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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

足利尊氏と後醍醐天皇の反目 <相模次郎物語>

2015-01-27 11:28:34 | 歴史

4:足利尊氏と後醍醐天皇の反目 <相模次郎物語>

承前・・・
「時行の「中先代の乱」が失敗に終わると、後醍醐天皇・足利尊氏の「建武の政権」内に亀裂が起こり、権力構造が変化していきます。 ・・そんな時、時行はどうしたのでしょうか?」

護良親王と後醍醐天皇の反目
護良親王は大塔宮とも呼ばれた。天台座主。後醍醐天皇の皇子。
後醍醐天皇が流されていたので、護良親王は、自ら討幕の令旨を各地の反幕府勢力に送った。この令旨に応じて,楠木正成が千早城で,赤松則村が播磨苔縄城で挙兵した。千早城が鎌倉幕府軍に包囲されたとき,護良親王は吉野,十津川,宇多,内郡の野伏に,兵糧米が包囲軍の手に渡らないように,往来の路を塞ぐことを命じている。のち,親王は河内信貴山に兵を進めて,赤松則村による京都侵入,六波羅攻撃を援助した。正慶二/元弘三年六月,後醍醐天皇が帰京して新政府を樹立した際,征夷大将軍の任官をめぐって足利尊氏と対立した。討幕の功労者足利尊氏とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山を拠点に尊氏を牽制する。・・幕府滅亡後に、後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していた。
やがて、尊氏のほか、後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意で捕らえられ、鎌倉へ送られ、尊氏の弟足利直義の監視下に置かれた。・・後醍醐天皇との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣らしい。
北条時行の中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、時行に奉じられる事を警戒した直義の命により殺害された。
=>後醍醐天皇・護良親王は王政復古を目指し、足利尊氏・直義は武家社会の再構築を目指していた。この方向性の違いから来る亀裂の目は、建武の時から表面化しつつあった。

楠正成
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた。
最初護良親王の令旨に呼応するが、隣接の領地が得宗家家臣の湯浅氏だったためとされている。主家を護良親王とするが、護良親王が政権から脱落すると、後醍醐天皇の側近となる。出自が河内の土豪説から、北朝側から”悪党”と名指しされるが、得宗被官説もある。
*中世の悪党の定義は、既存支配体制への反抗者の意味で、現代の悪党と意味を異にする。
楠正成は、人格高潔な尊皇思想の持ち主で、熱心な南朝支持者であった。しかし、時代を見る目は正確で、建武の混乱は、後醍醐天皇が原因と読み解き、混乱を収めるのは、武家社会の棟梁として支持を集める尊氏しかいないと考えて、新田義貞と手を切り、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を進言する。しかし受け入れられず、湊川の戦いで自害する。戦のやり方は、”ゲリラ”的で天才であった。これは軍学になり、「南木流軍学」といった。
雑学:明治維新、特に水戸学で橘正成は見直され、橘公祭=招魂祭が盛り上がり、招魂社が設立され、維新軍の薩長土肥の戦没者が合祀されるに至った。この合祀で、薩長の政府により橘公祭の意味は曲げられ、さらに靖国神社に変名されると、完全に招魂社とは別物になった。

足利尊氏と後醍醐天皇の反目
後醍醐天皇は大覚寺系の天皇で、持明院統系への対抗が倒幕運動に発展。倒幕運動の一度目は未然に防がれ、二度目は身内の裏切りで発覚して、隠岐に流されます。後醍醐天皇が流されている間、倒幕運動をしたのが護良親王(大塔宮)です。・・大塔宮の反幕府運動に参加したのが楠木正成です。楠木正成は後醍醐天皇の兵げはなく大塔宮の直臣です。楠木氏は純粋に天皇に味方したのではなく、領地を接する湯浅氏に抵抗するためでした。
幕府を離反した足利尊氏は、征夷大将軍の位を望みますが、この位は大塔宮のものでした。大塔宮は、武士に近い考え方で、後に父の後醍醐天皇と反目していきます。・・後醍醐天皇は足利尊氏の野望を知っていて、それを利用して、大塔宮を殺害させます。・・ここで楠木正成が天皇の直属の指揮を受けるようになります。大塔宮の死で、征夷大将軍は空位になるが、天皇は尊氏を任官しなかった。それで新政に不満を持つ武士を糾合して、半ば強引に征夷大将軍に着き、幕府を開きます。そして、尊氏は天皇に謀反して、持明院統の皇族を擁して北朝を作ります。
直接の要因になったのが、中先代の乱の鎮圧の時の尊氏軍の恩賞です。戦功を上げたものに、尊氏は、天皇の裁量を待たずに、自ら恩賞します。この梯子外しで、亀裂は決定的となりました。武家の世の習いに従った恩賞で、武家社会の棟梁の地位を確実なものにしていきます。
尊氏が、持明院統の天皇を擁立して北朝を作ったが、後醍醐天皇は納得せず、自らの正統を主張して吉野で、南朝を宣言します。これからが長い、六十年間に亘る南北朝の対立の時代が始まります。

