2:元服して時行立つ <相模次郎物語>
元服とは、中世に男子の成人の儀式のことであり、通過儀礼である。 「元」は頭、「服」は着用を意味し、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠とも言われる。*初冠・ういこうぶり。冠親により冠を付けて貰い、幼名を廃して元服名を名乗る様になる。・・・中世の元服年齢には約束なく、5-6歳から20歳程度までと巾が広かった。
亀寿丸はこの時六歳。冠親は、諏訪頼重であった。諏訪頼重は、この時諏訪大社の大祝であった。諏訪大社は、全国の諏訪神社の総本家である。その諏訪大社の大祝は、神職の最高位である。
大祝・頼重は、亀寿丸を元服させるに当たって考えていた。亀寿を「時行」という大人の名前に変えたとしても、まだ六歳。兄の諏訪盛高が北条泰家に、”亀寿の後”とは、北条残党による鎌倉幕府の再興である。この”再興の戦い”を六歳に任せるのは無理がある。しかし、大祝は、血を見ること、諏訪の神域をでることは赦されない掟である。
頼重は、大祝を子・時継に譲る決意をした。
こうして、亀寿丸の元服の儀は、同時に、諏訪大祝の譲位の儀にもなった。
時は、7月の頃であったが、信濃の北条の残党は、春先より各地で蜂起していた。期は熟しているような気配であった。・・・注:諏訪頼重と盛高の関係は、諏訪家系図に依れば、父は諏訪盛重で兄弟と言うことになる。
1335年 建武二年の出来事
1 長門佐加利山城で、越後左近将監入道・上野四郎入道等挙兵。
2.1 駿河太郎重時、伊予烏帽子山城で挙兵。
2 讃岐での反乱。
3.8 常岩弥六宗家、信濃常岩北条で挙兵するが、城を攻め落とされる。
3.16 信濃府中で深志介らの反乱。
6.22 西園寺公宗・日野資名ら、陰謀発覚して捕らえられる。
7 北条時行挙兵(中先代の乱)。
7.14 保科・四宮勢、信濃守護所を襲うが敗走。
7.15 八幡河原・福井河原・村上河原での合戦。
保科・四宮勢、22日まで戦いつづける。
7.18 時行本軍、上野に入る。
7.22 時行本軍、武蔵に入る。
7.22 女影原の戦い
7 足利直義、鎌倉を出て武蔵井出沢で時行軍と戦い敗れる。
7 中先代の乱。足利直義、護良親王を殺害。
7.23? 護良親王殺害される。
7.24 時行軍、佐竹貞義の軍を武蔵鶴見で破る。
7.25 時行軍、鎌倉に入る。
7 中先代軍、20日間の鎌倉政府
8.1 信濃で、望月城攻め落とされる。
8.2 西園寺公宗、日野氏光誅される。足利尊氏、京を出発。
8.7 尊氏、三河宿で直義と合流。
8.9 遠江橋本の合戦。時行軍、これより8月19日まで負けつづける。
8.12 遠江小夜中山の合戦。
8.14 駿河国府合戦。
8.17 箱根合戦、蘆川の戦い。
8.18 相模川の合戦。
8.19 片瀬川の合戦。足利軍、鎌倉へ突入。諏訪頼重・時継ら自刃。
8 足利尊氏東下し、鎌倉を奪回
8~9? 信濃惣大将村上信貞、坂木北条城を攻め落とす。
9.3 安曇・筑摩・諏訪・有坂の中先代与党の城、攻め落とされる。
10 小笠原四郎、横河城を攻める。
10.3/9 尊氏、相模三浦、長沢、馬入で北条残党を討伐。
11 後醍醐天皇、尊氏討伐のため新田義貞を出陣させる。
12 足利軍、新田義貞を破り西上。
義良親王・北畠顕家、尊氏追討の命を受け奥州出発
信濃国は、北条得宗家の守護国であった。
鎌倉期初期に信濃国守護であった比企能員は、権力闘争で、北条家に謀殺されて、一族は壊滅状態になった。比企能員に変わって、信濃守護になったのは北条得宗家である。いわば、信濃国は北条家の直轄地で、北条家に恩顧のあるものが多かった。北条家と御身内となった諏訪家を筆頭に、東北信に守護家の荘園が散在していた。そして、鎌倉幕府崩壊後、足利尊氏は、手に入れた信濃の春近荘を、信濃・伊賀良生まれの小笠原貞宗に預ける。危機を覚えた東北信の北条残党は信濃各地で領有した既得の領地を守るべく、蜂起を始めた。
・・・1335.3.8 常岩弥六宗家、信濃常岩北条で挙兵するが、失敗して落城。
「3月8日に水内郡の北条氏勢力である常岩北条(現飯山市)の常岩氏を攻め城郭を破却し、」・・市河助房等着到状(市河文書)
--これを見ると、飯山市は、北条氏の勢力下であったようです。城主・常岩弥六
・・・3.16 信濃府中で深志介らの反乱
「鎌倉時代の守護北条氏の被官に犬甘郷の深志介知光があり、南北朝の時代になると南朝方について反乱を起し、室町時代には小笠原氏家臣の坂西氏が深志介の地位を奪った」
「北条高時一族の時興(=北条泰家)と凶徒深志介らが蜂起した( 深志介とは、深志という名から府中近辺に居を占めていに在庁官人でなかろうか。これをみると府中には国街があって在庁官人が勢力をもち、かれらは北条氏に把握されていた」
