5:時行、南朝に合流 <相模次郎物語>
『大平記』には
「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、つひに被亡を勅勘の下にえたりき」に始まる格調高い時行の勅免願いの条がある。後醍醐天皇は時行の説くところをもっともとして恩免を与え、以後時行は南朝に属して東奔西走していた。
同じく『大平記』には
「相模二郎時行も、すでに吉野殿(後醍醐〉より勅免を蒙りてん守ければ、伊豆国より起って五千余騎足柄・箱根に陣を取って」南朝方の諸将とともに鎌倉をうかがい、
また延元三年(1338)には北畠艇黙に従い、美濃青野原において小笠原貞宗の軍と交戦している。それについては、北朝方の二番洲俣手高大和守の三千余騎が洲俣川を渡りかけたところへ、「相模二郎時行五千余騎にて乱れ合ひ」これを撃退した働きも記されている。
時行はその後も顕家に従って各地に転戦したが敗れ、最後は故地である信濃に潜伏し、宗良親王に従って伊那・諏訪方面の諏訪氏の中から再起をはかつていた。
中先代の乱に敗れて以降の時行の行動の記録は少ない。知る限り、太平記の僅かな記録と諏訪大社に残る守矢文書のみで、後は伝承である。
伊豆に隠れて二年後、・・・
延元二年(1337)、北条時行は、北条得宗家を滅ぼした後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る。これが太平記で記録が残る格調高い「勅免願いの条」である。後醍醐天皇は、文面に”感じ入り”、もっともとして恩免を与える。・・・ここに、北条残党の棟梁と南朝の合体が成り、共通の敵”足利尊氏”の幕府への反撃の体が整う。・・・各地の北条残党は、以後南朝側として戦線に参軍していくようになった。
同年、時行軍は伊豆より挙兵して、奥州から来た北畠顕家軍に合流する。
北畠顕家
延元二年(1337/建武四年)八月、鎮守府将軍北畠顕家は、吉野の後醍醐天皇の足利尊氏追討の呼びかけに応じ、義良親王(後村上天皇)を奉じ、腹心結城宗広や伊達行朝ら奥州勢を率い、霊山(相馬市・伊達市)を出発した。二度目の上洛戦。・・北畠勢は利根川の戦いで足利勢を破り、新田徳寿丸(新田義興)など南朝方の関東諸侯を吸収しつつ、十二月足利義詮が守る鎌倉を攻略。足利勢は、斯波家長が戦死(杉本城の戦い)、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総方面に脱出。この前後、北条時行が南朝に降伏し、北畠勢に合流している。
延元三年(1338/暦応元年)一月二日、北畠勢は鎌倉を出発し、足利勢と戦いながら東海道を西上する。途中宗良親王と合流し、一月二十日には美濃国に到達した。京都の足利尊氏は、当時北陸の新田義貞への対処に苦慮、北畠勢の速い西上に対応が取れなかった。
鎌倉を脱出していた上杉憲顕ら足利勢は、北畠勢西上後に鎌倉を奪回し、さらに北畠勢を挟み撃ちにすべく西進を開始した。遠江国で今川範国、三河国で吉良満義・高師兼、美濃国で高師冬・土岐頼遠らの諸侯と合流し、約八万の軍勢になったと言われる。
美濃国の守護である土岐頼遠は、美濃国での決戦を主張した。北畠勢も、京都へ攻め入る前に、まず背後の足利勢と戦うことに決した。・・足利方は、墨俣川(現長良川)など美濃の各地で順次北畠勢に攻撃をかけた。最終的に、北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた。
青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰・佐々木道誉(京極道誉)・佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約五万の軍勢を差し向けた。援軍は、近江国・美濃国の国境である黒地川(黒血川)に布陣し、背水の陣を構えたと言われる。
北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力は無く、近江から京都への突破をあきらめた。北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向かった。・・足利方は窮地を脱し、体勢を立て直して高師直率いる軍勢を大和国に差し向けた。北畠顕家は、大和国般若坂で足利勢に敗れ、その後摂津国方面に転戦し京都奪回を狙ったものの、和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。・・土岐頼遠は、戦いに破れたが、北畠勢の上洛を食い止めて名声を高めた。
1337年 年譜
1337.7 延元二年、北条時行は、後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る
1337.12 北畠顕家は足利義詮が守る鎌倉を攻略。
・・・斯波家長が戦死(杉本城の戦い)、
・・・足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総方面に脱出。
・・・北条時行が南朝に降伏し、北畠勢に合流している
1338.1.2 延元三年(暦応元年)北畠勢は鎌倉を出発し、東海道を西上する。
・・・宗良親王と合流し、一月二十日には美濃国に到達した
1338.1.20 青野原の戦い・足利方は、墨俣川(現長良川)で順次北畠勢に攻撃をかけた。
・・・北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた
・・・青野原は現・大垣付近
1338.6.10 般若坂・石津の戦い・北畠顕家は、般若坂で足利勢に敗れ、石津にて戦死した
1338.閏7.2 藤島の戦い・新田義貞戦死。
1388. 閏7.25 南朝各皇子を戦地へ派遣計画を立てる。
・・・義良親王を陸奥へ、
・・・宗良親王を遠江へ、
・・・懐良親王を九州へ
下す計画が立てられる。
1338.8 足利尊氏、征夷大将軍となる。
1338.9 義良親王・宗良親王・北畠親房ら伊勢大湊より出航する。
・・・大風に遭い義良親王の船は伊勢へ吹き戻される。
・・・宗良親王は遠江へ、親房は常陸へ到着する。
・・・北条時行は、宗良に同行したと思われる。