(前回)
【187.糾合 】P.2801、AD313年
『糾合』とは「多くの人、あるいは物を集める」という意味。胡三反は『糾』を次のように説明する。「糾とは繩を三つ編みにすることをいう。つまり、三つを合わせてひとつにすること」(繩三合爲糾。糾、言合三爲一也)
類似の意味の語句に『九合』や『鳩合』がある。現代中国語でどう発音するか私は知らないが、日本語ではいづれも「きゅうごう」と同じ発音となる。
二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でのこれらの語句の出現回数をチェックすると、次表のようになる。

これから分かるように、古代ではむしろ『九合』が多い。三国志から唐まで、『九合』と『糾合』が並行的に使われていたが、宋以降は『糾合』に一本化されたことが分かる。また『鳩合』は主として、三国志、晋書、ならびに旧唐書に見える程度である。
尚、日本で良く使われている「鳩首協議」の『鳩首』は私の漢文検索システムでは使用例は見つからない。これから、「峠」や「畠・畑」は国字と言われるが、その流儀で言えば「鳩首」は「国句」とでも名付けられよう。

さて、資治通鑑で『糾合』が使われている場面だが、西晋末に、祖逖という熱血漢の武将が現れた。
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范陽の祖逖は少年のころから大志を抱いていた。劉琨と一緒に司州の下級役人(主簿)になり、一緒の部屋で寝ていた。ある晩、夜中に鶏の鳴くこえを聞いた途端に劉琨を蹴って起こし「おい、聞いたか、なんと縁起のいい声だ!」うれしくなって立ち上がり、舞い踊った。中原地方に戦乱が広がったので、揚子江を渡って南に言った。左丞相の司馬睿(後の東晋の元帝)に仕えて、軍諮祭酒となった。祖逖は京口に住んで、腕っぷしのつよい元気な若者を糾合し、司馬睿にこう訴えた。「晋の帝室は今や混乱し、指導者は無道で、庶民は反乱ばかり。宮廷内の争いで、誰もが犬死するしまつ。挙句の果てに、戎狄につけこまれて、全土が荒れ果ててしまっています。取り残された人々は、盗賊の餌食となるばかりです。皆、何とかしたいと思っているはずです。殿が将軍を任命して軍を出すつもりなら、私にその役目を仰せ付けください。そうすれば、諸国の豪傑を雲霞のごとく集め、必ずや中原を奪回してみせます!」司馬睿は、本当のところは北伐す意志はなかったが、祖逖があまりにもいうものだから奮威将軍、兼、予州刺史に任命し、千人分の食糧と布、三千疋を支給したた。ただし、鎧兜や兵器は支給せず、兵隊も自分で集めてこいと命じた。祖逖は自分の領土の村の百軒あまりの人達と揚子江を渡っているとき、川の中ほどで、楫を叩いて、誓って言った。「ワシは中原を完全に奪回するまでは、この川を渡って故郷には絶対戻らないぞ!」
初、范陽祖逖、少有大志、与劉琨倶為司州主簿、同寝、中夜聞鶏鳴、蹴琨覚曰:「此非悪声也!」因起舞。及渡江、左丞相睿以為軍諮祭酒。逖居京口、糾合驍健、言於睿曰:「晋室之乱、非上無道而下怨叛也、由宗室争権、自相魚肉、遂使戎狄乗隙、毒流中土。今遺民既遭残賊、人思自奮、大王誠能命将出師、使如逖者統之以復中原、郡国豪傑、必有望風響応者矣!」睿素無北伐之志、以逖為奮威将軍、予州刺史、給千人廩、布三千疋、不給鎧仗、使自召募。逖将其部曲百余家渡江、中流、撃楫而誓曰:「祖逖不能清中原而復済者、有如大江!」
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その後の歴史が示すように、祖逖の縦横無尽の活躍にも拘らず、結局、東晋は中原を完全に奪回することはできず、時代は五胡十国、南北朝へと入っていく。
(続く。。。)
【187.糾合 】P.2801、AD313年
『糾合』とは「多くの人、あるいは物を集める」という意味。胡三反は『糾』を次のように説明する。「糾とは繩を三つ編みにすることをいう。つまり、三つを合わせてひとつにすること」(繩三合爲糾。糾、言合三爲一也)
類似の意味の語句に『九合』や『鳩合』がある。現代中国語でどう発音するか私は知らないが、日本語ではいづれも「きゅうごう」と同じ発音となる。
二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でのこれらの語句の出現回数をチェックすると、次表のようになる。

