7:小坂円忠 そして「観応の擾乱」 <相模次郎物語>
承前・・・「諏訪頼継は諏訪に逃れ、時行もいずれかへ逃れ去ったという」
さて、二人はどうなったのでしょうか?
諏訪頼継のこと
「諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。・・・ 頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。」・・・車山R.Mより
諏訪頼継が大祝になって北条時行の大徳寺の戦いに与した年齢が十二歳、まだ幼年だが、すでに元服を終えている。父の時継、祖父の頼重の、北条得宗家に対する恩義と熱い忠誠心は、幼い頼継にも受け継がれたらしい。しかし時の足利幕府はすでに巨大な権力となっていた。北条時行に対峙する幕府側の、最前線を指揮するのは信濃守護・小笠原貞宗である。大徳寺の戦いに敗れた諏訪頼継を執拗に探索・追討するものは小笠原の手によるものである。諏訪頼継は、広大な諏訪上社の狩り場と言われる神域に隠れた。この神域とは、霧ヶ峰の高原一帯でもあり、高遠から大河原までの秋葉街道沿いの両側の山岳でもある。特に秋葉街道沿いの広域は、言葉では軽いが、赤石山脈の大部分を含み、”またぎ”や”木地師”や”山窩”の領民は”諏訪神”に信仰の厚い氏子であり、捕縛はほぼ不可能に近い。さらに、北条時行の烏帽子親が諏訪頼重と言うことは、時行は、諏訪家一族同様と言うことにもなる。この時行に対する同族意識や愛情は、一人大祝・頼継だけのものだったとは到底思えない。
とすれば、諏訪頼継を小笠原守護から隠したのは、諏訪一族が全体協力したと見る方が筋道が通る。・・・所謂諏訪一族は、幕府に対して、面従腹背だったわけで、諏訪頼継を隠した場所は高遠であった可能性は極めて高い。
とはいえ、幕府に逆らったとして、体裁は諏訪上社の大祝の職は剥奪されて、守護の管理下で、諏訪家庶流の藤沢家の「藤沢政頼」が大祝を継ぐことになった。しかし、面従腹背の諏訪家の神官たちのもとで、新しい”大祝”がうまく行くはずもない。
ここで登場するのが、小坂円忠である。
小坂円忠は、もとは諏訪円忠を名乗ってたが、夢想国師(僧侶)の強力な推薦で室町幕府の被官になっていたのだ。円忠はかなり優秀な文官であったらしい。鎌倉幕府の時も文官であり、頭抜けており認められていたが、その能力を惜しんだ尊氏が強引に尊氏の幕府に登用した。
相模次郎(=時行)を押し立てて建武の新政に立ち向かい、さらに室町幕府が成立するに及んで、特権を剥奪された諏訪上社の経済基盤はかなり疲弊し、さらに大祝を中心とする諏訪社の神事儀式が崩壊寸前の危機を目前にしたとき、小坂円忠は、諏訪上社を現実路線に切り替えるのに一役買ったのだ。文官でありながら、かなり豪腕であったという。
これが、「大祝信重解状」と「諏訪大明神画詞」といわれるものである。・・・「大祝信重解状」は、諏訪家庶流の藤沢家の「藤沢政頼」の大祝は”現人神”にあらず、として解任し、諏訪頼継の弟・信重を大祝にすること。・・「諏訪大明神画詞」は、諏訪上社に伝わる神事儀式を、画と詞で分かりやすく説明し、神事儀式の再構築を計ることであった。・・・この二つにより、諏訪大社が再び軍神としての地位を取り戻し、武士から信仰を集めるようになって行った。こうなれば、室町幕府の庇護下で、経済的基盤と軍神としての立場を確保できれば、諏訪大明神として幕府に逆らう理由は無くなる。こうして諏訪大社は、足利幕府に懐柔されていった。
それからもう一つ、頼継の弟・信重を大祝にした後、諏訪頼継本人を神職から外し、高遠に隠棲させ、諏訪神領の代官に保科氏を宛がい、高遠・諏訪家の経済的基盤の裁量を任せたのも、この時ではないかと考えられる ・・・この部分は推測であるが、以後の代官・保科の立ち位置を考察するとこれ以外には考えぬくい。この保科家は、諏訪家の文明の内訌に活躍する代官・保科貞親の一族に繋がる。しかしこの部分の資料は残っていないようだが、そうだとすれば、保科家は、大祝に付属する代官であって、高遠・諏訪家の代官ではない。この保科が、保科弥三郎に通じるのか、北信濃の保科に通じるのか、諏訪にもともと居た保科か、定かではないが、諏訪頼重と陽動で守護所を襲った保科弥三郎の系流の可能性は高いと思われます。
