仏教が中国に伝来したのは、前回説明した後漢よりは、実はずっと前の時代であったというのが定説であるらしい。しかし仏教が社会的に認知された歴史の変節点が、後漢の明帝の時であった。とは言うものの、あたかも明帝自身が一夜にして仏教徒となったと考えるのは早計だ。明帝は、安定した世の中の精神的主柱として仏教ではなく儒教を打ち立てようとしていた。
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資治通鑑(中華書局):巻45・漢紀37(P.1449)
明帝は儒学を尊んでいた。皇太子はじめ、自分の子供たちや王族や重臣の子供たちにすべて儒学を学ばせた。それだけではなく、皇后や妃たちなどの王家の親族筋の子弟のために『四姓小侯』と名づけた学校を建てた。五経を教える先生を厳選の上、雇用した。下級官僚には、『孝経』だけはしっかり学べと訓戒した。あの匈奴ですら子弟を入学させて欲しいと言ってきた。
帝崇尚儒學,自皇太子、諸王侯及大臣子弟、功臣子孫,莫不受經。又爲外戚樊氏、郭氏、陰氏、馬氏諸子立學於南宮,號「四姓小侯」。置《五經》師,搜選高能以授其業。自期門、羽林之士,悉令通《孝經》章句。匈奴亦遣子入學。
帝、儒学を崇尚す。皇太子より、諸王侯、及び大臣子弟、功臣子孫(に至るまで)経を受けざるはなし。また外戚、樊氏、郭氏、陰氏、馬氏の諸子のために南宮に学(校)を建て、「四姓小侯」と号す。《五経》の師を置く。高能を捜選し、もってその業をさずく。期門、羽林の士より、悉く、《孝経》の章句に通ぜしむ。匈奴もまた子を遣りて、入学す。
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この文章からわかるように教育の正式なカリキュラムには『五経』(易、書、詩、礼記、春秋)が採用されていたのだが、実践的には、『孝経』だけで十分だった、と分かる。建前と本音の差だ。
この《孝経》という経典には、親孝行せよ、という趣旨が冒頭からずっと一貫して述べられている。孔子が言うには、『親孝行とは、体を大切にし、立身出世して、親を喜ばせ』というのだ。
子曰『夫孝、徳之本也。。。身體髮膚、受之父母、不敢毀傷孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顯父母、孝之終也』
(子曰く『それ孝は徳の本なり。。。身体髪膚、これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て、道を行い、名を後世に揚げ、もって父母を顕(あら)わすは、孝の終りなり』
さて、わが国にも遣唐使を通じて孝経のブームが到来した、と記録されている。唐に渡った留学僧たちは、かの地での孝経の隆盛を見聞し、これは是非日本に広めるべきだと、考えたようだ。続日本紀によると、各家に孝経を一冊ずつ備え、読んで暗記せよという布告をだせ、と進言している。
続日本紀(20巻、天平寶字元年、AD757年)『古者、治民安國必以孝理。百行之本莫先於茲。宜令天下、家藏孝經一本、精勤誦習。倍加教授。百姓間有孝行通人』
当時漢字というのが極く一部の貴族・知識人にしか知られていなかった状況から想像するに、現代にたとえると日本の一般庶民にたいしてヘブライ語でかかれた旧約聖書を読め、というぐらい無謀なことのように私には思える。しかし、実質問題として、紙が貴重品である上に、筆写できる人が少ない状況で、どうやって孝経のコピーをつくるのか、またその費用は、などという経済的観点で立ち往生しているはずだ。その証拠に、孝経に関しては宮中などで多少読まれた形跡があるものの、民間に広まったという事跡を聞かない。
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資治通鑑(中華書局):巻45・漢紀37(P.1449)
明帝は儒学を尊んでいた。皇太子はじめ、自分の子供たちや王族や重臣の子供たちにすべて儒学を学ばせた。それだけではなく、皇后や妃たちなどの王家の親族筋の子弟のために『四姓小侯』と名づけた学校を建てた。五経を教える先生を厳選の上、雇用した。下級官僚には、『孝経』だけはしっかり学べと訓戒した。あの匈奴ですら子弟を入学させて欲しいと言ってきた。
帝崇尚儒學,自皇太子、諸王侯及大臣子弟、功臣子孫,莫不受經。又爲外戚樊氏、郭氏、陰氏、馬氏諸子立學於南宮,號「四姓小侯」。置《五經》師,搜選高能以授其業。自期門、羽林之士,悉令通《孝經》章句。匈奴亦遣子入學。
帝、儒学を崇尚す。皇太子より、諸王侯、及び大臣子弟、功臣子孫(に至るまで)経を受けざるはなし。また外戚、樊氏、郭氏、陰氏、馬氏の諸子のために南宮に学(校)を建て、「四姓小侯」と号す。《五経》の師を置く。高能を捜選し、もってその業をさずく。期門、羽林の士より、悉く、《孝経》の章句に通ぜしむ。匈奴もまた子を遣りて、入学す。
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この文章からわかるように教育の正式なカリキュラムには『五経』(易、書、詩、礼記、春秋)が採用されていたのだが、実践的には、『孝経』だけで十分だった、と分かる。建前と本音の差だ。
この《孝経》という経典には、親孝行せよ、という趣旨が冒頭からずっと一貫して述べられている。孔子が言うには、『親孝行とは、体を大切にし、立身出世して、親を喜ばせ』というのだ。
子曰『夫孝、徳之本也。。。身體髮膚、受之父母、不敢毀傷孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顯父母、孝之終也』
(子曰く『それ孝は徳の本なり。。。身体髪膚、これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て、道を行い、名を後世に揚げ、もって父母を顕(あら)わすは、孝の終りなり』
さて、わが国にも遣唐使を通じて孝経のブームが到来した、と記録されている。唐に渡った留学僧たちは、かの地での孝経の隆盛を見聞し、これは是非日本に広めるべきだと、考えたようだ。続日本紀によると、各家に孝経を一冊ずつ備え、読んで暗記せよという布告をだせ、と進言している。
続日本紀(20巻、天平寶字元年、AD757年)『古者、治民安國必以孝理。百行之本莫先於茲。宜令天下、家藏孝經一本、精勤誦習。倍加教授。百姓間有孝行通人』
当時漢字というのが極く一部の貴族・知識人にしか知られていなかった状況から想像するに、現代にたとえると日本の一般庶民にたいしてヘブライ語でかかれた旧約聖書を読め、というぐらい無謀なことのように私には思える。しかし、実質問題として、紙が貴重品である上に、筆写できる人が少ない状況で、どうやって孝経のコピーをつくるのか、またその費用は、などという経済的観点で立ち往生しているはずだ。その証拠に、孝経に関しては宮中などで多少読まれた形跡があるものの、民間に広まったという事跡を聞かない。
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