--在庁官人・深志介知光は、国衙と比定できる
・・・6.22 西園寺公宗・日野資名ら、陰謀発覚して捕らえられる。
西園寺公宗・「建武元年(1334)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。二人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。」
日野資名・「日野俊光の長男。日野資朝の兄。鎌倉幕府が擁立した持明院統の光厳天皇に重用され,正二位,権大納言となる。後醍醐方についた足利尊氏が六波羅探題を攻めた際,光厳天皇を奉じ京都を脱出し,出家。のち尊氏が後醍醐天皇と対立すると,光厳上皇の院宣をとりつぎ,南北朝対立のきっかけをつくる。」
--この時、北条泰家は脱出し、信濃・麻績御厨へ行き、建武三年(1336)に小笠原貞宗らと、北条時興の名前で戦っている*北条時興(=泰家)・・市河文書
--西園寺公宗は、京都にあって、反後醍醐派の中心的人物。各地の北条残党の扇動的役割を行ったようだ。諏訪頼重との連絡もあったようだ。
・・・7.14 保科・四宮勢、信濃守護所を襲うが敗走。青沼合戦という。
青沼合戦とは、建武二年(1335)信濃国埴科郡船山郷(現・千曲市小船山)にあった守護所が北条氏の残党を擁護する国人領主らに襲撃されて起きた合戦。
「この地(青沼)を隣接地とする川中島の国人領主の四宮左衛門太郎や保科荘の保科弥三郎らが襲い守備側にいた市河氏らと近くの八幡河原一帯にある青沼(千曲市杭瀬下)周辺で合戦となった。保科、四宮勢は敗走し、福井河原や篠ノ井河原、四ノ宮河原と転戦し、小笠原勢は追撃を重ねた。」
これは、諏訪頼重に呼応した陽動作戦と見える・
「この間に北条時行を擁する諏訪氏、滋野氏らは信濃府中(松本市惣社付近)に進撃して国衙を焼き討ちし、建武政権が任命した国司を自害させた。」・・建武政権が任命した公家の国司・清原真人某・を自害させる(『太平記』)。
・四宮左衛門太郎・北条氏所領地に属していた四宮左衛門太郎・諏訪氏の庶流・
・・・荘園名:更級郡のうち郷名でも見える塩崎の西方山麓一帯の沖積地地名は信濃国四の宮(武水別神社)の鎮座に由来するという説(地字略考)がある・・(御室御領)〉四宮庄南北」とあり,南北2つの荘・・が「四宮荘」と比定できるか。
・保科弥三郎・保科御厨・保科荘の一族・・諏訪神党
・・・保科一族の分流・保科弥三郎は、敗走の後「時行軍」に合流して各地を放浪・・とあり、やがて南朝と合流した時行が、諏訪へ戻り、大徳王寺に籠もるとき、諏訪上社と調停して諏訪頼継の合力を演出した。大徳王寺の合戦の後諏訪に残り、南朝側として、諏訪神域の代官として宗良親王を支えたという伝承がある。
建武二年(1335)七月、北条得宗家の時代への復古を目指した戦い・・時行を擁して挙兵した諏訪頼重は府中に攻め入り、国衙を襲撃して国司を自殺させ、東信を経て上州に進撃。その間、各地から馳せ参じた武士団でたちまち大軍となり、その勢いで武蔵国に攻め入った。
府中(松本)の戦いに勝利した「時行軍」は、その後府中から佐久へ進軍します。大きな戦いの記録がないことから、伝え聞いた北条残党が、「時行軍」に糾合して大軍に膨れ上がっていきます。上野を通過するときも、さらに軍は膨れ上がり、向かうところ敵なしの状態が続きます。
7.22 女影原の戦い
幕府は、足利直義と渋川次郎大輔義季、岩松兵部経家等を主将として軍兵を率い、建武二年(1335)7.22、女影ヶ原の要地を占め防御の陣地四隊を張らせて待機したが、北條軍のため撃破された古戦場である。霞野神社一帯が、女影ヶ原と呼ばれた丘陵地帯。
霞野神社: 所在地 日高市大字女影444.川越線高萩駅近く・
7. 小手指原の戦い
今川範満は、中先代の乱のとき,武蔵・小手指原で北条時行軍と戦い討ち死にした。
注意:*小手指原の戦いは何度かあるが、通常の小手指原の戦いは「正平7年/文和元年(1352)閏2月28日に行われた足利尊氏と新田義宗との戦い」を指す。この時は宗良親王が関わり、南朝兵士を鼓舞するための「君がため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば」の有名な和歌がここで詠まれた。
7. 武蔵府中の戦い
足利直義は、家来の小山秀朝を差し向け、武蔵国府中でこれを迎え討った。時行の軍は数が多く、小山は乱戦の中で討死をした。
7.22 足利直義は、鎌倉を出て武蔵井出沢(町田)で時行軍と戦い敗れる。
鎌倉の執権足利直義自ら率いる足利勢と武蔵の井出沢(町田)で合戦となった。北条勢には近隣の北条勢が続々と加わっていた。足利直義の部下の三浦若狭五郎や那波左近太夫などの将まで北条方に寝返っていた.
