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1970年代は間もなく尽きようとしていた。私が企画したイベントで【パンク・ニューウェイブ】の2バンドが予定の演奏時間を大幅にオーバーしたため、メインの大物アーチストの文字通り出る幕が無くなり、このイベントは頓挫してしまった。彼らは私とはわずか5、6歳の違いしかなかった。しかし、私たち世代が投げ出した70年安保の挫折の総括と継承を見事にやってのけることが出来た。彼らの敵はコマーシャリズム(メジャー文化)への拒否であり、体制そのものへの反逆であった。その当時、政治への参加は完膚無きまでに喪われており、それを投げやりな演奏形態だけでなく、ファッションや言動など・・アンチ風俗の徹底である意味より過激化していた。70年安保当時のカウンターカルチャーの基調は【ラブ&ピース】であり、ドラッグによる【拡張意識】であり、どこまでも内省的であった。一方、まだ10年も経たないうちに内省は消失し、音も歌声もファッションも何もかもが外部に向かっていた。私が、70年代の前半の上京後に出遭った先行する人々は、皆一様に言葉の過激さに反して温和で優しく、親愛に満ちていた。互いの外部(他者)にこそ共通の敵が存在し、その敵と闘うためには互いに【被害者】である必要があったし、仲間意識を強める必要があったからである。ところが、わずか数年遅れてこの世界に割り込んで来た【パンク・ニューウェイブ】の年少の彼らは、己れの内部に敵というものを見ようとせず、ひたすら外部の目に見える他者を敵視した。70年安保の完膚無き敗北後に現れた巨大な《空虚》の中で、判別の付かない《全て》が敵であるかのように、見境無く言葉を発し、音楽をぶつけた。時の彼方にしかない、私たちの【70年安保】や【カウンターカルチャー】に対しても言葉の端々で揶揄し、吐き捨て、私たちが何を言ってもすでに負け犬の遠吠えでしかなかった。『お前のこれからの夢は買い物の計画だけだ』(セックス・ピストルズ)とは時代の真実の言葉だったのだ。・・・《続く》
春愁の街行く人に手を振れり 「天使の涎」売り切れ続く春愁 春愁のもひとつ先の哀れとは 春愁の故郷けっして遠からず 春愁やカバンに札束詰めて往く 春愁や1970年代まだ続く 萌えといふより春愁のはじけをり モー娘の道重さゆみ春愁い 船団をやめたが春愁またつのる 春愁を強め廃寺に火を放つ エグザイル的生き方春愁また春愁 春愁や犬より猫が好きと言え 入院のドタキャン春愁潔し 俳句愛好誌「海光」春愁い エヴァ1号機無人なり春愁 歌舞伎町は人種の坩堝春愁い
彼女は1952年生まれで、デビューは1971年(18歳)である。出身は福井県で、実家は鮮魚店であったという。実家が鮮魚店の歌手といえば、すぐに美空ひばりが浮かぶ。彼女もまた美空ひばりに憧れて歌手を目指した。1971年という時代は、70年安保直後の世の中が高度経済成長の真っ盛りで、日本全国どこにいても見るもの聞くものが日々変わって行った時代であった。また、その当時、戦後の自由と民主主義が飛躍的に成熟してゆく中で、都市と地方の違いや男と女、私と私以外の全ての他者との違い・・など、私をめぐる《全体》が大きく揺れ動いていた。その中で、常に【私が生まれて育ったところ】を背負いながら都市に向かっていたように思える。都市という存在は、決して《地方》と二律相反するものではなく、個々人にとっていつでも振り返ることの出来る自在な存在であったような気がする。現在64歳の野路由紀子さんは、1971年に18歳でデビューした。同時代の歌手に、藤圭子や自分でもカバーしている『瀬戸の花嫁』の小柳ルミ子がいる。70年代は、全世界に波及した変革の時代を経たのと同時に、変ることのない原点を確かめる時代でもあった。野路由紀子の歌声をいま振り返ってみると、その時代の新しさと変わることのない原点を、何の屈折感もなく背負い続けた同時代の感性の在り方を懐かしく想い出す。・・・《続く》
野路由紀子 『私が生まれて育ったところ』 1971
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=QbA9aKST10s#t=77
セックス・ピストルズの登場は衝撃的だった。私は1970年代前半の世代で、70年安保世代(世界規模のカウンター・カルチャー運動)に憧れ、彼らに続くべく上京した。ところが、あるのは彼らの残した精神の瓦礫だけだった。急激な経済成長と消費文化の進展の渦中で、私たちは【キリギリス世代】【モラトリアム世代】・・などと蔑まれ、街の片隅に追いやられた。そんな中で、いつしか70年代も終わりに近づくと、海の向こうから【パンク・ニューウェイブ】の波が押し寄せて来た。20歳代の後半に入り、シラケ切っていた同世代には、実に低次元のアナーキーなだけのけばけばしさだけしか目に留まらず、にもかかわらず一応ロックの形態を取っていただけに【ロックの徒花】としか映らなかった。しかし、彼らの行動や風俗を後に振り返ると、多くの点で的を得ており、もしかすると・・という期待感さえ抱かされた。街の片隅で縮こまっていた自分の胸ぐらを掴まれて、お前たちは本当に闘ったのか、本当に闘ったのなら、いまでも闘い続けているはずだ、そうだろう・・と吐き捨てられた思いがしたものだ。彼らは、彼らの紛れもない【現在】と闘っていた。そして、私たちもまた同じ様に闘っていたし、これから闘い続けると誓った。1980年代の本当に何も無い、スッカラカンの虚空に向かって秘かに拳を振り上げたのだった。・・・《続く》