限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第268回目)『ブログ連載、5000日を迎えて ― 原典を読む重要性』

2023-01-02 10:32:30 | 日記
今日で本ブログ開始後、5000日を迎えた。

本ブログを始めたのは、今から14年近く前の、2009年4月25日であった。当時、私は京都大学の産官学連携本部の准教授をしていて、リベラルアーツの授業を 4つ受け持っていた。 2つは、京都大学の教養課程の京大の学生向け、あとの2つは交換留学生向けの英語の授業であった。当初は授業で伝え忘れた、あるいは補足する内容を書くためにこのブログに記事を書いていた。書くべきことが次々と浮かんできたので、ほぼ毎日のように書いていた。2年程そうしていたが、次第に書くべきことが少なくなり、2周年を迎えて【減筆宣言】をした。

2012年に京都大学を辞してからは、フリーランサーとして、リベラルアーツに関する講演や収録、および企業研修をしてきた。その中でも感慨深いのはなんといっても、8冊の本を出版できたことだ。確かに、ブログは自由に意見を発信できるメリットはあるものの、情報発信のリーチ(到達範囲)が限定的だ。それに比べると、本はブログの100倍ほど面倒ではあるが、それでも社会全体に対して発言することができる。この意味で、アップルシード・エージェンシー社、とりわけ栂井理恵さんのご尽力で多くの本を出版できたことに感謝している。

さて、昨年(2022年)は、日立評論のWebサイトに科学技術史の記事を連載して頂いた。この内容は下記の通りだ。

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第1章]科学・技術史を学ぶ必要性
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol05/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol06/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol07/index.html

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第2章]ギリシャ科学技術概説
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol13/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol14/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol15/index.html

科学・技術史から探るイノベーションの萌芽:[第3章]ローマ・ヘレニズム科学技術概説
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol18/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol19/index.html
https://www.hitachihyoron.com/jp/column/content/vol20/index.html

これら9本の連載記事(続編もあり)では意図的に、個人的体験を前に出す書き方にした。というのは、一般的な説明であれば、すでに関連図書がかなり多く存在しているので、何も私がしゃしゃり出て書くまでもないことだ。しかし、私の個人的体験を入れて書くことで、日本の学界・社会・製造業界が抱えている雑多な問題点を主観的に批評することが比較的やりやすくなった。つまり、工学部でも科学技術史は大学では教えてもらわなかったし、私自身も学ぼうという気が湧かなかった、という率直な感想を述べた。私が特別に「アンチ科学技術史」であったということでなく、当時(1970年代)の日本の理科系学部では軒並みそうであったではなかろうか。拡大解釈すれば、これは私の個人的問題ではなく日本全体の問題だということだ。



日立評論の科学技術史の連載を書きながら再認識したのは原典を読む重要性だ。

「原典を読む」は何も科学技術史に限ったことでなく、歴史、文学、哲学、宗教、思想など全てに於いて、重要だ。現在、SNAなどのショートメッセージ主流のサイトによって、日本人の読解力や文章構築力はかなり低下していると私は感じる。この傾向を助長しているのが「あらすじで読む…」式のダイジェスト版の出版だ。よく似た意味で、NHKの番組「100分de名著」も問題を感じる。このような形式で、名著に対して関心を喚起すること自体は全く悪くないと思っているが、これだけであたかも原典を読んだ気になって、本当の原典を読むに至らないのは、誠に勿体ない。ご存じのように、徒然草の第52段に、石清水を詣でた法師が山の麓まで来て、山頂の本殿に参らずに帰ったという話がある。兼好はせっかくのことに勿体ないとして「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」とのコメントを最後に記している。

あらすじを紹介した抄本や解説書はあたかも車で高速道路を走るような感覚で、安定感はあるが驚きはない。それに反し、現代とは異なる価値観や人生観によって書かれた原典を読むのは原野の中を四輪駆動でがたがたと走るようなもので、常に予想もつかない事態に出会う驚きに満ちている。つまり、原典には常に刺激的な発見がある。是非、「あらすじ」や解説書で済ませてしまうのではなく本体の原典に取り組んでほしい。始めは原典など、とっかかり難いと思われるかもしれないが、思い切って読んでみると案外読みやすいことに驚かれることだろう。

さて、日立評論の連載では、科学技術書の原典を多く紹介したが、私自身を振り返っても、解説書で記憶に残る本は少ない。原典はなぜだか長く記憶に残るから。もっとも原典といっても原語で読むのは流石に難しいので、和訳でよいからチャレンジして欲しい。ただ、英語は勿論のこと、英語以外の語学にも挑戦する、という心構えで原書にアタックすることをお勧めする。英語は現在のグローバル環境では他のどの言語より重要なのはいうまでもない。現在、英語力向上のためにTOEICのドリルを学ぶ人は多いが、英語 「を」 学ぶのではなく、英語 「で」 学んでほしい。つまり、ドリルではなく自分の興味のもつテーマの英書を読むことだ。

原典や原書に私がこだわるのには、理由がある。

半世紀も前の高校生の時、大学受験雑誌に、釜洞醇太郎・大阪大学学長の 4センチ角ほどの小さなコラムが載っていた。釜洞氏の専門は医学であるが「原典・原書を読め」との文句が強烈に私の脳に突き刺さった。この言葉に背を押されるように、私はなるべく原書にアタックした。当初は英語しか出来なかったが、ドイツ留学を機にドイツ語も楽に読めるようになり、次第に他の言語(フランス語、ラテン語、古典ギリシャ語、オランダ語、漢文)に手を広げた。多くの言語に接して「英語だけ学んでいても英語は上達しない」ことに気づいた。というのは多くの言語を学ぶことで、言語の機能そのものに対する多くのリファレンスポイントを持つことができるからだ。それは我々の母国語である日本語を第三者的な視点で考えるきっかけとなる。喩えていえば、英語だけを学ぶのはあたかも一本の直線を伸ばすようなものだが、多くの言語を学ぶのは面的に伸びていくようなものだ。三角形でいえば英語だけというのは狭い基底の三角形で、高くなるとふらふらし、倒れそうであるが、多言語を学ぶと広い基底の三角形のようで、高くなっても安定性がある。

ただ、原典、原書を読むというのは、非常に時間がかかる。数ヶ月かかってようやく一冊の本を読了するような亀ペースではあるが、一日にビジネス書三冊のような安チョコな兔(うさぎ)ペースの読書からはとても想像できない奥深い世界を知ることができる。是非、トライしてみて欲しい。

【参照ブログ】
 【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』
 【麻生川語録・33】『鯨を一匹まるごと食べる式の読書法』
コメント
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