大祝信重解状
この様にして生まれた、高遠・諏訪家は、上社・諏訪大祝家が現実路線を歩む中、頼重・時継の意志を語り継ぎ、上社本流の意識を持続させ、時折本流への回帰を企てたものと理解します。この部分が曖昧だと、諏訪家庶流の高遠・諏訪家が下克上を企てたとする、底の浅い認識に陥ります。その証拠に、時行に援軍した大祝頼継の名が、何代かあとに、意志の持続として復活しています。・・・諏訪家の家系図の複雑さは、同名を象徴的に何世か後に復活させるところで、ここが理解を困難にさせています。・・(保科家も同様に旧名復活の系図を持ちます)
諏訪大明神画詞
小坂(諏訪)円忠 ・・・車山R.Mより
中世以前の諏訪神社と諏訪地方の記録は少ない。「大祝信重解状」と「諏訪大明神画詞」は、その数少ない記録である。「画詞」の編纂者が諏訪(小坂)円忠で、延文元年(1356)に製作された。
・・ 諏訪円忠は、上社大祝敦信(=盛重)の弟・小坂助忠が諏訪郡小坂を本貫としたため、助忠の曾孫・円忠も小坂を称した。武人の系統であるが、鎌倉に生まれ住み、若くして北条氏の幕府・政所の所員となり文官として育った。小坂家は鎌倉に住すると諏訪姓を名乗った。鎌倉幕府健在の時は諏訪一族こぞって幕府に仕えた。信濃国が北条家の守護地で、諏訪氏はその各地で地頭となった。北条氏が滅亡し、諏訪盛重の一族も殉じている。円忠は本質的に文官でありその実務能力を買われ、建武中興の折りには朝廷に仕え雑訴決断所の寄人になった。
・・ 建武中興により朝廷は、北条氏一族の所領を奪い、功労のあった将士に分け与えたが、恩賞の請求や本領安堵の訴訟が頻発して、恩賞方も雑訴決断所もその裁決に困難を極めった。特に地方政治に暗く実務能力を欠く公卿たちが担当したため、公平を欠き新政府の信頼と威信を著しく損なった。
・・ 建武二年(1335)8月、全国を八番に分け、その各々に北条幕府当時の有能な人物を再登用することにした。円忠はこのとき第三番の東山道を担当させられた。その寄人の首席は洞院公賢・藤原宗成で、その下に高師直・長井高広・佐々木如覚・斉藤基夏等の名が見られるのは興味深い。円忠は公事実務の中心として、彼等にとって欠かせない人材であった。
・・ 建武中興の親政は中先代の乱を契機に短日月で破れ、円忠も諏訪一族であれば京での立場は困難を極めたであろう。一端は諏訪に戻るが、尊氏の信頼は変わらず、 乱後荒廃する諏訪郡の再建に尽力している。その人脈を生かし信濃守護小笠原と甲斐守護武田の後援を得て、諏訪大社信仰の再興のため、文官育ちでありながら豪腕を振るい、庶流の大祝、藤沢氏出自の政頼は現人神になりえずとして廃し、高遠に逼塞する頼継の弟信嗣を大祝とし、その復権を果たした。
・・ 円忠は鎌倉幕府が諏訪大社に与えた特権を復活させ、その御造営は信濃国の奉仕、さらに諸祭事の御頭制度も室町幕府に再確認させた。 北条氏滅亡後、新興勢力に簒奪された社領の回復にも務めている。
・・ 嘉歴四年(1329)の『鎌倉幕府下知状案』以降、諏訪大社上下社の神宮寺で釈迦の誕生を祝う花祭(潅仏会)と釈尊の入滅を偲ぶ常楽会(涅槃会)が行われるようになった。この行事には左頭と右頭の二頭役勤仕とした。下社の「常楽会」と合わせて諏訪大社の花会を創設し「両社相対して如来設化(遷化)の始終をつかさどる」とした。・・ 円忠は諏訪大進、法橋、法眼の地位にあり、諏訪上社の執行として、その花会頭と潅仏会頭の仏式神事を再興させ、室町幕府の支援を得て信濃地頭を御頭役とする信濃武士団を総動員する制度とした。それは安定しない信濃国内を統制する口実でもあった。
・・ 足利尊氏の幕府ができると、夢窓国師による尊氏への推挙で再び京へ上った。尊氏は円忠を右筆方衆としたが、のちに評定衆・引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元年(1338)守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