足利尊氏と新田義貞の反目
中先代の戦いで、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。
これが、箱根・竹ノ下の戦いで、南北朝時代の建武二年(1335)12月11日に、足利尊氏勢と新田義貞勢の間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権は崩壊した。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。・・尊氏軍は義貞軍を追撃し、翌年1月3日近江瀬田唐橋で激突。搦め手の宇治で尊氏軍が勝利し、宮方は撤退し、京を巡る合戦に突入する。・・尊氏の挙兵は成功し、室町幕府へと繋がる。建武政権は崩壊し、南朝に零落し、南北朝時代へ突入する。宮方の敗因は義貞の器量不足というよりも後醍醐の失政に失望した有力武士が尊氏に大挙して付いたことに起因する。旧守護クラスの有力武士を抑制することで成立しようとした建武政権は旧守護クラスが擁立した足利尊氏に破れることとなった。
尊氏は京都占領をめぐる戦いで、北畠顕家・楠木正成・新田義貞に敗れます。新田義貞は西下する足利軍を追撃しますが、赤松円心の働きにより尊氏は虎口を脱し、九州に落ちびます。・・
尊氏は長門の少弐頼直、筑前の宗像氏範らの支援を受け、多々良浜の戦いで菊池武敏を破って九州を制圧します。・・ 勢力を建て直した尊氏は、再び上洛を開始、光厳上皇の院宣を掲げ、西国の武士を傘下に収めました。・・ 尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破って京都を制圧、その後、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れました。やむなく和議に応じた後醍醐天皇は、光厳上皇の弟・光明天皇に皇位を譲ります。

こうして尊氏は建武式目を定めて武家政権の設立を宣言、一方の後醍醐は、三種の神器を持って京都を脱出すると吉野へ逃れ、自らが正等の天皇であると宣言して南朝を開きました。・・こうして大覚寺統・後醍醐天皇の南朝と、尊氏が奉じる持明院統・光明天皇の北朝が対立する南北朝時代がはじまりました。

時行と後醍醐天皇
延元二年(1337)時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属する。
同年12月には北畠顕家の軍に合流して鎌倉を奪還、翌年正月には美濃青野原の戦いに参加。
延元三年(暦応元・1338)9月、後醍醐天皇の皇子たちが船に乗り諸国へ下った際には、時行も船団のうちに加わっている。

1336年の年譜 ・建武三年 延元元年

1 足利軍、中先代軍を鎮圧して入京。
  後醍醐天皇は新田義貞と楠正成に尊氏追討を命じるが敗れ、比叡山に逃れる。
  体勢を整え直した新田義貞・北畠顕家軍、尊氏を破り丹波へ敗退させる。
1.13 信濃守護小笠原貞宗、村上信貞と協力して清瀧城を攻める。
1.17 清瀧城破却。
1.23 村上信貞、香坂心覚の籠る牧城を攻める。
2 足利尊氏、九州へ走る
2 北条時興・丹波右近大夫、深志介知光らと挙兵。
2.15 小笠原貞宗・村上信貞、吉良時衡とともに麻績御厨で時興らと戦う
3 多々良浜の戦い。足利尊氏、菊地武敏を破る。義良親王・北畠顕家、陸奥へ帰る。
4 足利尊氏、九州を出発、東上。
5 湊川の戦い。楠木正成戦死
6 名和長年戦死。
6.26~27 小笠原経義・村上信貞、牧城を攻める。
8 光明天皇(北朝)践祚。
11 足利尊氏、建武式目制定。
12 後醍醐天皇、吉野に走る。南北朝分裂。

概略
中先代の乱に勝利した足利尊氏の軍は京へ戻るが、天皇を差し置いた恩賞などをかってに行った尊氏に、武家社会の復活を危惧した後醍醐天皇は、新田義貞や楠正成に追討を命じる。しかしこれを打ち破った尊氏が京に凱旋したが、後醍醐天皇は尊氏追討を呼びかけ、呼応した北畠顕家や新田義貞に京都を追放されて、西日本へ逃げる。九州で、後醍醐派の菊地武敏を破ると、西日本は一斉に尊氏に靡き、尊氏は大軍を持って東上、京都を目指す。尊氏東上の最大の戦いは湊川の戦いで、楠正成などはここで戦死し、勝利を収めた尊氏は京に入り、孝明天皇(北朝)を建て、建武式目を制定する。
吉野へ逃げた後醍醐天皇は、北朝はあるべき体裁が整わないとして正統と認めず、南朝を建てる。こうして、以後長い南北朝時代に突入・・・・・
この時期、いまだ不安定で、各地で北条残党の蜂起が続く。