探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

亀寿丸は何処へ <相模次郎物語>

2015-01-17 16:55:43 | 歴史

1:亀寿丸は何処へ <相模次郎物語>

古典・「太平記」(解説書含む)より
鎌倉幕府が滅亡の危機のおり、新田義貞は、得宗家の御大の北条高時を追い詰めていた。高時の弟・泰家は、御身内の諏訪盛高に、高時の次子・亀寿丸の行く末を頼む“くだり”・・・

・・・・「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相模入道殿(高時)の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや」・・・・「されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂」・・・・

”高時が傲慢な振る舞いに人望を無くし反感を買い、鎌倉は滅ぶけれど、それでも北条累代の積善からすれば、あとを継ぐ子孫さえいれば、きっと再興できるはずだ。だから、ここは生きのびて亀寿(後の北条時行)を守り、時至れば大軍を起し、北条の家を再興しよう”泰時がこう言うと、盛高は涙をこらえ、泰家のこの言葉に従うことにする。

・・・・「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、『死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し』と申事候へば、兎も角も仰に可随候」・・・・

盛高は亀寿のいる扇ヶ谷へと向かう。
屋敷では、高時の愛妾・二位局がわが子の行く末を案じていたが、盛高は事が露見することを恐れて、こう告げる。

・・・・「此世中今はさてとこそ覚候へ。(北条家)御一門太略御自害候なり。大殿(高時)計こそ未葛西谷に御座候へ。公達(亀寿)を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候」・・・・「若御(亀寿)も今日此世の御名残、是を限と思召候へ」・・・・

新田勢がここまで攻め入っている以上、狩り場の雉のように草むらに隠れていたところで、 敵に殺され、幼い骸を晒すことになる。それより高時の手にかかり、冥土のお供をさせることこそが忠孝である。・・『武士の家に生まれた以上、平素からその覚悟はできていたはず』と、盛高は心を鬼にして、亀寿を抱き上げ、泣きすがる二位局を振り切り、声を荒げ馬を走らせる。

・・・・「わつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰を育て、誰を憑で可惜命ぞや」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ」・・・・

悲しんだ二位局は、馬を追いかけて走っては転び、走っては転び……ついには悲しみのあまり、古井戸に身投げしてしまったと、「古典太平記」は伝えている。

盛高は鎌倉の諏訪屋敷に戻り、一族を集め、事の子細を打ち明けます。亀寿丸様を連れ落ち延びて北条再興の機会を窺うこと、亀寿丸と共に自害して果てたと見せかけるために、この屋敷に火を放ち、この場で諏訪一族はことごとく自害してほしい、と 要請します。諏訪武士達は、盛高の本懐の為に、涙ながらに亀寿丸の前に手を付き、やがて屋敷に火がかけられ、・・・『亀寿丸様は、はや自害なされた。者ども死出の旅に遅れまいぞ』と、屋敷外に響けとばかり叫び、殉死体の中に亀寿丸がいると誤認されるように、相次いで火中に飛び込み自害していきます。

そして・・・
盛高一行は、新田軍の負傷兵に化け、亀寿丸を隠した武具を抱えて屋敷から密かに脱出します。やがて鎌倉を遠く離れると、北条氏の守護国であった信濃の地へ、・・

1:時は、正慶二年(南朝歴・元弘三年・西暦1333年)五月の半ばを過ぎた頃のことである。北条高時の自害は、5月22日とされているので、時行の鎌倉脱出は、当日を含めてその前後と思われるが、定かではない。
2:この時の、後醍醐天皇による一連の倒幕運動を「元弘の乱」と呼ぶ。
3:時行の生誕の記録はないが、諏訪上社大祝・諏訪頼重に担がれて、若干早く元服の義を終えて、中先代の乱の挙兵の旗頭・・とする記録を信じれば、北条嫡男・邦時は「七歳」で元服をしていることから、若干早くを「六歳」と類推すれば、鎌倉を離れた”元弘の乱”の時は「四歳」となり、生誕は、元徳元年(1329)に比定できる。さらに年譜に、「1329 元徳元年 12? 北条高時子息生。」を見ることができる。ここを生誕の年とする可能性は高いが、断定するには資料が少ない。