・・ 1338年足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開いたが、後醍醐天皇の菩提を弔うために京都嵯峨に天竜寺を建立することにした。そして暦応二年(1339)この天竜寺の造営奉行に任命されたのが諏訪円忠であった。興国元年(1340)に始まるが、尊氏・直義兄弟が自ら土を運んだと言われ、七年後に完成した。この間京では当時新興宗教である禅宗に対する風当たりは強かった。比叡山などの僧徒の強訴もあって円忠の苦労も大変であった。 尊氏は円忠の功に報いて近江国赤野井郷に領地を与えた。すると円忠は、後に夢窓国師の死後、赤野井郷の権益を山城国臨川寺に 、信州の領地・四宮荘を天竜寺に寄進した。 円忠は尊氏の歿後、二代将軍・義詮にも幕府の奉行人として仕えている。
・・ この天竜寺造営に際し、さらに全国六十六ヶ国と二島に一寺(安国寺)と一塔(利生塔)を建てることになる。足利尊氏、足利直義兄弟は、夢窓疎石に深く帰依しおり、疎石はかねがね兄弟に元弘以来の内乱で戦没した死者を弔い、平和を祈願する証として、各国ごとに「一寺一塔の建造」を勧めていた。聖武天皇の国分寺に倣ったと考えられるが、これにより足利氏の支配が全国に及んだ事を誇示する意味もあった。
・・ 歴応二年(1339)造営される安国寺は新しく伽藍を建立するのではなく、その国々の中心にある都合のよい寺をそれに充てた。信州では善光寺か、少なくとも小笠原氏の守護所がある筑摩が有力候補地であったが、信濃国の安国寺設置を担当していたのが諏訪円忠で、当時幕府の公事奉行であったためか、自領・小坂に近く、諏訪の上社前宮により近い地・諏訪武居荘小飼に建立した(茅野市宮川)。その後当地は、安国寺村といわれた。諏訪は長く信濃の反尊氏派として戦ってきたが、それもついに屈したと言える象徴的な証となった。
・・ 諏訪円忠はこの他、祭七巻、縁起五巻からなる「諏訪大明神縁起画詞」という絵巻物を編纂し、各方面に諏訪信仰を普及させた。諏訪大社には、かつて「諏訪社祭絵」という縁起書があったが、当時、既に失われていた。そこで「諏訪大明神縁起画詞」という当時流行していた絵巻物形式で、後世に伝えようとした。中世以前の諏訪神社の成立と神験の縁起物語、年中祭事、諏訪地方の祭祀、風俗等が絵画と解説文でよく記録されていた。 諏訪神社の縁起や伝承・仏説を国史から調べ、地元の諏訪神社から祭事の記録を得ている。貞和二年(1347)神道家の神祇大副(たいふ)吉田兼豊に古伝の調査を依頼し、延文元年(1356)、当代一流の学者藤原宗成に諏訪神社の古記録について尋ねている。正平元年(1346)頃から円忠が稿を練り、青蓮院尊円親王をはじめ七人の名手の筆により、絵は中務小輔隆盛他四人で、当時最高の名筆の集大成といえった。装丁も見事であった伝えられている。
・・ 縁起(歴史)五巻、祭七巻の絵詞を見て尊氏は感動して後光厳上皇に、各巻の外題(書名)の親筆を願い、その巻々の末に自ら 漢文で「右は敬神により宸翰(天皇の親筆)外題をくださるの間、後の証として謹んで奥筆を加えるのみ」 延文元年(1356)丙申十一月二十八日 征夷大将軍正二位 源朝臣尊氏 と署名した。
・・「画詞」は京都諏訪氏の円忠家に伝えられ、嘉吉二年(1442)、伏見宮の要請で諏訪将監康嗣が、これを公開している。彼は円忠の子であり、その系統は代々奉行人として幕府に仕えている。公開当時、非常な評判を呼んだが現存はしていない。ただ詞書の写本だけが残っている。
・・ 慶長六年(1601)、京都豊国神社の社僧・梵舜による写本といわれる『諏方縁起絵巻』が、現在、東京国立博物館に所蔵されている。
・・ 諏訪円忠は、政事以外に神道、禅宗、密教、和歌にも通じ、「新千載和歌集」「新後拾遺集」「菟玖玻集」にもその歌が掲載されている。
・・・ 滋賀県守山市赤野井町に「大庄屋諏訪家屋敷」がある。「大庄屋諏訪家屋敷」の歴史は、暦応三年(1340)に、諏訪円忠が足利尊氏に地頭職に任じられた事に始まる。その子孫は土着し、江戸時代には代官職を経て、赤野井一帯の小津郷の大庄屋として活躍したという。
小坂円忠により、疲弊した諏訪上社が中興されが、以後諏訪上社は、室町幕府に反目の行動はしていない。しかし、諏訪家庶流と高遠・諏訪家は、南朝・宗良親王を助けたとする史実は多く存在するが、それら庶流も、現実の幕府権力に迎合していったようだ。その歩みは、信濃に於ける南朝の衰退と速度を同じにしているかのようである。
大徳王寺城陥落の後、北条時行は何処へ?