これから分かるように、古代ではむしろ『九合』が多い。三国志から唐まで、『九合』と『糾合』が並行的に使われていたが、宋以降は『糾合』に一本化されたことが分かる。また『鳩合』は主として、三国志、晋書、ならびに旧唐書に見える程度である。
尚、日本で良く使われている「鳩首協議」の『鳩首』は私の漢文検索システムでは使用例は見つからない。これから、「峠」や「畠・畑」は国字と言われるが、その流儀で言えば「鳩首」は「国句」とでも名付けられよう。

さて、資治通鑑で『糾合』が使われている場面だが、西晋末に、祖逖という熱血漢の武将が現れた。
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范陽の祖逖は少年のころから大志を抱いていた。劉琨と一緒に司州の下級役人(主簿)になり、一緒の部屋で寝ていた。ある晩、夜中に鶏の鳴くこえを聞いた途端に劉琨を蹴って起こし「おい、聞いたか、なんと縁起のいい声だ!」うれしくなって立ち上がり、舞い踊った。中原地方に戦乱が広がったので、揚子江を渡って南に言った。左丞相の司馬睿(後の東晋の元帝)に仕えて、軍諮祭酒となった。祖逖は京口に住んで、腕っぷしのつよい元気な若者を糾合し、司馬睿にこう訴えた。「晋の帝室は今や混乱し、指導者は無道で、庶民は反乱ばかり。宮廷内の争いで、誰もが犬死するしまつ。挙句の果てに、戎狄につけこまれて、全土が荒れ果ててしまっています。取り残された人々は、盗賊の餌食となるばかりです。皆、何とかしたいと思っているはずです。殿が将軍を任命して軍を出すつもりなら、私にその役目を仰せ付けください。そうすれば、諸国の豪傑を雲霞のごとく集め、必ずや中原を奪回してみせます!」司馬睿は、本当のところは北伐す意志はなかったが、祖逖があまりにもいうものだから奮威将軍、兼、予州刺史に任命し、千人分の食糧と布、三千疋を支給したた。ただし、鎧兜や兵器は支給せず、兵隊も自分で集めてこいと命じた。祖逖は自分の領土の村の百軒あまりの人達と揚子江を渡っているとき、川の中ほどで、楫を叩いて、誓って言った。「ワシは中原を完全に奪回するまでは、この川を渡って故郷には絶対戻らないぞ!」
初、范陽祖逖、少有大志、与劉琨倶為司州主簿、同寝、中夜聞鶏鳴、蹴琨覚曰:「此非悪声也!」因起舞。及渡江、左丞相睿以為軍諮祭酒。逖居京口、糾合驍健、言於睿曰:「晋室之乱、非上無道而下怨叛也、由宗室争権、自相魚肉、遂使戎狄乗隙、毒流中土。今遺民既遭残賊、人思自奮、大王誠能命将出師、使如逖者統之以復中原、郡国豪傑、必有望風響応者矣!」睿素無北伐之志、以逖為奮威将軍、予州刺史、給千人廩、布三千疋、不給鎧仗、使自召募。逖将其部曲百余家渡江、中流、撃楫而誓曰:「祖逖不能清中原而復済者、有如大江!」
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その後の歴史が示すように、祖逖の縦横無尽の活躍にも拘らず、結局、東晋は中原を完全に奪回することはできず、時代は五胡十国、南北朝へと入っていく。
(続く。。。)