探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原定基  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-02 02:59:52 | 歴史

  松尾 

  小笠原定基

---------------------

小笠原定基(貞基、定忠)

生没年:
父:松尾城主 小笠原家長
正室:?-1534 
子:貞忠、信貴 

*小笠原貞忠・・府中・小笠原貞棟により戦死(1534)

----------------------

小笠原定基

定基は、どうやら信濃守護にはなれなかったようだ。


文明十二年(1480)、鈴岡小笠原政秀によって父・家長が戦死。以後定基が、松尾小笠原家を継ぐ。小笠原家長の子、光康の孫。松尾城主。明応二年(1493)、鈴岡小笠原政秀を討つ。小笠原定基は、小笠原政秀の正室が持って逃れた・代々伝わった足利家の文書・家宝を手に入れようとしたため、小笠原長棟と激しく争うこととなる。天文年間初期、小笠原長棟に敗れた。

歴史・・・
・文明5年(1473)足利義政は松尾家長と定基に鈴岡政秀と合力するように指示
・文明11年(1479)鈴岡政秀と諏訪の連合軍が松尾小笠原家長・定基軍と対峙
・文明12年(1480)鈴岡政秀と松尾家長が伊賀良で戦う
・長享2年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
・明応2年(1493)松尾定基は鈴岡政秀父子を松尾城に近く、名古熊に招いて殺害(知久氏と連合で滅ぼす)
・文亀元年(1501)尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請
・永正3年(1506)北条早雲の要請に応えて松尾定基が三河に出兵
・天文2年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?武田を頼って逃避)
・天文3年(1534)府中長時の弟の信定が鈴岡城主となっている

生涯・・・
松尾小笠原定基は伊賀良庄を領し、南信濃の実力者としての地位を確保していた。同年、尾張守護の斯波義寛が定基に遠州鎮定の協力を求め、三月には敵に味方しないようにと念を押した書状を出す。永正三年(1506)の三月、駿河守護の今川氏親が小笠原定基へ書状を送り、三河の戸田憲光兄弟が敵方に内通したが、協力しないように、と依頼している。
・・永正三年(1506)九月、伊豆の北条早雲(=伊勢長氏、通称新九郎、宗瑞)が、子供の氏綱や三河の戸田憲光とともに同国今橋(豊橋市)城主牧野成時を攻めるに際し、誼を通ずるために戦況を定基に知らせ る。さらに、九月にも早雲は使者を派遣して定基に協力を求めてる。このため十月、定基も三河の横林へ兵を出している。小笠原定基は十六世紀の前半に、信濃の実力者として隣国の大名から協力を求められるほどの力を蓄えていたのです。
・・・府中小笠原氏は明応二年(1493)に松尾小笠原氏とともに、鈴岡小笠原氏を攻めて、事実上これを滅亡させた。このため、小笠原の惣領職をめぐって松尾と府中が争うことになったが、長朝の時期には平静を保っていた。長朝は永正十二年(1515)六月に亡くなり、長棟が跡を継承。長棟は天文二年(1533)七月、五百騎ばかりで伊那に着陣して、知久頼元や高遠頼継の軍勢と戦って勝利し、八月に頼継と会見する。その後、長棟は府中に戻ったが、八月に再び伊那に出兵。この一連の軍事行動で明らかなように、当時の府中小笠原氏はその勢力を下伊那にまで及ぼそうとしていた。
・・・天文三年(1534)前後、長棟はついに松尾小笠原氏を圧倒し、政秀伝来の小笠原文書をも手に入れ、松尾城に次男信定を置いた。この時、松尾の定基は、甲斐の武田の元に逃避している。府中小笠原氏は府中を中心に安曇郡と筑摩郡、それに伊那郡を押さえ、守護職も手に入れたのです。府中小笠原氏は戦国大名への道を歩み始めた。・・・諏訪氏と小笠原氏の関係は良くなかった。天文六年(1537)には、諏訪頼重の軍が塩尻に攻め寄せ、赤木・吉田の辺にまで放火しました。そして、十月には塩尻の城を、頼重の軍が攻め落とした。諏訪氏に呼応して、薄川の谷沿いを領する山家氏は、この年に小笠原氏と戦っています。

 

参考1・・・
「雖未申通候、以事次一筆令啓上候、仍関右馬允無御等閑之由被申越之間、自早雲以一札被申述候、太刀一腰令進覧候、巨細猶重可申入候間、不能具候、恐惶謹言、・・九月廿二日・・弾正忠盛泰(花押)・・謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所」
・・・愛知県史 資料編10「伊奈盛泰書状」(小笠原文書)1506(永正3)年に比定。

=いまだご挨拶しておりませんでした。この一筆をもって啓上いたします。関右馬允が等閑ないようにと連絡してきましたので、早雲より書状をもって申し述べられます。太刀一腰を進覧します。状況は更に重ねて申し入れますので、詳しくは申せません。以上謹んで申し上げます。九月二十二日、弾正忠盛泰(伊奈盛泰)小笠原左衛門佐殿 御宿所

参考2

「雖未申入候、以次令啓候、仍関右馬允方事、名字我等一躰ニ候、伊勢国関与申所依在国、関与名乗候、根本従兄弟相分名字ニ候、以左様之儀、只今別而申通候、諸事無御等閑之由、被申候、別而我等忝存候、以後者、関方同前ニ無等閑候可為満足候、次当国田原弾正為合力、氏親被罷立候、拙者罷立候、御近国事候間、違儀候ハゝ、可憑存候、然而今橋要害悉引破、本城至堀岸陣取候、去十九卯刻ニ端城押入乗取候、爰元急度落居候者、重而可申展候、仍太刀一腰作助光金覆輪進候、表祝儀計候、此旨可得御意候、恐々謹言、九月廿一日、宗瑞(花押)、謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所」・・・愛知県史 資料編10「伊奈盛泰書状」(小笠原文書)
・・・北条早雲は信濃の小笠原定基へ書状を送っている。ただの戦況報告ではない。小笠原定基に協力を求めるためであり、事実、定基はのちに三河へ兵をだした。北条早雲は足利幕府の奉公衆である小笠原政清の女と結婚しており、また伊勢氏と小笠原氏は幕府の礼法をつかさどる家柄であることから、関係を絶たない工夫をしたとみるべきである。・・さて、早雲の書状にある、田原の弾正、というのは、渥美半島の田原を本拠とする戸田氏の当主の憲光のことで、豊橋市にあった今橋城(吉田城)の城主である牧野古白と勢力を争い、今川の軍をもって今橋城を奪うという狡猾な計画に、今川氏親と北条早雲をまんまと馮せたのであるから、戦国時代の風景にある陽光と陰翳はそうとうに烈しく深い。

 

date:140302;w8045

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。