北条時行が、再び歴史上に名を表すのは、観応の擾乱の時になります。正平七年(1352)、観応の擾乱とありますから、1340年から1352年の十二年間、北条時行はどこかに身を潜めていたことになります。
正式な歴史書に記載がありませんから、伝承に頼るしかありません。そして衰えたとはいえ時行には身内同然の諏訪家継系流の支配地で、経済的支援も期待出来る代官保科の管轄の領域と考えるのが、一番合理的です。
宗長親王が四十年に亘って拠点とした大河原・大草の大草の地区に二つの伝承が残っています。
○大草・桶谷地区 ・・・かっては王家谷と読んでいたらしいが、時行の居場所が特定されるので桶谷に変名したという
○大草・四徳(四徳小屋)
伝承なので定かではありません。証明する術も今は無い。
その後・・
正平七年(1352)閏2月、観応の擾乱に乗じ、南朝方は京・鎌倉同時奪還計画を立てる。
時行は新田義興・義宗兄弟らとともに鎌倉攻めに参加、一時は鎌倉を占領したが、足利尊氏に敗れ、またもや鎌倉を脱出するも、捕縛される。
正平八年/文和二年(1353)5月20日、時行は鎌倉龍口の刑場で処刑された。
ついに、ついに、北条得宗家の嫡流の血は途絶えて、北条鎌倉府の復刻は夢と終わった。
足利尊氏と足利直義の反目 ・・観応の擾乱
延元三・暦応元年(1338)、尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。翌年には後醍醐天皇が吉野で死去しますが、その死を悲しんだ尊氏は、慰霊のために天龍寺造営を、その資金調達に元王朝に天龍寺船を派遣。
この頃から、尊氏の弟・直義と執事・高師直らの対立が表面化します(観応の擾乱)。尊氏は当初傍観者的立場を取りますが、師直派にかつがれ、弟・直義と対立します。
・・正平四年・貞和五年(1349)、師直軍の襲撃を受けた直義が、尊氏の邸に逃げ込み、さらに師直が尊氏邸を包囲するという事件が発生。この事件は、直義の出家で解決し、直義は政務を引退します。
・・その後、尊氏は嫡男・義詮を鎌倉より呼び政務を担当させ、鎌倉には次男・基氏を下して鎌倉府を設置、関東を慰撫します。
・・ところがこの後、直義の猶子・直冬(尊氏の庶子)が中国地方で反乱を起こします。正平五年・観応元年(1350)、尊氏は直冬討伐のために遠征、この隙に直義が京都を脱出、南朝方に付いてしまいます。
・・直義軍は有力武将を味方につけて強大になり、義詮はその勢いに押されて京を追われます。軍を返した尊氏も摂津国で直義に敗れたため、正平六年・観応二年(1351)、尊氏は高師直らの出家を条件に直義と和睦。高師直は、護送中に謀殺されます。
・・発言力を増した直義に対して危機感を覚えた尊氏・義詮は、京極高氏のすすめもあって一計を案じます。その計略は、京極高氏が謀反を起こし、その征伐で尊氏・義詮が出陣して京を脱出、南朝方と和睦して南朝を味方につける、というもので、これは尊氏が南朝に降伏するかたちで実現、元号を南朝のものに統一し、北朝方の崇光天皇は退位して上皇となりました(正平の一統)。
・・尊氏のこの動きに危機を感じた直義は京都を脱出、尊氏はこれを追撃して駿河相模などで戦って破ります。捉えられた直義は鎌倉に幽閉され、正平七年・観応三年(1352)に急死する。尊氏による毒殺と言われています。
・・しかしこの同年、尊氏の留守を狙って南朝の軍が京都を制圧し、守備していた義詮は追い出されます。南朝は北朝方上皇を奪って幽閉、正平の一統が破綻してしまいます。
・・尊氏は、宗良親王や新田義興・義宗(義貞の子)、さらに北条時行などの南朝方を武蔵国各地で撃破して関東を制圧、東上して京都を奪回します。