵の乱。
 ・・・花蔵の乱については、今川館のあった駿府周辺や由比城などで両軍の戦いが行われており、乱の最終段階は花倉城が落城し、瀬戸ノ谷に逃れた恵探たちは本郷の亀ヶ谷沢で自害し乱は終息しました。

 ・・・敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。

この花倉の乱は、海ノ口城攻撃に先立つところの四月頃。それまで、信虎の武田軍と今川軍は、度々戦いをしており、今川軍に殺された武田家臣も居たところから、独断で今川義元に肩入れすることに危惧を抱いていたのが、武田家臣団の大勢であった。そして、信虎への諫言に対して勘気で殺害された工藤虎豊にたいして、同情していた。
この、信虎への反感・心情を共有していた武田家臣団は、一挙に晴信擁立に動いたのだ。

 ・・・天文十年(1541)6月、武田晴信が父・信虎を追放しました。

武田晴信と工藤虎豊の子・昌豊・昌祐兄弟

・天正十五年(1546)、昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。

この時、武田晴信を取り巻く重臣は、工藤虎豊と同様に、花倉の乱の時、信虎を諫めて、信虎の勘気で殺された武田家臣の子が、多く占めていた。
 ・・・信虎を諫めるなどした内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊を自ら斬り殺しています。内藤虎資は家系断絶、工藤虎豊は子孫追放、馬場、山県の子は晴信の側近。
 ・・・武田晴信は、花倉の乱に、断絶した、あるいは追放した家系を、馬場や山県らと復権したと見て良い。これが、天正十五年の武田晴信(信玄)の最も重要な仕事であった。

工藤兄弟の名前の確認
 ・・兄・祐元 別名:昌祐、昌裕、籐七郎
  官名:長門守     武田信廉に仕える
 ・・弟・祐長 別名:昌豊、昌秀、源左衛門
  官名:修理亮、下総守 武田晴信(信玄)に仕える:内藤に姓を変える

年譜
 ・・ 1536年、工藤虎豊が、武田信虎の勘気で殺害され、子息は甲斐から追放される
 ・・ 1546年、武田晴信が、放浪の工藤子息二人を呼び戻し、工藤家を復権させる
 この間10年 ・・・工藤兄弟は、
 ・・ 相模・伊豆を放浪していた、とあり
 ・・ 関東周辺を放浪した、と言う説もあり
 ・・ 海の近くに住んだ、ともいう。

以上、上記までが史歴に残された情報であるのだが、さてさて、どうも工藤家の歴史を繋いでいる”祐”の通字が気に掛かる。

 ・・・”祐”の通字は、鎌倉期初期の「曽根物語」にでてくる敵役の工藤祐経(すけつね)に通じる、名跡・工藤家の通字の”祐”である。

 ・・・この、工藤祐経の子孫は、「犬房丸伝承」があり、伊那に配流され、伊那の何カ所かに、その痕跡が残る。例えば、大草、神稲・林、伊那・狐島、箕輪・小出などなど。ただ、犬房丸伝承は日本各地に残り、伊那に足跡を残したという史実も、証左とする資料の少なさから、一部に疑問があり、断定されるに至っていない。従って工藤(宮藤)家の血流が繋いだとする説も若干疑問が残る。
 ・・・通常、領主に放逐された場合、その領主の影響が及ばない親類を頼るのが常では無かろうか、と思う。そうすると、信州伊那のどこかにも、隠れ住んだ可能性が出てくる。この時、信虎から隠れたのであって、伊那のどこかでは、その地の領主からは身を隠す必要はない。
 ・・・工藤兄弟が、かっての武田家臣へ帰参する切っ掛けとなったのは、板垣信友の斡旋に拠るところという史実が残るという(・・当方未確認)。
この頃の板垣信友の事跡を、『高白斎記』から辿れば、・・・高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は、天文十二年(1543)、信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、上原城を整備して入部。諏訪・佐久両郡に所領宛行を行っている(「千野家文書」)。諏訪支配を担当した信方の立場は「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされている。・・天文十四年(1545)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した。・・・
板垣信友が、諏訪、高遠、箕輪を郡代として支配した天文十四-十五年(1545-1546)に、これらの地域の中に、工藤兄弟が居住していたところを発見し、晴信に帰参を進言したのでは無かろうか。板垣信友が、工藤兄弟を見つけ出す経緯は、高遠・箕輪での戦乱と支配の中でしか考えられないのである。 ・・・これは、工藤兄弟の帰参を強く進言した板垣信友が、諏訪・上伊那地方を、郡代として統治した時期と領域と、工藤家の姻戚関係者がこの地方に散在していたという事実から、導き出された推論である。
しかも、時(1546年)を同じくして、武田晴信の家臣となった、保科正俊と工藤祐長・祐元兄弟は、旧知の如く、姻戚の如く交流した事跡が史実に残っている。極めつけは、正俊の子・昌月が、内藤(工藤)昌豊の養子になる事跡である。
こう考えると、工藤昌豊兄弟は、保科正俊と同盟するの藤沢氏の勢力下であった箕輪に隠棲していて、その頃から旧知の仲であったと考えるのは、あながち突飛な着想ではない、と考える。そうでなければ、あのような両家の交流は生まれなかったのではないだろうか。
 ・・・甲斐を追われた工藤兄弟は、相模や伊豆に行ったのかも知れないが、晴信に呼び戻される前辺りは、箕輪や諏訪の工藤の同族を頼って、箕輪か諏訪に住み着いていたのでは無かろうか。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
RE:工藤家 (押田庄次郎)
2017-03-07 18:19:31
”おくちゃん”、今日は!押田です。

記事に興味を持っていただいてありがとうございます。
工藤家と群馬県の関係は、工藤家の同祖:内藤家が厩橋(今の高崎)を領有した時代がありました。
その後、内藤家は、会津松平(保科)家と彦根:井伊家と長野県佐久に分離します。
そのいずれかの流れが、旧名を名乗って、”甘楽郡”周辺に居ついた可能性はありますが、
歴史的証左は残っていません。
「もしや・」が歴史的な証拠を見つけ出すこともあり、それはそれで、楽しいものです。
機会があったら、またお寄りください。
返信する
Unknown (おくちゃん)
2017-03-06 19:04:49
興味深く拝読させていただきました。
というのも、群馬県南牧村にて、工藤さんが数軒いらっしゃいまして、工藤姓というと東北が多いのかと思うのですが、なぜにこの山間にいらっしゃるのだろくなとふとおもうことがありまして。わからないのですがもしや…と、楽しくなりました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。