それまでの鎌倉幕府滅亡までの歴史を振り返ると年譜は以下のようになる。

西暦 和暦
1324 正中元 9.19 後醍醐天皇による倒幕運動発覚(正中の変)。
1325 正中2 7   元に建長寺船派遣。
        8  日野資朝、佐渡へ配流。
        11.22 北条邦時生。
1326 嘉暦元 3.13 北条高時出家。
        3.16 金沢貞顕、執権となるも、出家(3.26)
        4.27 赤橋守時、16代執権となる。
        4.21 北条高時娘没(3歳)。
1329 元徳元 12? 北条高時子息生。
1331 元弘元 5  後醍醐天皇による討幕運動発覚(元弘の変)
        8.27 後醍醐天皇、笠置山に遷幸。
        9  楠木正成挙兵。幕府、光厳天皇を擁立。
        9.28 笠置城陥落。
        9.30 後醍醐天皇、捕らえられる。
        7.14 北条高時娘生。
        12.15 北条邦時元服(7歳)。
1332 正慶元/元弘2 3  後醍醐天皇、隠岐へ配流。
           11  護良親王、楠木正成挙兵。
1333 正慶2 元弘3 1  赤松則村(円心)挙兵。
           2 土居通増・得能通綱・忽那重清ら伊予で挙兵。
           閏2~3千早城攻防戦続く。
           閏2.24後醍醐天皇、隠岐脱出。
           4.27 足利尊氏、幕府に背く。
           5.7  尊氏、六波羅を攻める。
           5.8  新田義貞、上野で挙兵。
           5.9  六波羅探題北条仲時ら、近江で自刃。
           5.22 新田義貞、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)。
           5.25 鎮西探題赤橋英時、博多で戦死。
           6.5  後醍醐天皇、帰京。
           6~7 記録所・恩賞方を置く。
           9?  雑訴決断所・武者所を設立。
           12  足利直義、成良親王を奉じて鎌倉へ下る。

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足利高氏と新田義貞
この一連の流れを見ていると、正慶二年(1333)が如何に激動であったかが、見えてくる。それまで鎌倉幕府の御家人であった足利高氏と新田義貞は、正慶二年に、後醍醐の呼びかけに応えて幕府に背き、高氏は京都の”六波羅探題”を攻撃し、義貞は”鎌倉”を攻撃している。そして、戦いの決着が見えた頃、記録所・恩賞方、雑訴決断所・武者所が設立され、地方の豪族は、高氏のもとへ赴き、続々と高氏支持を表明していく。これが双頭の実力者の一方の新田義貞でないことが興味深い。これは”公平性が高い”ことと豪族武家の現状をよく知るものとして、武家の棟梁の資質が、新田義貞より高く見られたことに起因すると言う説が存在するが、兎に角ここを起因として、かっての同族兄弟家の足利家と新田家は、以後長く反目の時を過ごすことになる。尚鎌倉幕府倒幕の功により、高氏は、後醍醐天皇より尊氏の名を貰い、以後足利尊氏と名乗る様になる。
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北条高時没落の要因
○高時は、暗愚であったとされ、田楽と闘犬にふけり政治を顧みなかった。
○反幕武士勢力:
  得宗専制政治に有力御家人が反発。畿内近国で悪党が横行。
     イ)北条氏の得宗専制政治に対する有力御家人の不満の増大
     ロ)庶子家の独立化による惣領制の動揺
     ハ)御家人の経済的窮乏と元寇の恩賞に対する不満。
     ニ)悪党の活躍(得宗専制に対する不満)
  「悪党」勢力の台頭
     悪党:御家人や有力名主から成長し、幕府の支配構造に反抗する新興の武力集団。
     ・・・代表格は「楠正成」
○朝廷への指導力の低下
 天皇の即位は持明院統と大覚寺統が交互で行っていたが、交替をコントロールできなかった。
 ・・・これにより、朝廷の不満が高まった。
○鎌倉期末期、元寇があったが、運良く台風で元は敗走する。全国から、祖国を元から防衛するために、地方豪族が徴兵されたが、元が敗走しても、鎌倉幕府は恩賞を出す財源がなかった。恩賞を当てにして、金貸しから借財して戦いに臨んだ地方豪族は窮地に陥り、一挙に不満が膨らんでいく。そのため幕府は、徳政令を乱発し、今度は地方の資産家から恨まれていく。遠因は、それまで続いていた分割相続が制度疲弊を起し破綻していたことに依るが、地方豪族の経済力は、当時かなり細っていたようだ。その反面・・・北条得宗家の暮らしは贅沢を極め、地方武士の不満は募っていたようだ。
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参考資料1・・北条時行
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)
改名 亀寿丸・長寿丸・勝長寿丸→時行
別名 相模二郎/次郎
氏族 北条氏、得宗
父母 父:北条高時、母:二位局・母は安達時顕の娘
兄弟 邦時、時行
子 豊島輝時?、行氏?、時満?、惟時?

