限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第270回目)『中・欧の印刷産業発展のきっかけ』

2016-04-03 23:35:31 | 日記
晋の時代というのは、日本人(および中国人)が大好きな三国志の次の時代である。残念ながら、晋代には三国志に登場するような、超メガ級の有名人に乏しいので、一般には至って影の薄い時代であろう。そのような世間の意向とは逆に、私は大学入学と同時に、晋の時代にはまってしまった。それについては、以前のブログ 想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』に書いた通りである。

晋代のことを知りたくて『世説新語』を平凡社の古典文学大系にある現代語訳で通読した。ストーリーが面白いので、すぐに読んでしまった。その後、漢文を標点式でも読めるようになって中華書局の標点本を手に入れた。そして、真打ちとして、昭和初期に発行された有朋堂の『漢文叢書・世説新語』を入手したのが、前世紀も終わろうとしていたころだ。つまり『世説新語』の存在を知ってから 20年たってようやく、この本にまつわるフルセット(原文、読み下し文、現代語訳)が揃い、何回か通読した。このように『世説新語』はいわば私にとっては愛読書であるのだ。

晋代の人物だけでなく、三国志の人物も登場する。たとえば魏の曹操などは、20回も登場する。それに対し、諸葛孔明(諸葛亮)はわずか4回しか見えない。三国志の人気ぶりとは逆転している。

さて、曹操であるが、部下に頭の回転が滅法早い楊脩という才人が居た。流石の曹操も IQでは彼にかなわなかった。たとえば次のような話がある。

ある時、石碑の上部に「黄絹幼婦、外孫齏臼」という謎めいた文字が彫ってあった。それを見た楊脩は瞬時に意味が分ったが、曹操は分からなかった。それで馬に揺られながら、30里(十数 Km)行ったところでようやく、意味が分かった。この謎の文字は『絶妙好辞』と言う意味だと。曹操は楊脩に「ワシの才能は君より30里劣る」といったそうな。

【原文】魏武嘗過曹娥碑下、楊脩従、碑背上見題作「黄絹幼婦、外孫齏臼」八字。魏武謂脩曰:「解不?」答曰:「解。」魏武曰:「卿未可言、待我思之。」行三十里、魏武乃曰:「吾已得。」令脩別記所知。脩曰:「黄絹、色糸也、於字為絶。幼婦、少女也、於字為妙。外孫、女子也、於字為好。齏臼、受辛也、於字為辞。所謂『絶妙好辞』也。」魏武亦記之、与脩同、乃嘆曰:「我才不及卿、乃覚三十里。」(『世説新語』捷悟)



全く話はかわるが、昨日(2016年4月2日)東京で第16回『リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』を開催した。

私は『整版印刷・活字印刷 日本と朝鮮の比較』というテーマで話をした。内容としては、日本の木版印刷と朝鮮の活字印刷の実物を見ながら、それを作った技術を通して社会の実態を知る、ということで、私としては話の主眼を朝鮮(韓国)に置いたつもりであった。

ところが、講演のあと、会場からの質問で、守備範囲の日本+朝鮮ではなく、ヨーロッパと中国に関するものがあった。それも、印刷業がなぜ盛んになったのか、という量的拡大の理由を問うものであった。

当日の私の話しには確かに主役の日本と朝鮮以外に、脇役としてヨーロッパと中国の印刷の歴史も話をしたが、それは私にとってはあくまでも参考のためという位置づけだった。しかし、そこが質問された。とっさに頭に浮かんだのは、中国では科挙制度の確立で、参考書としての儒教の教科書(いわゆる、四書五経)の需要の増大があったことだった。ヨーロッパはルネッサンスの発展によるものだと思い、そのように答えたが、自分自身でもあまり納得のいく答ではなかった。

私が答えたあとで、出口さん(ライフネット生命・出口治明会長兼CEO)がヨーロッパでは、ルターの宗教改革により、アジびらのパンフレットの印刷需要が増大した旨、などいくつかの点を指摘された。

帰り道、電車の中で中国の事情に関して考えていて、ようやくあることを思い出した。それは、宋の直前、五代十国の末期の宰相・馮道(ふうどう)が起こした一大文化事業であった。

その文化事業とは、九経(つまり、儒教の模範テキスト)を厳密に文字校訂して、木版にて印刷したことだ。(五代十国は戦乱の世でありながら、軍備ではなく文化方面に国家予算を割くなどとは、肝っ玉のちいさい某国の文化相など足元にも及ばない慧眼だと言っていいだろう)

それまでは、たいていの本は写本で流通していたので、写し間違いが多かった。たとえば、
 『魚を3回写したら、魯になるし、同じく、虚は虎となる』
 (猶尚写之多誤。故諺曰、書三写、魚成魯、虚成虎、此之謂也)

という諺もある位だと、『抱朴子』(巻19・遐覧)はいう。

このような状況だったので、厳密な校訂テキストが簡便な形で出版されたことは非常に意義深かった。馮道が始めた儒教テキストの出版事業が結果的に宋代の印刷産業の隆盛の礎となった。

一方ヨーロッパでは、グーテンベルクの活字印刷(1445年頃)から 1500年までの間に出版されたものは、インキュナブラとして特別な取扱いを受ける。この時代の出版の中心はイタリアとドイツで、ある。そして出版物も、ドイツでは宗教関係が大部分である一方で、イタリアではギリシャやラテンの古典の出版が大部分であるという。さらに言語的には3/4がラテン語であったようだ。(『本の五千年史』P.223)

16世紀に入りルターの宗教改革があってからは、当日出口さんが述べられたように、宗教のパンフレットなど宗教関連のものが刷られた。つまりルターの聖書および宗教プロパガンダ文書に印刷がフルに活用された。何しろ一社だけで、15年間に10万部以上のルターの聖書を印刷した会社もあったほどだ。(『書物の本』P.99)このような経緯を経て、中国やヨーロッパの印刷業は発展したということがいえる。

これを以て、昨日の質問の答えとしたい。曹操はたかだか15Km(30里)で見事答えを見つけたが、私はその倍以上かかってしまったという次第。昨日のフォーラムの席では、質問に正しく答えることができなかったが、このような困った質問は実は歓迎しなければいけないと、戦国末の儒者・荀子は次のように言う。
 『私の弱点を突いてくる人は、我が師だ』
 (非我而当者、吾師也)


当日の質問された方の名前を伺うのを失念したが、「困らせてくれてありがとう!」と感謝申し上げたい。

【参考資料】
 『中国の書物と印刷』(日本エディタースクール出版部)、張紹 (高津孝訳)
 『馮道』(中公文庫)砺波護
 『中国の印刷術』(平凡社東洋文庫)T・F・カーター (薮内清・訳)
 『定本 庄司淺水著作集 書誌編 第12巻・本の五千年史』(出版ニュース社)庄司淺水
 『書物の本』(叢書・ウニベルシタス)ヘルムート・プレッサー (轡田収・訳)
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