7.23 足利直義、護良親王を殺害。
執権足利直義は、中先代の軍が、護良親王を奪還すれば、鎌倉幕府が復活することが現実味を帯びて来ることを恐れ、部下の淵辺義博に命じて殺させた。
7.24 武蔵鶴見合戦
建武二年(1335)7月24日、北条時行は鎌倉の奪還を謀り、信濃国で挙兵した北条時行の軍勢が鶴見で佐竹貞義と交戦する、中先代の乱といわれる争乱の一部です。この乱をきっかけに足利尊氏は建武政権に反旗を翻して、時代は南北朝時代に突入します。
注:一つの鶴見合戦は、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡する際に、金沢貞将が鶴見あたりで戦いに敗れて鎌倉に戻ったもの
7.25 時行軍、鎌倉に入る
いよいよ、中先代軍は鎌倉に入り、鎌倉奪還です。
諏訪の上社で、時行が軍を整えてから僅かの十日余り、怒濤の進撃で、ついに相模次郎は生誕の地に凱旋します。
時行軍が辿った道は、合戦の場所を確認すれば、鎌倉街道上道・鎌倉古道です。
鎌倉街道・上道
「吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし井手の沢辺かとよ、小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難の出難かりし瑞籬の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵に槻河の、流れもはやく比企野が原、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河行過て、下にながるる見馴川、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、いざ倉賀野にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻、誰松井田にとまるらん、」・・「宴曲抄」より
文中の地名を順序に拾い出せば、
由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜)、
常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常盤)、
村岡(藤沢市宮前を中心とした付近)、
柄沢(藤沢市柄沢付近)、
飯田(横浜市戸塚区の境川左岸)、
井出の沢(町田市の本町田)、
小山田の里(町田市小野路町)、
霞の関(多摩市関戸)、
恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及・西恋ヶ窪)、
久米川(東村山市の所沢市との境付近)、
武蔵野(所沢市一帯の地域)、
堀兼(狭山市堀兼)、
三ツ木(狭山市三ツ木)、
入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった)、
苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿)、
大蔵(嵐山町大蔵)、
槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する)、
比企が原(嵐山町菅谷周辺)、
奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨)、
荒川(寄居町の荒川)、
見馴川(児玉町を流れる現在の小山川)、
見馴の渡(見馴川の渡)、
児玉(児玉町児玉)、
雉が岡(児玉町八幡山)、
鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる)、
山名(高崎市山名町)、
倉賀野(高崎市倉賀野町)、
衣沢(高崎市寺尾町)、
指出(高崎市石原町付近)、
豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町)、
板鼻(安中市板鼻)、
松井田(松井田町)
・・・現在も地名に名を残すところがほとんど。武蔵野が狭い範囲を指しているのが興味深い。
諏訪大社の近辺にも、鎌倉街道の名が残るところから、松井田と諏訪の間にも、鎌倉古道が存在したのではないかと推測されます。
参考:足利直義
足利直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。
足利氏の嫡流・足利貞氏の三男。室町幕府初代・足利尊氏の同母弟。世に副将軍と称される。
兄・尊氏を補佐して室町幕府創設に貢献。しかし観応の擾乱で失脚し、復権を企んで政敵の高師直一族を討ち果た。後に尊氏とも対立し、後に毒殺される。
足利直義
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 徳治元年(1306)-死没 正平/文和元年7年2月26日(1352・3・12)
改名 ?(幼名不詳)→高国(初名)→忠義→直義→慧源(号)
別名 下御所、錦小路殿、三条殿、高倉殿、副将軍
戒名 大休寺古山恵源:墓所 神奈川県鎌倉市浄明寺の浄妙寺
官位 兵部少輔、左馬頭、正五位下、相模守、上左兵衛督、従三位、贈従二位
幕府 鎌倉幕府→室町幕府
氏族 足利氏:父母 父:足利貞氏、母:上杉清子:兄弟 高義、尊氏、直義
妻 本光院(渋川貞頼の娘)
子 足利如意丸、養子:直冬
観応の騒乱で、高一族と対立。これを境として、反尊氏派になり室町幕府は弱体化する。以後一貫して反尊氏派として活動するが、正平の頃毒殺される。直義の養子・直冬は、その後も反尊氏として対立が続く