これは荘子が出典で、『人生天地の間、白駒の隙を過ぐるがごとし』と読む。意味は、人生は一瞬だということだ。
私には、このフレーズは意味ではなく、視覚的(ビジュアル)なイメージを呼び起こすところに感心している。この句を読むたびに、白馬がたてがみをなびかせて疾駆し、それを戸の隙間から、瞬間ちらりと見える情景を想像してしまう。ビジュアルなイメージを持たすことで、論理のよしあしではなく、感性的に説得するという、古代ギリシャでいうソフィスト、古代中国でいう遊説家たちの得意なパターンである。駆けるのが、白馬でなくとも、意味は変わらないはずだが、白という鮮やかな印象を与える字を選んだところが流石だ。
さて、この句には、多少バリエーションを変えたものもある。それは、史記には、巻55・留侯世家と、巻90・魏豹彭越列伝の2ヵ所では『人生一世間、如白駒過隙』となっている。いずれの場合も、権力者(呂后、漢王・劉邦)に無理強いされる臣下の哀愁漂う場面に登場する。
ところで、荘子の句より史記の方が意味がはっきりと分かるが、私は荘子の句『人生天地之間』の方が、天地の間に生きているのだ、という実感をよびおこすので好きだ。
私には、このフレーズは意味ではなく、視覚的(ビジュアル)なイメージを呼び起こすところに感心している。この句を読むたびに、白馬がたてがみをなびかせて疾駆し、それを戸の隙間から、瞬間ちらりと見える情景を想像してしまう。ビジュアルなイメージを持たすことで、論理のよしあしではなく、感性的に説得するという、古代ギリシャでいうソフィスト、古代中国でいう遊説家たちの得意なパターンである。駆けるのが、白馬でなくとも、意味は変わらないはずだが、白という鮮やかな印象を与える字を選んだところが流石だ。
さて、この句には、多少バリエーションを変えたものもある。それは、史記には、巻55・留侯世家と、巻90・魏豹彭越列伝の2ヵ所では『人生一世間、如白駒過隙』となっている。いずれの場合も、権力者(呂后、漢王・劉邦)に無理強いされる臣下の哀愁漂う場面に登場する。
ところで、荘子の句より史記の方が意味がはっきりと分かるが、私は荘子の句『人生天地之間』の方が、天地の間に生きているのだ、という実感をよびおこすので好きだ。
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