南北朝時代(1336~1392)の武将。
鎌倉幕府14代執権にして最後の得宗、北条高時の次男。
幼名は・亀寿・『太平記』、
勝寿丸・『梅松論』、
勝長寿丸・『保暦間記』、
全嘉丸・亀寿丸・・『北条系図』、
    桃寿・『太平記』金勝院本・西源院本、
    兆寿・太平記』天正本)
通称 相模次郎・『梅松論』・『鶴岡社務記録』
   相模二郎・『太平記』・『尊卑分脈』
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参考資料2・・北条邦時
北条邦時は、鎌倉時代末期の北条氏・得宗家の嫡子。
鎌倉幕府第14代執権・北条高時の長男。母は御内人・五大院宗繁の妹・常葉前。
乳母父は長崎思元。中先代の乱を起こした北条時行は異母弟である。
○元弘の乱で、鎌倉陥落時に伯父の五大院宗繁に託され伊豆山に脱出したが、褒賞目当てに宗繁が新田義貞軍の舟田義昌に密告したため相模川にて捕らえられ、鎌倉にて処刑。享年九歳。
・宗繁は主君北条氏の嫡子を死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され逃亡し、時期は不明だが餓死したという。
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参考資料3・・北条泰家 (Wikipedia)
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期
生誕 不詳
死没 建武2年(1335年)頃?
改名 時利(初名)→時興→泰家
別名 相模四郎
官位 従五位下、左近将監
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 北条氏、得宗
父母 父:北条貞時、母:覚海円成(安達泰宗の娘)
兄弟 覚久、菊寿丸、高時、泰家、崇暁、金寿丸、千代寿丸、他女子
子 兼寿丸、菊寿丸、金寿丸、千代寿丸

北条泰家は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。
鎌倉幕府の第九代執権・北条貞時の四男。十四代執権・北条高時の同母弟。

はじめ、相模四郎時利。正中三年(1326)、高時が病で執権職を退いたとき、母大方殿と安達氏は泰家を後継者として推すが、長崎高資の反対。長崎氏の推挙で執権となった北条貞顕が執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった。
正慶二年/元弘三年(1333)、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いて、一時は勝利を収めたが、油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の奮戦により鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へ逃亡。・・・その後、上洛して西園寺公宗の屋敷に潜伏し、建武二年(1335)公宗と後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図るが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている。
『市河文書』によれば建武三年2月、南朝に呼応して信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武二年末に野盗に殺害されたとも言われている。*『市河文書』では北条時興の名前で登場している