今を去ること数十年前の学生の頃、ジャーナリズム志望の友人がいたが、部屋に入ると、いつも畳の床に新聞の山がいくつもあった。私は、当時から新聞をあまり真剣に読まない性格(たち)で、古い新聞などは図書館で読めばよいと思っていたので、大事に保存する意味が理解できなかった。というのは、私には本質的に近年のジャーナリズムに対する不信感があるからである。
この傾向がさらに強まったのは、以前のブログ
【麻生川語録・38】『新聞の逆さ読み』
で述べたように、アメリカ留学中に、新聞の記事を1ヶ月分まとめて、最新のものから読んだ時に、貴重な教訓を得たからでもあった。誤解されると困るのだが、私はジャーナリズムそのものの価値を否定している訳ではない。ジャーナリストが高い職業意識をもって情報収集することは立派なことであるのは言うまでもない。ただ、一般人である我々までそのディテールに巻き込まれる必要がないと言いたい。例えば、自家用車を購入しようとするとき、車の値段や、性能について、購入者が必要とする情報は収集するが、もし、車の開発者の苦労話を延々と聞かなければ買えないとしたら、一体どれぐらいの人が成約にまで至るであろうか?先方(車の開発者)の情報の全てを必要としていないのと同様のことがジャーナリズムについても言える。
現在のジャーナリズムが流す特ダネ記事や、事件の微に入り細を穿つ情報との付き合い方に気をつけないといけない。とりわけ、リベラルアーツのように、人類の長い歴史を俯瞰して生きる知恵を学び取ろうというのに、ジャーナリストばりにディテールを追いかけることに精力を費やしているのでは、要点を見失ってしまう。最も良い例が、最近の日中間、日韓間の問題であろう。常に、最近 100年の両国との関係ばかりが取沙汰されている。富士山を見上げている時に、蝶々がすぐ目の前に飛んでくれば、視界が遮られるが、それは何も蝶々が富士山より大きいからでないのは言うまでもない。それと同様、日中間、日韓間は百年ではなく、もっともっと時間的にも空間的にも長く広いスパンで眺める必要がある。中国、韓国、北朝鮮がことさら近代の問題をしつこく取り上げるのは、彼らの内政上の理由からだと割り切って考えるのがよい。
ついでに言うと、ジャーナリズムの度を越した大量の情報提供を非難するのと同じ論理で、Web、SNAやスマートフォンなどによる情報洪水についても私はかなり批判的な見方をしている。確かにこれらの器具は便利であり、必要な情報を手軽に入手できるという利点は認める。私自身も、普段の情報検索には多大な恩恵を蒙っている。しかしながら、自分が主体となり、必要な時にだけ、必要な情報を能動的に取りにいくのと、駄々漏れの情報を受動的に浴び続けているのとでは天地の差がある。残念ながら、現在の世の中、電車、バス、路上は言うまでもなく、自動車や自転車の運転中においても情報を浴びていないと不安になる人が非常に多い。立派な『情報のアヘン中毒』患者だ。
ローマの哲人・セネカが現在のSNSやスマートフォンの流行を二千年も前に、すでに見越していたかの如く、次の言葉を『心の平静について』に書き残している。
【原文】tam malorum quam bonorum longa conversatio amorem induit
(Seneca "De Tranquillitate Animi", 1.3.).
【私訳】長く付き合うと、良きにつけ悪しきにつけ、愛(いと)おしくなるものだ。
【英訳】Of things evil as well as good long intercourse induces love.
【独訳】Langes Vertrautsein macht uns zuletzt das Böse und das Gute gleich lieb.
セネカは「悪いと分かっていても、長い間、それと付き合っていると、次第にその悪さにマヒしてしまう」と警鐘を鳴らしているのだ。かつては、テレビゲームが年少者の脳に悪影響を与えるので、遊ぶ時間を制限しないといけないと、保護者や教育者たちが騒いでいたが、今や大人たちも同じようにSNS、スマートフォン中毒にかかっている。何ってことはない、ミイラ取りがミイラとなってしまったので、もはや子供に対して小言を言える立場にない。我々が戦争記録映画でヒトラーの煽情的なジェスチャーと言葉にドイツの民衆が熱狂する場面を見ると「何とバカな!」と呆れる。翻(ひるがえ)って、現在の人々がスマートフォンに夢中になっている姿が記録映画に残されて、数百年後に未来の人々が見ると、きっと同じように呆れかえることであろうと私は想像する。
この傾向がさらに強まったのは、以前のブログ
【麻生川語録・38】『新聞の逆さ読み』
で述べたように、アメリカ留学中に、新聞の記事を1ヶ月分まとめて、最新のものから読んだ時に、貴重な教訓を得たからでもあった。誤解されると困るのだが、私はジャーナリズムそのものの価値を否定している訳ではない。ジャーナリストが高い職業意識をもって情報収集することは立派なことであるのは言うまでもない。ただ、一般人である我々までそのディテールに巻き込まれる必要がないと言いたい。例えば、自家用車を購入しようとするとき、車の値段や、性能について、購入者が必要とする情報は収集するが、もし、車の開発者の苦労話を延々と聞かなければ買えないとしたら、一体どれぐらいの人が成約にまで至るであろうか?先方(車の開発者)の情報の全てを必要としていないのと同様のことがジャーナリズムについても言える。
現在のジャーナリズムが流す特ダネ記事や、事件の微に入り細を穿つ情報との付き合い方に気をつけないといけない。とりわけ、リベラルアーツのように、人類の長い歴史を俯瞰して生きる知恵を学び取ろうというのに、ジャーナリストばりにディテールを追いかけることに精力を費やしているのでは、要点を見失ってしまう。最も良い例が、最近の日中間、日韓間の問題であろう。常に、最近 100年の両国との関係ばかりが取沙汰されている。富士山を見上げている時に、蝶々がすぐ目の前に飛んでくれば、視界が遮られるが、それは何も蝶々が富士山より大きいからでないのは言うまでもない。それと同様、日中間、日韓間は百年ではなく、もっともっと時間的にも空間的にも長く広いスパンで眺める必要がある。中国、韓国、北朝鮮がことさら近代の問題をしつこく取り上げるのは、彼らの内政上の理由からだと割り切って考えるのがよい。
ついでに言うと、ジャーナリズムの度を越した大量の情報提供を非難するのと同じ論理で、Web、SNAやスマートフォンなどによる情報洪水についても私はかなり批判的な見方をしている。確かにこれらの器具は便利であり、必要な情報を手軽に入手できるという利点は認める。私自身も、普段の情報検索には多大な恩恵を蒙っている。しかしながら、自分が主体となり、必要な時にだけ、必要な情報を能動的に取りにいくのと、駄々漏れの情報を受動的に浴び続けているのとでは天地の差がある。残念ながら、現在の世の中、電車、バス、路上は言うまでもなく、自動車や自転車の運転中においても情報を浴びていないと不安になる人が非常に多い。立派な『情報のアヘン中毒』患者だ。
ローマの哲人・セネカが現在のSNSやスマートフォンの流行を二千年も前に、すでに見越していたかの如く、次の言葉を『心の平静について』に書き残している。
【原文】tam malorum quam bonorum longa conversatio amorem induit
(Seneca "De Tranquillitate Animi", 1.3.).
【私訳】長く付き合うと、良きにつけ悪しきにつけ、愛(いと)おしくなるものだ。
【英訳】Of things evil as well as good long intercourse induces love.
【独訳】Langes Vertrautsein macht uns zuletzt das Böse und das Gute gleich lieb.
セネカは「悪いと分かっていても、長い間、それと付き合っていると、次第にその悪さにマヒしてしまう」と警鐘を鳴らしているのだ。かつては、テレビゲームが年少者の脳に悪影響を与えるので、遊ぶ時間を制限しないといけないと、保護者や教育者たちが騒いでいたが、今や大人たちも同じようにSNS、スマートフォン中毒にかかっている。何ってことはない、ミイラ取りがミイラとなってしまったので、もはや子供に対して小言を言える立場にない。我々が戦争記録映画でヒトラーの煽情的なジェスチャーと言葉にドイツの民衆が熱狂する場面を見ると「何とバカな!」と呆れる。翻(ひるがえ)って、現在の人々がスマートフォンに夢中になっている姿が記録映画に残されて、数百年後に未来の人々が見ると、きっと同じように呆れかえることであろうと私は想像する。